二十一:太夫の手鏡
蛇川が行きつけの定食屋・いわたのドアを押し開けると、なぜか女給とひとりの客が同時に振り向いた。
せっかちな蛇川はドアを叩くように開けるから、慣れない客が振り返ることはしばしばあったが、女給のりつ子が驚くことは珍しい。カウンターの奥でフライパンを振る亭主までもが、手は止めないながら、ちらとこちらに視線を向けた。
椅子から腰を浮かせた客は、亭主と顔を見合わせると困ったように眉を下げ、再び蛇川に顔を向けた。よく見れば、以前蛇川が納豆を取り上げた、冴えない中年男である。
「まいったなあ……骨董屋というのは、あんたかね」
「なんだっ! 今更納豆の代金を払えと言うのかっ! みみっちい男だなまったく」
「一応、人の物を盗ったという自覚はあったのか……」
男はいっそう眉を下げると、亭主に向かって「どうにも、相性がなあ」とぼやく。
構わず、蛇川は尻を叩きつけるようにして椅子に座った。
「亭主、いつものを頼む。あと納豆だ、こちらのケチくさい御仁へ」
「いや、納豆をどうこう言いにきたわけじゃない。骨董屋としてのあんたに用があって来たんだ」
蛇川は答えず、水を運んできたりつ子を睨め上げた。
「客の個人情報をべらべらと喋るのは感心せんな」
「いやいや、教えてくれたのはりっちゃんじゃない。亭主のほうだよ」
「なにぃ?」
あんた、喋れたのか。とんでもないところで驚く蛇川に、静かな声で亭主が返す。
「うちの常連は、皆家族のようなもんだからな……困った時は、お互いさまだ」
「ふん」
鼻を鳴らしてそっぽを向くものの、つい先日くず子の面倒を見てもらったばかりだ。いかに蛇川とて断りづらい。結局、中年男の困りごととやらを聞いてやるはめになった。
山岡と名乗った男は、懐から一枚の紙を取り出すとカウンターに広げた。鉛筆書きの、精緻なスケッチが描かれている。
早々に箸を構えた蛇川が、行儀悪くもそれを箸の先で指した。
「懐中時計か?」
「いや、手鏡だ。この裏面が鏡になっていて……すごく精巧な作りなんだ。見事な寄木細工で」
「なかなかに値が張りそうだな。誰の持ち物だ?」
「いや……それは言えないんだ」
「失くしたのか?」
「そういうわけではないんだが……悪いが、事情は話せない」
「まさか、何の前情報もなく、このスケッチだけを頼りに実物を探せなどとは言わんだろうな」
「……」
蛇川は持っていた箸を勢いよくカウンターに叩きつけた。
「亭主! オムライスは取りやめだ!」
「ま、待ってくれ! なにか、情報をもらえるだけでもいいんだ!」
早くも立ち上がった蛇川の腰に、小柄な山岡が縋りつく。ぎょっと身を引き、思わずその頭部を殴りつけようとした蛇川は、わずかな自制心をもってその衝動を抑えた。
ガタガタと二人が鳴らす椅子の音が止んだ隙間を縫うようにして、油を引いたフライパンに卵液が流し入れられ、じゅわっと食欲のそそる音が鳴った。
細く尾を引くその音に、蛇川の腹が情けない声で応じる。
なんとなしに気まずくなり、山岡は照れたように蛇川の腰から手を離す。蛇川は小さく舌を鳴らすと、ジャケットの襟元を引っ張った。
「……無茶を言っているのは分かってる。だが……分かってくれ。話したくとも話せんのだ。ただ知っていることを教えてもらえるだけでいい。あんたが扱う骨董品の中に、似た意匠のものはなかったか、とか……。そんじょそこらの職人の腕じゃあ、こんな一品は作れないと思う。似たものから辿っていけば、きっと」
「山岡さんと言ったな。僕の嫌いな言葉を三つ教えてやろう」
不誠実。自分勝手。身の程知らず。
見せつけるように指を折りながら言う蛇川に、「半分は自分のことじゃない」とりつ子が呟く。ぎっと鋭い目で睨まれると、りつ子は舌を出してカウンターの奥へと退散した。
「自分に都合の悪いことは話すまいとする不誠実さ。それでいて難題を押しつけようとする自分勝手さ。そして……似た品を作る職人から辿っていくだと? 悪いが、あんたにそんな芸当ができるようには見えないね。情報という不確かなものを扱うには、それなりの技量とお頭が必要だ。それを弁えぬ身の程知らずさ。とても付き合う気にはなれん!」
怒鳴りながらも、蛇川は再度着席する。その目の前に、カウンター越しに出来たてのオムライスが置かれたためだ。旨そうな香りの湯気が、蛇川の撫でつけた髪をくすぐる。
その香りを鼻腔にたっぷり吸いこむと、蛇川は器用にも箸でオムライスをかきこんだ。ため息をつきながら亭主がスプーンを差し出すと、それを奪い取り、今度はスプーンでふわふわの卵をかきこんでいく。
細い体に、ものすごい勢いでオムライスが吸いこまれていくのを、あんぐりと口を開けて山岡が見つめる。次いでその目を亭主に向ける。縋るような視線で見つめられ、亭主は小さく肩をすくめた。
「悪い人じゃあ、ない」
「……分かったよ」
昼餉を終え、水を一息に飲んでしまった蛇川に、山岡は薄くなり始めた頭を下げた。
「悪かった。全て話す。だが、場所は変えさせてくれ。……話せば、力になってくれるんだな?」
「知るか」
空になったグラスが、勢いよくカウンターにぶつかり音を鳴らした。
「だが、全て聞かねば始まらんことだけは確かだ」