1. もう!それじゃあしないわよ!
「もう!何を言っているのよ、アルフォンス!」
屋敷にヴィオラの声が響き渡った。
朝食を終えたばかりの食堂で、アルフォンスは手にしていた新聞を静かに畳んだ。廊下にいた使用人たちは一瞬だけ足を止めたものの、すぐに何事もなかったかのように仕事へ戻っていく。レイヴァン侯爵夫妻の言い合いは、今に始まったことではない。
「落ち着いてくれ、ヴィオラ。私が君との結婚を後悔していると言ったわけではない。そういう噂が広まっているらしいと教えただけだ。君はどうして最後まで話を聞かずに怒り出すんだ」
アルフォンスは困ったように息を吐き、今朝届いた手紙を妻へ差し出した。
ヴィオラは夫の手からそれを奪うように受け取ると、立ったまま内容に目を通した。差出人はアルフォンスの古い友人だった。昨夜の夜会で、マリエル・オルブライト伯爵令嬢が妙な話をしていたという。
アルフォンスは妻に束縛され、屋敷へ帰ることさえ苦痛に感じている。近頃は結婚を後悔しており、その悩みをマリエルにだけ打ち明けた――そんな内容だった。
最後まで読み終えたヴィオラは、手紙を食卓へ置いた。
「それなら最初から、マリエル嬢が勝手な噂を流していると言ってちょうだい。いきなり『私は君との結婚を後悔しているらしい』なんて言われたら、妻として腹を立てるに決まっているでしょう。それに、何もないところから、ここまで具体的な話が出てくるものなの?」
ヴィオラは夫の向かいへ腰を下ろし、疑うように目を細めた。
夫婦仲は良好である。結婚して三年になるが、別れを考えるほど深刻な喧嘩をしたことはない。アルフォンスは言葉こそ足りないものの、妻を大切にしていた。ヴィオラもそのことは分かっている。
だからこそ、今回の噂には何かしらの原因があるはずだった。
「マリエル嬢に悩みを打ち明けたことは一度もない。ただ、先日の夜会で友人たちに、君が少々私に構いすぎると話したことはある。毎朝外套を持ったか確認され、食事を抜けば執務室まで迎えに来られ、夕食前に菓子を食べれば取り上げられるとな」
悪びれることなく説明した夫を前に、ヴィオラはしばらく言葉を失った。
確かに、どれも身に覚えがある。しかし、それにはすべて理由があった。アルフォンスは放っておけば薄着で出かけ、仕事に夢中になれば平気で食事を抜く。夕食前に菓子を食べすぎて、料理を残したことも一度や二度ではなかった。
「私が構いすぎるのではありません。あなたが自分のことを何も気にしなさすぎるのよ。先週だって、外套はいらないと言い張って出かけた挙げ句、風邪を引いたでしょう。それなのに、まるで私が口うるさい妻であるかのように話すなんて、あんまりだわ」
ヴィオラが頬を膨らませると、アルフォンスはわずかに視線を逸らした。外套を持たずに出かけた翌日、熱を出して寝込んだことは、さすがに言い逃れができなかったらしい。
それでも彼は、自分の身の回りのことくらいは一人でできると主張した。
その言葉で、ヴィオラの我慢は尽きた。
「分かりました。それほど私に構われるのが嫌なら、今日から何も言いません。外套を忘れても、食事を抜いても、必要な書類を置いたまま出かけても、ご自分で何とかなさってください。あとから助けてくれと言っても、知りませんからね」
「私も子どもではない。君の手を借りなくても、自分のことくらい問題なくできる。今日一日と言わず、好きなだけ見ているといい」
アルフォンスはそう答えると、何事もなかったかのように新聞を広げた。
彼女自身も、アルフォンスが忙しいことは分かっていたつもりだった。
侯爵家の当主として領地を治めながら、王宮では議会にも出席している。朝早くに屋敷を出て、日が暮れてから帰ってくることも珍しくない。領地から問題を知らせる手紙が届けば、食事の時間さえ惜しんで執務室へ籠もることもあった。
だからこそ、ヴィオラは自分にできることで彼を支えようとしていたのだ。
朝にはその日の予定に合わせた衣服を用意し、必要な書類が揃っているかを確かめる。帰りが遅くなる日は厨房へ頼んで温かな食事を残してもらい、疲れている様子なら翌朝の予定を少し遅らせられないか執事と相談する。
どれもアルフォンスに頼まれて始めたことではない。
ただ、夫が少しでも楽に過ごせればよいと思って続けてきた。それを構いすぎだと言われてしまえば、腹が立つのも当然だった。
しかし、本当に一人で何でもできるというのなら、それはそれで喜ばしいことでもある。
彼女が手を貸さなくても忘れ物をせず、食事を抜かず、自分の体調まできちんと管理できるのであれば、彼女が口うるさく言う必要もなくなる。
ヴィオラは席を立つと、食堂を出る前に夫を振り返った。アルフォンスは再び新聞へ目を向けており、早くも一人で何でもできるつもりになっているようだった。
それならば、実際に任せてみればよい。
今日からしばらく、アルフォンスの世話を一切焼かない。
そう決めた彼女は、今度こそ何も言わずに食堂を後にした。




