第16話 失われた線
カイエル・ルーヴェンは、報告書の束を机に並べていた。一つひとつは些細だ。致命的な失策はない。
だが、共通点がある。
「……判断が遅れている」
それも、偶然とは言えない頻度で。彼は、赤字で引かれた箇所を指でなぞる。補給、契約、外交調整。分野は違うが、どれも最終判断の空白がある。
「線が引かれていない」
独り言のように呟く。判断そのものが間違っているのではない。誰が、どこまで決めていいのかが曖昧なのだ。
以前は、そんなことはなかった。
「以前は……」
思考が、自然と過去へ向かう。問題が表に出る前に、衝突が起きる前に、誰かが調整していた。
表には出ず、だが確実に。
――誰だ。
答えは、すぐに出た。
「……リリアーナ・エヴァレット」
声に出した瞬間、すべてが繋がった。彼女は決断者ではない。だが、決断の“線”を引く人間だった。
誰が決めるべきか。どこで止めるべきか。何を保留にすべきか。
それを、感情抜きで整理していた。
「切った、か」
いや。切らせたのだ。善意と正しさで。午後、カイエルはアルベルトの執務室を訪れた。
「兄上、少し時間を」
「今は――」
「重要だ」
その声音に、アルベルトは口を閉じた。
「最近の遅延と混乱について、報告は受けているな」
「小さなものばかりだ。問題視するほどでは――」
「小さいから、危険なんだ」
カイエルは、机に書類を置く。
「判断が遅れ、責任が曖昧になり、現場が疲弊している」
「……だから、人を増やしている」
「増やしても、線を引く人間がいなければ同じだ」
アルベルトは、眉を寄せた。
「言いたいことは何だ」
「単純だ」
カイエルは、はっきり言った。
「リリアーナを切った影響が出ている」
沈黙。アルベルトの表情が、一瞬だけ硬くなる。
「……それは、飛躍だ」
「違う」
カイエルは、首を振った。
「彼女は、決定を独占していたわけじゃない。決定が必要な場所を、可視化していた」
だから、誰も迷わなかった。
「今は、その可視化がない」
アルベルトは、何も言わなかった。否定も、肯定もできない。
「兄上」
カイエルは、声を落とす。
「まだ、致命的ではない。だが、このまま続けば――」
その先は、言わなかった。言わなくても、分かるはずだ。執務室を出た後、カイエルは一人、回廊を歩いた。
(やはり、だ)
彼女が去った瞬間から、王宮は“判断をしない組織”になりつつある。
それは、柔らかく見えて、脆い。カイエルは、静かに決めた。
(外から、手を打つ)
まだ表立って動く時ではない。だが、彼女をただ失わせる気もない。
視線の先、王宮の外に続く門を見据える。
「……もう一度、話す必要があるな」
対等な相手として。
カイエルが名前にたどり着く回です。
彼が見ているのは彼女個人ではなく、決定が必要な場所を可視化していた機能のほうでした。決定を独占していたのではなく、決定すべき場所を見えるようにしていた——ここを取り違えると、人を増やせば済む話になってしまいます。増やしても直らないのは、そのためです。
兄に告げても、この回では何も変わりません。変わらないことのほうが大事な回でした。
次回、王宮の主が、同じ名前に自力でたどり着きます。




