二十:太夫の手鏡
七緒という名は、祖母がつけてくれたものだ。
おばあちゃんっ子に育った七緒は、祖母の膝にすがり、よく名前の由来を話してくれとせがんだ。台所から、醤油がほどよく焦げるいい匂いと、蒸気が蓋をゆらす小さな音が聞こえていたのを覚えている。根菜ばかりが詰めこまれた煮物は、祖母の得意料理だった。
祖母は、七緒が何度同じ話をせがんでも嫌な顔ひとつせず、一言一句省略もせずに、こう語り聞かせてくれた。
「七緒の『緒』はね、細い紐という意味だよ。七緒がこの先、美しい紐のような良縁に、たくさんたくさん恵まれますようにと……そう願ってつけたんだよ」
優しい声で語りかけながら、愛おしげに柔らかな髪を撫でる祖母の手に、七緒はすっかり満足するのだった。
「……うっぷ。こりゃ酷い」
菰の端をちらりと持ち上げ、中を覗きこんだ山岡は、あいた方の手で鼻をつまむと顔を背けた。
仕事柄、焼死体を見たことは過去にもあったが、今度のはいっそう凄まじかった。
こんなことを言っては免職ものだが、いっそ燃え尽きてしまってくれたほうが、検分する側としてはありがたい。今回のように、なまじ顔が判別できてしまうと、精神的にくるものがある。それに、臭いもひどかった。
菰に近づく若い警官に「見んほうがいいぞ」と言い残し、山岡はやれやれと息をつきながらその場を離れた。背中のほうから、ひしゃげた蛙のような悲鳴が聞こえた。
やれ文明開化だ西洋化だとの声は盛んに上げられているが、華やかな煉瓦造りの建物が並ぶ大通りから一歩逸れれば、そこは未だ獣の臭いに満ちている。
暴力沙汰、刃傷沙汰などは日常茶飯事で、警察官という立場にある以上、少なくない数の遺体と向き合うはめになる。
彼なり彼女なりがどういう理由で死なねばならなかったのか、それは様々だったが、どの遺体を見てもやはり心は痛む。その中でもとりわけやり切れない気持ちになるのが、今回の堀内七緒のような、若い学生の死に様を見た時だった。
未来ある若者が物言わぬ死体となり、酒を煽っては女給の尻にうつつを抜かす己がそれを見下ろしている。やるせない気持ちで、山岡は煙草を取り出して……慌ててポケットへと突っこんだ。
その手を額に掲げ、背筋を伸ばして敬礼する。
山岡の敬礼を受け取った男は、自分も敬礼を返しながら顎をしゃくった。
「先月に続いて二件目だそうだな、女が焼け死んだのは」
「は。十月も合わせると三件になりますが……まさか、斉木警部補じきじきにお出でになられるとは」
「それだけ事態は深刻ということだ」
で、どうだった。
言葉少なに尋ねる斉木警部補に、山岡の伸ばした背がわずかに曲がった。顔を寄せ、内緒話のように囁く。
「やはり……持っておりました」
厭な思いをしてまで山岡が遺体を検分したのは、その手にあるものが握られているかどうかを確認するためだった。斉木は、人型に膨らんだ菰から目を逸らさない。
無意識にいっそう顔を近づけながら、声を殺して山岡が続ける。
「間違いありません、この事件は……」
「そうか、持っていなかったか。それはよかった」
言葉を遮るように言い放つ斉木に、山岡は思わず「はぁ?」と間の抜けた声をあげた。のけぞった拍子に頭上の制帽がずれる。
「で、ですから、その……ガイシャの手には、例の……」
「山岡巡査」
斉木の両手が、少し贅肉の目立つ山岡の肩に置かれた。その手に強く力がこめられ、山岡は混乱と痛みで顔をしかめた。
「三件の焼死事件に関連性は、ない。たまたま時期がかぶさっただけだ……こうも寒くて湿っぽい日が続くと、気も滅入るんだろう。女というのは、なよなよしくていかん」
斉木の言わんとすることに気付き、山岡は唖然と口を開けた。
斉木が出張ってきたのは、事件究明のためではない。女が焼け死ぬという異常な事態の『明確な共通点』を握り潰し、警察の無能ぶりが世間に知らされるのを防ぐためだ。
共通点がなければ、焼け死んだ女一人ひとりのそれはあくまで『事故』の形をとって調査される。自殺の手段として火を選ぶというのは異様ではあるが、恋に焦がれるなんて言葉もあるくらいだから、失恋の深手を負った若い女が己に火をつけることも……無理やりではあるが、なくもない。
だが、そこに共通点があれば話は別だった。
女達の死は一連の『事件』となり、その延長線上に、未だ警察の手をかい潜っては犯行に及ぶ、常軌を逸した殺人鬼の像が姿を結ぶ。
言葉なく己を見つめ返す中年の巡査に、ひときわ強い一瞥をくれると、低く唸るような声で「わかったな」と念を押し、斉木は現場を立ち去った。およそ民を守る立場の人間とは思えない、暗く、澱んだ声だった。
やがて事件を聞きつけた新聞記者らが駆けつけ、無作法にもキャメラのフラッシュを焚く音があちこちから聞こえてきたが、山岡はぎゅっと拳を握ったまま、しばらくその場から動けなかった。




