番外編 「あなたと歩く秋の街」
【 scorpion - 星々の世界 - 】の番外編です。
是非本編を読んでからまたお越しください。
朝の執務室には、紙をめくる音だけが響いていた。
ルカ・イヴェールは机に向かい、山積みになった書類へ目を通していた。
窓の外では、秋の風が庭木を揺らしている。
鮮やかだった葉も少しずつ色を変え、庭の片隅には落ち葉が溜まり始めていた。
ふと、ルカは手を止めた。
今日は、セレナが表の仕事から離れている日だったはずだ。
この季節、彼女は人前に出る機会を減らしている。領地や組織の仕事は続けているものの、以前のように社交の場へ顔を出すことはほとんどなくなった。
それでも、屋敷の中ではいつもと変わらない。
部下の報告を聞き、必要な指示を出し、時には厳しい言葉で相手を叱る。
そして、誰も見ていないところで、ふと遠くを眺めることがある。
ルカはその横顔を知っていた。
自分と同じように、娘の帰りを待ち続けている横顔を。
「……よし」
ルカはペンを置いた。
残りの書類は午後に回すことにして、椅子から立ち上がる。
今日くらいは、少しだけ。
ほんの少しだけでも、彼女を外へ連れ出したかった。
*
「セレナ」
温室の扉を開けると、彼女はいつものソファーに腰掛けていた。
机の上には書類が数枚。傍らには灰皿と、火をつけたばかりのタバコが置かれている。
セレナは顔を上げると、穏やかに微笑んだ。
「あら、ルカ。どうしたの?」
「少し時間はあるかな?」
「ええ。ちょうど一段落したところよ」
そう答えながら、セレナは書類を重ねた。
「何かあったの?」
「いや、何も。……だから、出かけないかと思って」
「出かける?」
セレナが目を瞬かせた。
「うん。街まで」
「あなた、仕事は?」
「午後に回した」
「まあ」
セレナは小さく笑った。
「珍しいこともあるのね。あなたが自分から仕事を後回しにするなんて」
「たまにはいいだろう?」
「そうね。たまには、ね」
彼女はそう言って、机の上の書類へ視線を落とした。
「でも、私はまだ少し仕事が――」
「セレナ」
ルカは静かに彼女の名を呼んだ。
セレナの手が止まる。
「……今日は、私と一緒に過ごしてくれないかな」
いつもより少しだけ、真剣な声だった。
セレナはしばらく彼を見つめていた。
やがて、ふっと表情を和らげる。
「あなた、そんな顔もできたのね」
「そんな顔?」
「ええ。まるで、私に断られたら困るとでも言いたげな顔」
「……実際、困るよ」
「あら」
セレナは楽しそうに笑った。
「それなら、断れないわね」
そう言って立ち上がる。
「少しだけ待っていて。着替えてくるわ」
「ありがとう」
「お礼を言うほどのことではないでしょう?」
温室を出ていく彼女の背中を見送り、ルカはようやく息を吐いた。
誘うだけのことなのに、ずいぶん緊張してしまった。
昔はもっと簡単だったはずなのだが。
――いや。
昔から、彼女のことになると、どうにも調子が狂うのだった。
*
屋敷を出る頃には、太陽が高く昇っていた。
セレナは落ち着いた色のドレスに身を包み、顔から鎖骨にかけて残る火傷の痕も、いつもと変わらず隠していなかった。
ルカは彼女の隣を歩きながら、ふと横顔を見た。
「何?」
「いや……綺麗だなと思って」
「まあ」
セレナは少しだけ目を細めた。
「今日はずいぶん素直ね」
「いつも素直だよ」
「そうかしら?」
「そうだとも」
「では、昨日の夜に仕事を抜け出して温室へ来たのは?」
「……あれは」
「その前の日もだったわね」
「セレナ」
「ふふ。冗談よ」
楽しげな笑い声が、秋の街道に響いた。
屋敷から王都までは、それほど遠くない。
街へ近づくにつれ、人々の声や荷車の音が聞こえてくる。商店の軒先には秋の果物が並び、焼き菓子の甘い香りが風に乗って漂っていた。
セレナはふと足を止めた。
「……この通り、久しぶりね」
「そうだね。以前はよく来ていた」
「クロエが小さかった頃は、よく三人で歩いたわ」
ルカは彼女の視線の先を追った。
通りの向こうでは、母親に手を引かれた小さな女の子が、店先の菓子を指差している。
「お母さん、あれ!」
「もう、ひとつだけよ?」
そんな声が聞こえた。
セレナは微笑んだまま、その光景を見つめていた。
けれど、ルカには分かった。
彼女の指先が、ほんの少しだけ強く握られていることに。
「……セレナ」
「ええ。大丈夫よ」
彼が何かを言う前に、セレナはそう答えた。
「ただ、懐かしくなっただけ」
「……そうか」
ルカはそれ以上、何も尋ねなかった。
代わりに、そっと手を差し出した。
セレナはその手を見つめたあと、彼の顔を見上げた。
「どうしたの?」
「手を繋ぎたいと思って」
「まあ。あなた、本当に今日はどうしたの?」
「嫌かな?」
「いいえ」
セレナは小さく笑い、その手を取った。
「嫌なわけがないでしょう?」
指が重なる。
ルカは、彼女の手を優しく握った。
それだけで、少しだけ安心できた。
彼女がここにいる。
隣で、自分の手を握り返してくれている。
今は、それだけでよかった。
*
「ルカ、あのお店に寄ってもいい?」
しばらく歩いたところで、セレナが一軒の菓子店を指差した。
「もちろん」
店に入ると、焼きたての菓子が棚に並んでいた。
店員が二人に気づき、丁寧に頭を下げる。
「いらっしゃいませ。侯爵様、侯爵夫人」
「こんにちは。今日はお菓子を買いに来たの」
セレナは柔らかな笑みを浮かべ、棚を眺めた。
ルカもその隣に並ぶ。
「何がいい?」
「そうね……」
セレナはしばらく考え、蜂蜜を使った焼き菓子を手に取った。
「これにしようかしら」
「それだけでいいの?」
「ええ。あなたは?」
「私は君と同じものにするよ」
「……あなた、自分で選ぶ気がないでしょう?」
「君が選んだものなら、何でもおいしいからね」
「まあ」
セレナは呆れたように彼を見た。
「そういうことを平気で言うのだから」
「本当のことだよ」
「はいはい」
そう言いながらも、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。
結局、二人は焼き菓子をいくつか買い、店を出た。
セレナは包みを大事そうに抱えている。
「クロエがいたら、きっともっと買っていたわね」
その言葉に、ルカは一瞬だけ目を伏せた。
「……そうだね」
娘は甘いものが好きだった。
新しい菓子を見つけるたびに、目を輝かせていた。
そして、買ってもらった菓子をヴェルマリスと分け合おうとして、結局どちらが多く食べたかで喧嘩になる。
そんな光景が、今でも鮮明に思い浮かぶ。
「……帰ったら、お茶を淹れようか」
ルカが言った。
「このお菓子に合うものを用意するよ」
セレナは彼を見上げた。
そして、静かに頷く。
「ええ。そうしましょう」
*
昼を過ぎる頃、二人は街を離れ、川沿いの小道を歩いていた。
水面には秋の空が映り、風が吹くたびに光が細かく揺れる。
人通りは少なく、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。
「今日は、いい日ね」
セレナが言った。
「そう思ってくれたなら、よかった」
「ええ。久しぶりに、ゆっくり歩いた気がするわ」
「最近は忙しかったからね」
「あなたもでしょう?」
「私は……まあ、そうだね」
ルカは苦笑した。
「君に比べれば、まだまだだよ」
「あら。私の仕事を軽く見ているの?」
「まさか。君がどれだけのことを背負っているか、よく知っているつもりだ」
セレナは黙った。
ルカは川の流れを見つめながら、言葉を続ける。
「君はいつも、誰かのために動いている。領地の人たちのため、組織の仲間のため……。それは君の強さだと思う」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「でも、君が疲れているときくらいは、私にも頼ってほしいんだ」
セレナは彼を見た。
金色の瞳が、静かに揺れる。
「……私、そんなに疲れているように見える?」
「そういう意味じゃないよ」
ルカは首を横に振った。
「君が強いことは知っている。私よりずっと強いところもある。だから、無理に弱くなってほしいわけじゃない」
握った手に、少しだけ力を込める。
「ただ……一人で抱え込まないでほしいんだ」
風が二人の間を通り抜けた。
セレナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……あなたは、ずるいわね」
「え?」
「そんなことを言われたら、何も言い返せないじゃない」
彼女は困ったように笑った。
「私は、あなたが思っているほど立派な人間ではないわ」
「知っているよ」
「まあ」
「君は頑固だし、仕事を抱え込みすぎるし、私が温室へ行くとすぐに追い返す」
「それは仕事をしなさいという意味よ」
「分かっている。でも、たまには少しくらい一緒にいてくれてもいいだろう?」
「……もう。今日のあなたは本当におかしいわ」
セレナはそう言いながら、彼の肩にそっと寄り添った。
「でも……ありがとう、ルカ」
その声は、いつもの穏やかなものだった。
けれど、いつもより少しだけ柔らかかった。
「あなたが隣にいてくれることを、私は当たり前だと思いたくないの」
ルカは彼女を見つめた。
「……僕もだよ」
二人はしばらく、何も言わずに川を眺めていた。
失ったものは戻らない。
どれだけ願っても、あの日より前の暮らしには戻れない。
それでも、隣にいる人の手を握ることはできる。
同じ景色を眺め、同じ風を感じ、同じ時間を過ごすことはできる。
ルカはセレナの手を握り直した。
「また来よう」
「ええ」
「今度は、もう少し遠くまで歩こうか」
「そうね。……でも、次はあなたが仕事を終わらせてからよ」
「うっ」
「ふふ。約束できる?」
「……努力する」
「ルカ?」
「約束します」
セレナは満足そうに微笑んだ。
*
屋敷へ戻ると、午後の日差しが廊下の窓から差し込んでいた。
二人は買ってきた菓子を持って、温室へ向かった。
ソファーに並んで腰掛け、ルカが淹れたお茶を口にする。
「おいしいわ」
「よかった」
「少し濃いけれど」
「……そうかな?」
「ええ。でも、嫌いではないわ」
セレナは焼き菓子をひとつ手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
ルカはそんな彼女を、穏やかな目で見つめていた。
「何?」
「いや。君が笑ってくれて、よかったと思って」
セレナの手が止まった。
彼女はしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。
「……あなたが誘ってくれたからよ」
「また誘ってもいいかな?」
「もちろん」
セレナは彼の手に、自分の手を重ねた。
「次は、私から誘うわ」
「それは楽しみだ」
「ええ。だから、ちゃんと仕事を終わらせておいてね」
「……分かったよ」
ルカが苦笑すると、セレナは声を立てずに笑った。
温室の外では、秋の風が木々を揺らしている。
季節は巡る。
春も、夏も、秋も、冬も。
失った時間が戻ることはない。
それでも、二人はこれからも一緒に歩いていく。
いつか娘が帰ってきたとき、また三人でこの街を歩ける日を願いながら。
今日という一日を、二人で大切に抱えていた。
行き詰ったら外に出て甘いものを食べるだけでも気分転換になるかもしれませんね。
私のおすすめは公園付近のモーニングです。




