一九:崖下の居城
たっぷりと溶いたはずの墨汁がやがて尽きた。
気付けばもう、随分な時間が過ぎている。
翠は大きく息をつくと、間断なく打っていた針の手を止めて墨を継ぎ足した。残す施術箇所はあと僅か。
「……覚えとるかな。昔、わてがあんたはんに言うたこと」
肌に挿すのは、もちろんただの墨汁ではない。翠以外にはその調合法を知らぬ、特別なものだ。自然、準備にはそれ相応の時間がかかる。
淡々と手を動かしながら、翠はぽつぽつと呟くように話し出した。
己の内側深くと向き合い、じっと痛みに耐えていた蛇川の意識が、ちらとこちらへ向かうのを感じた。
話しかければ雑念を引き起こす。
それが痛みをいや増すだろうことは分かっていた。
それでも、翠はその口を閉じられない。
「『わてを連れて逃げてくれ』と――そう言うたんや。まだ母様がご健在の時で、わての目が昏うなってまう前や。……あんたはんのことや、もう忘れておるやろ」
翠の目を覆う奇ッ怪な柄の布――この居城の主人たる証であるその布の下の皮膚は、とても直視できないほど惨たらしく焼け爛れている。
翠が翡翠自然流六代目当主となったおり、自ら松明の火を押し当てたためだ。
炎に焼かれた眼球は、その時を境に光を失い、代わりに別な光を見出す。
元々はただの彫り師であったものが、法力の妙教にまで至る技を手に入れる。
それが、翡翠自然流次期当主に課せられた試練であった。
真の当主だけが得られるというその光へと、辿り着けなかった者を待つのは、ただひたすらに昏い死だ。
歳若い翠は、それが怖くてならなかった。
己が目を焼くなどという人の道を外れた所業も、その先に待つ見知らぬ世界も、死ぬまでこの居城から離れ得ぬ己の宿命も、すべて。
だから逃げようと誘った。
当時の当主、翠の母により魂を半ば『抜かれていた』蛇川ならば、あるいは連れ出してくれるかもしれないと思った……
翠は過去へと思いを馳せながら、しかし手は止めなかった。
いつしか蛇川は頭を垂れ、すっかり沈黙している。呻き声すらも漏らさない。
激痛に意識を失っているのかもしれなかったが、聞いていないなら、それはそれでいいと思った。
「わてがそう言うた途端、あんたはんの目ぇに生気が戻った。……心底驚いた。母様の術を自力で解いてまう人間がおるやなんて、思いもしやんかった」
蛇川の肌を滴り落ちる汗と血を、清潔な布でそっと吸い取る。布を通じて、平時には陶器のようにひいやりとした彼の体温が、激痛に堪えんと烈火のごとく燃えているのが感じられる。
翠は膝行して施術位置を変えた。
ここを終えれば施術は完了だ。
「正気を取り戻したあんたはんに、怒られる、とわては思た。当然やわな。わては、己に課せられた使命から逃げようとしたんや……我が身可愛さにな。せやけど、あんたはんはその時……」
はっと翠の針を持つ手が強張った。
蛇川の首がわずかに動き、何かを訴えかけている。
慌てて、顔が『見える』位置へと回りこむ。
蛇川は翠をじっと見つめ、そのまま視線を滑らせて己の口元を見た。翠は機敏にその気配を感じ取る。
「……猿轡を外せ、いうんか」
蛇川の首が、自由を許された僅かな隙間で縦に揺れる。
翠は迷った。
自分がこうして手を止めている以上、蛇川が誤って舌を噛むことはないはずだ。
しかし、まだ施術は終わっていない。作業に戻る時には、再度猿轡をかませなければならないが、非力な翠にそれができるとは思えない。
手元の呼び鈴でもって高城を呼びつけ、彼に対処してもらう必要があったが、そうすると後々、なぜ途中で猿轡を外したのかと問い詰められることになる。
翠が逡巡していると、焦れたように蛇川が首を振った。細い顎から、乱れた毛束の先から、汗が飛ぶ。
抗議しようと蛇川を睨みつけ、息をのんだ。
その目に、光が戻っていた。
翠の爛れた瞼を通じても分かる、力強い瞳は、魂を抜かれた無害な人間のそれではなかった。
全力で抗い、闘うことのできる者の目だった。
荒い息を吐き、挑むように翠を睨みつける蛇川は、罠に噛まれて脚を負傷しながらもなお、隙あらば咬みつこうとする野生の獣のようだった。
弾けるように立ち上がり、翠は蛇川の背後に回った。
指を戦慄かせ、彼を縛る縄に手をかける。
強い力で何度も引き絞られた結び目は鉄のように固く、翠の細腕ではびくとも動かない。
翠は忌々しげに舌を打つと、懐に忍ばせていた短刀を取り出した。一切飾り気のない桐の拵えが美しいそれは、万が一の際、痛みに狂った被術者を楽にしてやるためのものだ。
何度も縄の上を滑らせて、ようやくその縛めを解くと、蛇川はたちまち猿轡を吐き捨て、次いでその上に唾を吐いた。
泡立つそれは、少なくない量の血で赤く染まっていた。
「蛇川はん、あんた……」
「また逃げ出したいのか、翠」
衝撃に殴られ、翠の頭がぐらりと揺れた。押されてもないのによろめき、思わず手をついた翠に、蛇川が続ける。
「『逃げたいならば、勝手に逃げればいい』……あの時僕はそう言った。あんたは、顔を真っ赤にして泣いていたな」
くく、と莫迦にしたような笑い声を漏らす蛇川を、翠はただ唖然として見つめた。
この男は――この男は、自らの手で『魂』を取り戻すことができるというのか。一度のみならず、二度までも。
母から役目を引き継いで以降、翠は幾度となく蛇川の体に墨を施してきた。
最初、まだ猿轡までを用いていなかったころ、痛みのあまり舌を噛みかけた蛇川を、己の腕をもって助けたこともある。その傷は、今も翠の右腕に薄っすらと残っている。
蛇川は決して忍耐強いたちでも、痛みに強いたちでもない。
どちらかといえば、外聞をまるで気にかけない分、堪え忍ぶという気概が薄く、それだけ喧しいとすら言える。
その男が、いつも施術が終わる頃には息も絶え絶えだった男が、激痛の最中にも関わらず、口を歪めて笑っている。
翠には、とても信じられなかった。
「よく覚えているさ。あんたは駄々をこねるクソガキそのものだった。泣いて喚いて、それでも僕が動かなかったら、見せつけるようにして飛び出していった」
「……それでも、あんたはんはわてを追って来てはくれんかった」
「当然だ。僕はあんたの依頼人であって、保護者ではないからな」
焼け爛れた皮膚に閉ざされた瞳が、にわかに潤みだすのを翠は感じた。
そうだ、蛇川は追って来てはくれなかった。
逃げたいと泣く翠の手を、取ってはくれなかった。
無我夢中で崖下の居城を飛び出した翠を迎えに来てくれたのは、鉄の顔のうちに静かな怒りを秘めた高城だった。
その翌日、翠は己の顔を焼いた。
「翠、忘れるな。依頼人はあんたに命を預けているんだ」
翠はびくりと肩を揺らした。
蛇川の声には、年嵩の者が聞き分けのない若輩者を諭すかのような響きがあった。
翠は、己が分別のない少女に戻ったかのような心地でいた。
不安で仕方なかった。恐ろしくて仕方なかったのだ。
蛇川は、そんな翠を見てふっと笑った。
先程まで浮かべていた嘲笑とは違う、暖かなものがそこにはあった。
「翠、恐れるな。あんたの喧嘩相手はまだ、死んでやるつもりなど毛頭ない」
睫毛の隙間から、涙がこぼれていく。
蛇川はついと顔をそらすと「続けてくれ」と静かに告げた。
「あんたには完璧に仕事をこなしてもらわんと困る。なんせ、今のままじゃあくず子さんの頭を撫でてやることも許されんからな」
◆ ◆
翌日、日が昇ると同時に蛇川が発っていくと、翠の居城には再び静けさが訪れた。
時折、犬鳴が騒いでは高城に叱られているくらいで、あとは鳥のさえずりや梢を揺らす風の音しか聞こえない。
「……入りや」
「失礼いたします」
鉄の顔を持つ従者が、膝行して部屋の中へと進み入る。高城が背後に着座した気配を感じ、翠は書き物をしていた手を止めた。
母の代から従者を務め上げているこの男のことを、翠は正直測りかねている。
忠誠をもって尽くしてくれていることはよく分かるのだが、あまりに人間性のないその佇まいは、時に恐怖さえ掻き立てた。
結局あの後、翠は高城を呼ぶ羽目になった。
猿轡などしなくていい、と蛇川は言ったが、試しに針を刺してみれば、途端に鼓膜を引き千切らんばかりの悲鳴が飛び出した。高城を呼ぶのに、呼び鈴を鳴らす必要すらなかった。
思い返すだけでも、翠の口元に苦い笑いが浮かぶ。
散々格好をつけておいて、結局のところはいつも通りだった。
痛みに耐性がなく、散々喚き散らすくせ、口だけは誰よりも達者な偏屈者。
だが、彼は……
――あんたの喧嘩相手はまだ、死んでやるつもりなど毛頭ない。
ふ、と息を吐くと、翠は口元を引き結び、高城に向き直った。なぜ蛇川の猿轡を外したのか、その理由を問われるに違いなかった。
翠は、背筋を伸ばすと高城の正面に向き直る。
もう恐れはしない。弱かった己を認め、翡翠自然流六代目当主の名に恥じぬよう、己が魂を磨き直そう。
決意を胸に燃やす翠は、目の前に座る忠実な従者の瞳に、父のそれにも似た優しげな光が揺れていることにまだ気付いていない。
〈 崖下の居城 了 〉




