九十九:美人画の女
ふたりが往来に出ると、遠くで狆が鳴いていた。
太陽は早や西へと差し掛かり、夕暮れの陽が路面を朱く濡らしている。じきに夜が来るだろう。
蛇川はひどく苛立っていた。芳子の歩みが予想以上に遅いのだ。
一歩踏み出すごとに、地面に何か判でも捺しているかのようにじりじりしているし、そのうえ歩幅が実に狭い。水牛ですらもう少しまともに歩くだろう。
我慢できなくなって、タクリー号をつかまえましょうと提言するも、乗り物は怖くて駄目です、滑りそうでと言う。無理に押し切ってやろうかとも思ったが、下手をすれば泣きかねないので仕方なく堪えた。
女が一度泣き出すと、ひどく面倒くさいことになる。マッチを擦り、行燈に火を灯すだけのように単純なことですら、恐ろしく入り組んだ複雑な事象に変貌する。それは避けたい。
自分自身でも気が付かぬまま、蛇川も彼なりに僅かな変容を見せている。
それで、ようやく京橋に辿り着いた時には、すっかり陽も沈んでいた。
田崎の家は、純日本風の家屋であった。平屋である。
訊けば、田崎が階段を嫌うのだという。日がな一日作品を前に座っているため、足腰が衰えるのだろう。ひとつ妙境に至らんとすれば、何か別なものを置き去りにする必要があるとみえる。
いち早く西洋趣味を取り入れた銀座の街並みとはまるで趣が違う、どこかのっぺりと感じられるその建物に踏み入り、しかし蛇川は満足げに唇を歪めた。
確かに臭う。
鬼の気配がする。
「こちらが田崎の仕事場です。あの絵もここに。しかし無闇に入っては……」
芳子がそう言い切る前に、しかしせっかちで遠慮を知らない客人は、既に襖へと手をかけている。
慌てて静止する芳子の声には耳も貸さず、蛇川は襖を引き開けた。
途端、中にこもった熱が迷い出て、蛇川の頬をぬらりと撫でた。ひどい悪臭がする。
その悪臭の中心に男はいた。
方々に伸び散らかした黒髪に油を浮かせたその男。あちこちに様々な色を滲ませた着物は垢で汚れ、薄っぺらな生地がぺたりと重く垂れ下がっている。悪臭の原因はこれであろう。
田崎は突然の闖入者にも気付かぬ様子で、ぶるぶると腕を震わせながら筆を振るい続けている。その腕は枯れ枝のように細く、元からこうなのか、あるいは食事も摂らず部屋に篭りでもしているのか、とにかく尋常ではない。芳子がその姿に恐怖する理由も頷ける。
蛇川は芸術にとんと興味がないから、もちろん画家がどういう生き物かを知らない。
しかし、芸術家とは皆このようなものであろうか。こちらに向けた背には、筆を手にして紙に向き合っているとはとても思えぬ凄まじい気迫が感ぜられる。拳でしか語り合えない獣同士のあいだに生まれる緊迫の間合いだとか、一発必中を奉じる男が、引鉄にかけた人差し指を僅かに震わす瞬間だとかにすら似ている。
その姿はまさに一心不乱。しかし不惑の境地には届かぬものか、田崎は時折ううと呻き、腕を宙空で一寸迷わせながら、それでも筆を進めていく。絵の具が黒い氈褥のうえにぴぴと跳ねる。
背後で芳子が何か喚いているが、蛇川は気にも留めない。
配慮の欠片もない大股で部屋に踏み入ると、突然、田崎が齧り付いていた絵を取り上げた。
その途端、それまで周囲に何の関心も示さなかった田崎が、うおうッと獣のように吼えて跳び上がった。
その目はぎらぎらと黄色く光り、頬は痩け、唇の端には泡を浮かべている。
血走った瞳が、憎悪の炎に燃えている。その影で、何かが小さく蠢いている。
慌てず、蛇川は空いた手を懐に突っ込んだ。それを抜き出すと同時に、掴み出した硝子の小瓶を発止と投げる。
小瓶は田崎の顔面に当たって砕けた。硝子の破片が、大小に光りながら床に散らばる。
中に入っていた乳白色の液体が、田崎の全身に降りかかる。仄かに漂う白梅香。
田崎は小瓶の衝撃に驚いた様子でいたが、しかしすぐに気を取り直した様子で、絵を奪い返さんと再び両腕を伸ばしてくる。
蛇川の目に僅かに驚愕の色が浮かんだ。
田崎は鬼に憑かれているのではなかったか? ならば何故、この香水を浴びて昏倒しないのか。
蛇川の脳裏を疑念が過ったが、しかし身体は考えるより前に動いている。
具体的には、伸ばされた田崎の腕を掴み取り、捻り上げ、己が背を田崎の懐に潜りこませて大振りに投げ飛ばしている。
田崎もまた細身であったが、強かに打ちつけられて畳が揺れ、絵皿は割れ、筆の数本は折れて床へと転がった。鮮やかな色が千々に飛ぶ。
狂った祭りのごとき一瞬の騒乱の末、秋の野分が通り過ぎた後のように変貌した作業場を、そしてその中央で興味深げに絵へと目を凝らす美貌の男を、芳子はただ呆けたまま見つめることしかできなかった。
一転、しんと静まり返った中で、折れた筆がことりと落ちる。
騒ぐ機会を逸し、ひとり寂しくその余韻を漂わすその筆を、芳子は眉を垂れ下げて見つめた。
「……なるほど確かに」
問題の絵を顔の高さに掲げ、蛇川は唇を吊り上げた。
凶々しい。そう形容するほかない絵だった。
縦長の紙の中央には、着物の裾をはだけさせて脚を広げた女の姿が描かれている。地面を覗き込むよう上体を少し倒し、何も持たない両手は、しかし何かを握り潰そうとするかのように指が開かれ、所々に赤黒い筋が浮いている。
髪を振り乱し、目尻を吊り上げ、真紅い唇から歯列を覗かせ、まるで今にも呪詛の言葉が漏れ出でそうなその形相は、過日、吾妻がかぶった真蛇の面に似ている――いや。あれが嫉妬の鬼ならこれは憎悪の鬼だ。
「何が無念だ? 何がお前にそうさせる……」
ざらついた紙の表面に指を滑らせて蛇川が唸る。
奇妙だ。強い憎悪を感じるのに、なぜか濁って見える。別な思惑が混じっている。それが蛇川の鼻を惑わせている。
これは何だ? この感情は……
この違和感には覚えがある。何だっただろう。
氾濫する流れのような憎しみの中に混ざる、一条の――迷い?
「これは……まさか、田崎!」
鬼の真の姿に思い至った蛇川が、弾かれたように田崎を振り仰ぐ。それと時を同じくして、風もないのに舞い上がった千々の破片が、礫のように蛇川へと襲いかかった。
反射的に腕を交差させ、急所の目を庇う。寸瞬遅れて、硝子と瀬戸物の破片が矢のように飛来した。
その大半は背広の厚い生地を切り裂き、皮膚を抉って後方へ飛び、直撃した幾つかは肉に埋まった。
鋭い痛みに呻きながらも、革の手袋を噛み、両手の鬼を解放せんとする蛇川だったが、しかし怒りが渦巻く濁流と化してその胸元へ襲いかかる。
「がは……ッ」
肺の空気が強制的に押し出されて悲鳴を上げる。
壁に叩きつけられたところへ第二陣が襲いかかり、頭部を狙ったそれを蛇川がからくも避けた。
まるで昏い海底から伸ばされた触手のごとき憤怒の塊を、灰褐色の瞳が鋭く睨みつける。
「そうか……田崎、あんたは鬼に憑かれてなどいなかったんだ。あんたは鬼と闘っていたんだな……そのためにあの絵を描いていた」
――真の鬼は、お前か。
小さく呟く蛇川の視線の先には、一本の筆。
先ほどまで田崎が握り締めていたそれから、まるで炎のように黒々と憎悪が噴き出していた。




