一〇〇:美人画の女
――真の鬼は、お前か。
冷えた陶器のごとき蛇川の瞳が、一本の筆を睨み据える。
無論、ただの筆ではない。それは凶々しい炎を帯びている。
まるで、夜の海のごとき澱んだ黒。不意に鮮やかな紫や赤の色を垣間見せるのは、鬼の感情の揺らぎなのか。風もなく伸び縮みする炎の様は、さながら月光に揺れる波のようだ。
室内はひどい有様だった。
足元には割れた硝子瓶と絵皿の破片が散らばり、畳の一部は大きく凹み、蛇川が叩きつけられた壁には彼の血が染み付いている。描き損じと思しき紙は踏まれ、破れて、まるで暴風に怯えるようにして隅のほうで縮こまっている。
蛇川は凹んだ畳を見下ろした。そこには失神した田崎が伸びている。
投げ技を極めて、直接的に彼の意識を奪ったのは確かに蛇川だが、しかし蛇川が手を出さずとも、いずれ田崎は気を失っていたに違いない。描き損じの紙より真っ白なその顔色を見れば、彼がろくに睡眠も摂らずに鬼と闘っていたことが分かる。
きっと、限界がきていたはずだ。
それでも筆を止められなかった。
その筆が持つ憎悪が、怒りが、彼を突き動かしてやまなかった。
田崎は、この世の全てを憎むかのごとき凄まじい女を描き上げることで、筆に宿った憎念を晴らさんと孤軍奮闘していたのだ。
確かにその絵には憎悪があった。怒りがあった。鬼の気配が染み付いていた。
蛇川でさえ、いっときはそれを鬼の姿と見た。奮戦する田崎の、並々ならぬ努力が思われる。
しかしそれでも、鬼を導いてやるには至らなかった。
田崎が迷っていたからだ。
何かに怒っているのは分かる、しかし何を憎んでいるのか分からない。
それに惑い、悩みながらも迷う筆を走らせた。その結果がこの女の絵だ。女は何かを掴もうともがきながら、しかしその目は何も見ていない。
「ならば、僕が晴らしてやるしかあるまいな」
革手袋の先を噛み、蛇川が両の手を露わにする。
剥き出しになった細い手指には、大小の目玉が宿っている。それが、いっせいに筆の鬼を睨む。
同族の気配に気が昂ったか、鬼が再び濁流と化す。
まるで怒れる龍のように身をくねらせながら、再度蛇川へと襲いかかる……
「きッ、きゃアーーーッッ!!」
ちょうどその時、堪え切れなくなったか、腰を抜かした芳子が金切り声を上げた。
途端、蛇川の鼻先にまで手(のごときもの)を伸ばしていた鬼が、ぐるりと身を捩るようにして振り返った。
かと思えば、まるで名剣士の燕返しのごとき鮮やかな反転を見せ、一転芳子へと襲いかかる。
芳子は金属音にも似た叫び声をあげながら、しかしその場から動くことすらできない。
腰が砕けているのだ。それに、恐ろしさと驚きが全身を痺れさせて、指の一本も動かない。
絶望の中、恐怖から逃れようと芳子が目を瞑る。
暗転。
そして衝撃。
……しかしその衝撃は、不思議と熱を帯びていた。それに、こんな状況で妙な気持ちだけれど、少し臭い。
恐る恐る、かたく瞑った目蓋を開ける。
目の前は目蓋を開けても閉じても真っ暗だ。
しかし、悪臭の中に薄っすらと嗅ぎ慣れた匂いがあるのに気付き、芳子は震える声をあげた。
「あなた……?」
ここ数日で窶れに窶れた夫の顔が、目の前にあった。
落ち窪んだ目は、しかし緩やかに弧を描いている。
作品に関わることとなればたちまち頑固者に変貌し、些細なことで目くじらを立て、意固地になって地団駄を踏むような気難しい人。
だから両親は頑なに結婚を反対したけれど、しかし芳子は知っている。この人が、どんな作品よりも愛おしげに自分を見つめるその瞳が、どこまでも暖かで優しげなことを。
「あなた……」
「……本当に、お前は……」
掠れた声で呟く田崎の全身から力が抜けた。支えをなくした人形のように、ずるりと芳子に凭れかかる。
「いつも、肝心なところで鈍臭い……」
ゆっくりと閉じられた目蓋はぴたりと合わさり、名前を呼んで、肩を揺すってもほんの僅かでさえ震えてくれない。
異様に重い夫の身体を、芳子は夢中になって揺すり続けた。だけど、何の反応も見せてくれない。
慈しむような笑みを口元に浮かべたまま、まるで眠るように……彼は……
「揺するなッ、莫迦!」
不意に厳しい叱咤の声が飛び、その途端に芳子の目から涙がぼろりと零れ落ちた。
大粒の涙は、その後もぼろり、ぼろりと落ち続け、ついに雫は川になった。
目から二本の川を流しながら、芳子は気の抜けた表情で顔を上げた。
夫の背中越しに、もうひとり男が凭れかかっていた。蛇川だ。
なんだ。重かったのは、ふたり分の体重を支えていたからなのか。呆れると同時に、また目から涙が落ちた。
「疲れているんだ、寝かせておいてやれ」
「寝かせ、て……?」
「寝ているだろ。よく聞いてみろ」
促され、夫の口元に耳を寄せる。すると確かに、薄く開いた唇からは、すうすうと息が漏れている。
「ちょうどこちらも分かったんだ。何故その筆が鬼と化したのか……目覚めたら、その男にはもうひと働きしてもらわねばならん」
そう言うと、蛇川はゆっくりと立ち上がった。その手には抜き身の短剣を持っている。素朴な拵えのその鞘は、しかし芳子がこれまでに見たどんなものより重厚で荘厳みある輝きを宿している。
白く光る刀身が行燈の灯りを受けてぴかと煌めき、その光に、鮮やかな絵の具が応えて見せる。
「あんたは、確かに全てを憎んでいた。怒りに狂っていた。それで鬼になった……だが、違うだろう? 本当は、あんたの本当の心は、」
寂しかったんだ。
蛇川がそう発した途端、定まった形を持たなかった濁流が急に縮こまり、蛇川とそう変わらぬ大きさに纏まった。
それは、人の形をしている。
女のようだ。いや、過たず女である。それに、とびきり極上らしい。
見事な富士額から細い鼻梁が顔を縦につうと走り、その下に小さな双子山のごとき唇が並んでいる。意志の強さを感じさせる目尻はいやみなくきりりと上がり、濡羽色の髪と、それと同じ色をした瞳が、凝とこちらを見つめている。
美しい女であった。
十になる頃には既に評判の小町娘で、まだ婚儀には早いというのに、裕福な商家の若旦那も、飽くるほど沢山の富と財を有した土地地主も、高名なお武家様までもが彼女を見初め、彼女を求めた。
求婚話は引きも切らず、己を選べと求める男の声が、女の家を昼夜の別なく騒がせた。
女は己が誇らしかった。生憎とそう高貴な生まれではなかったが、しかし天から与えられたこの美貌をもって、どこまでも高く昇り詰めてゆけると識っていた。
両親もまた、己が娘の足先に縋って共にどこまでもついてゆきたいと願っていた。
求婚者どもは、どれほどにしつこい男であっても、女が中庭を挟んだ向こうに姿を見せて、少し眉を寄せ、哀しげに俯いてやれば、己の横暴を認めて大人しく引き下がった。女の心を苦しめた己を恥じた。そうして、夜になって女の美しさをまざまざと思い出し、その身をいっそう恋の炎に焦がすのだった。
歳を重ね、大人の色香を醸し出すようになると、もはや女の美貌を此の世の言葉で表すこと能わず、太陽のない昼でさえ、女の周りだけは薄っすらと光り輝いているかのごとき有り様。両親も、これはそろそろと算段を組み始めた。
その動きを察知してか、そうはさせまい、己の手がまだ届くうちにぜひ我が物にと男共はいっそう血眼になり、群れとなり列を成して女の家に大挙した。その勢いはこれまで以上に凄まじく、連日家が鳴るほどであった。
しかしその波がひとたびぴたりと止んだ。静かな村が、突如疱瘡(天然痘)の猛威に晒されたのだ。
「疱瘡は恐ろしい病だ。罹患すれば四〇度を超える熱に魘され、ひどい頭痛に悩まされ、そして――あんたの場合は特にひどかったんだな。全身に膿疱を生じ、いかに完治したところで醜い瘢痕が残ってしまう……」
まるで蛇川の言葉に合わせるかのように、女の顔がみるみるうちに崩れていく。顔面に赤の斑模様が浮き上がり、かと思えばその中央がぷつりと白く盛り上がり、膿を生じて膨れ上がる。
膿疱は瞬く間に全身へも広がっていき、あるいは隣り合うものと結合し、あるいは潰れ、どろりと垂れる膿が我慢ならぬ臭気を放った。
「これまで熱に浮かされたように己を求め崇めてきた男達が、一転して掌を返し、町で女の姿を見ようものなら慌てて逃げ出すような始末。両親でさえ女を穢らわしいもののように扱い……求婚の声が止んだ家には、代わりに、散々素気無くしてきた罰が当たったと嘲笑の声が日々届くようになった」
――天女様の羽衣剥いだり、ってか。
――鼻を高々と伸ばしすぎたものかねェ。
――いい気味だわ。これまで己の美しさを散々ひけらかして、周りを嘲笑ってきた罰よ。
――いや、正直なところ、俺も胸がすく思いだ。神様はちゃあんと見てるってことだねェ……
襖を立て、奥の座敷に引き篭もって蒲団を頭からかぶってしまっても、その声は女の耳に突き刺さった。いかに耳を塞ごうと意味を成さなかった。
女は叫んだ。叫んで、己を責め立てる種々の声を掻き消さんとした。
怨みを叫んだ。
怒りを叫んだ。
裏切りを、非情を、喉が破れるまで叫び続けた。
地獄の業火にも似たその声は三日三晩続き、四日めの朝にぴたりと止んだ。
恐ろしくなった両親が部屋を覗くと、女は喉を掻き毟って死んでいた。
「病のために肌は醜く崩れ落ちてしまったが、しかし髪の美しさは損なわれなかった。切り取られた艶髪は人の手から人の手に渡り、やがて一本の筆となった。それが田崎の手に渡った。筆に宿った声を聞き、田崎は、その怨みを、怒りを一枚の絵にぶつけてやろうとしたんだ」
全身の膿疱から膿を垂らし、血を垂れ流して佇む女は、濁った目を爛々と輝かせて蛇川を睨み据えている。
まるで剣先をいなすかのように、ふ、と蛇川が笑みを浮かべた。
「だが、あんたが真に叫びたかったのは別な言葉だった……そうだろう? だから、田崎の想いに応えることができなかった」
蛇川が腰だめに短剣を構える。抜き身の刃の向こうに、刃より鋭い光を宿した灰褐色の瞳が煌めく。
「ここにはあんたを責める奴は誰もいない。だから強がる必要もない。僕は女の長話が、子供の喚き声と同じくらい嫌いだがね……今日だけは特別だ。存分に聞いてやる」
◆ ◆
「……あら?」
懐手をして骨董屋・がらん堂へ遊びにきた吾妻が、ふと壁を見て声を上げた。
装飾らしい装飾がまるでなかった店内に、一枚の絵が掛けられている。美人画だ。
縦長の図面の中央には、赤い着物があでやかな女が描かれている。
艶やかな黒髪を島田に結い、梅の枝を手折ろうと白い腕を伸ばして、足元に戯れる猫に微笑みかける娘の姿。上体のみを樹のほうに捻ったその構図が、溌剌とした健康さを感じさせる。小さきものを慈しむ優しい瞳や、袖がずり落ちたため露わになった白い腕が、女の外面内面の美しさを表している。
「珍しいわね、蛇川ちゃんが物を飾るなんて。それも美人画だなんて」
珈琲を愉しんでいた蛇川は、ふんと鼻を鳴らすと、カップを絵に向かって掲げるような仕草を見せた。
「この女はね、特別なんだ」
〈 美人画の女 了 〉
骨董屋あらため、これにて完結です。長らくのお付き合い、ありがとうございました。
よろしければ骨董屋シリーズ第二弾となる『骨董屋あらため 胡蝶之夢(http://ncode.syosetu.com/n1936db/)』も併せてお楽しみください。




