第17話 思い出された名前
アルベルト・ルーヴェンは、書類の山を前に、無意識に額を押さえていた。
内容は、どれも小さなものだ。
決裁が遅れている。
判断が保留になっている。
確認が一段階、多い。
致命的ではない。
――はずだった。
「……なぜ、こんなに滞る」
苛立ちではない。
戸惑いに近い。
以前なら、
ここまで溜まる前に整理されていた。
書類を一枚、また一枚とめくる。
赤字の付箋が、増えている。
「殿下」
文官が控えめに声をかけた。
「こちらの案件ですが、最終判断を……」
「それは、誰が担当だ?」
「……それが」
言葉が、詰まる。
アルベルトは、そこで初めて気づいた。
“担当者”という言葉が、形骸化していることに。
誰も、線を引かない。
誰も、決断を引き受けない。
「以前は、どうしていた」
問いは、何気ないものだった。
だが、文官は一瞬だけ黙り込み、
それから、慎重に答えた。
「……以前は、
リリアーナ様が、整理されていました」
その名が出た瞬間、
アルベルトの思考が、わずかに止まる。
――リリアーナ。
しばらく、意識の外に置いていた名前。
「整理、とは?」
「判断の前段階です。
誰が決めるべきか、
どこまでが殿下の責任か……」
淡々とした説明。
アルベルトは、書類に視線を落とす。
確かに、以前は
“迷う前に整っていた”。
自分は、決断だけをすればよかった。
「……彼女は、有能だったな」
思わず、そう口にしていた。
文官は、何も答えない。
肯定も、否定もしない。
それが、答えだった。
夕刻、アルベルトは回廊を歩いていた。
ふと、窓際で立ち止まる。
以前なら、この時間帯、
彼女がどこかで書類をまとめていた。
忙しそうで、
だが、迷いはなかった。
「……俺は」
言葉にならない思考が、胸に引っかかる。
彼女を切った判断は、
間違いだったのか。
いや――
その問い自体が、ずれている。
あの時は、
“そうするのが正しい”と思った。
誰もが安心する。
誰もが納得する。
だから、選んだ。
だが今、
その“正しさ”が、少しずつ重くなっている。
「殿下」
近侍が声をかける。
「次の会議ですが……
議題がまとまりきっておらず」
「……分かった」
返事をしながら、
アルベルトは、はっきりと理解した。
自分は、
判断のしやすさを失っている。
それを補っていたのが、誰だったのか。
答えは、もう明白だった。
「……リリアーナ」
今度は、はっきりと名前を呼ぶ。
遅すぎた自覚が、
胸の奥に、静かに沈んでいく。
それは後悔ではない。
まだ、後悔と呼ぶには早い。
だが――
取り返しのつかない違和感だった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




