蕾の季節
久しぶりの固形物に、愛おしさを覚える。
この噛む感覚はいつぶりだろうか。
父に会って1週間、今日は父の学園に行く日。
「久しぶりのりんごはどうですか?」
「とても美味しい。サクッとしていて、みずみずしくて」
学校に通う以上、固形物を食べる機会も多くなるため、今週の初めから慣らし始めたところだ。
「そろそろお時間ですよ」
菜奈さんの声に頷いて、最後の一切れを口に入れた。
着替えを手伝ってもらい、鏡の前に立つ。
初めて袖を通した制服は、思っていたよりも軽かった。
「お似合いです、有希さん」
菜奈さんの言葉に、私は鏡の中の自分を見つめた。
日本では珍しい白い髪、初等生と見間違う小さな体躯、肌とは反対に暗く落ち着いた紺色のセーラー服。
制服を着ても、どこか浮いているように見える。
「行ってらっしゃいませ」
菜奈さんに見送られて、病院の自動ドアをくぐる。
外の空気が頬を撫でた。冷たいけれど、先月よりは柔らかい。春が近いのだろう。
車が正面に停まっていて、運転手が恭しく扉を開ける。乗り込むと、シートの感触が病院のベッドとは全く違った。
窓の外を眺める。
雪解けの街は、白と茶色が混ざり合っていた。歩道の端に積まれた雪が解けかけて、水になって流れている。街路樹の枝はまだ裸のままだけれど、よく見ると小さな芽が膨らんでいた。
信号が赤になる。横断歩道を、学生らしき集団が渡っていく。制服姿の、私と同じくらいの年の子たち。笑いながら、肩を並べて歩いている。
窓に映る自分と、横断歩道の向こうの彼女たちが重なって、また離れた。
信号が青になり、車が動き出す。
街が流れていく。商店街、公園、住宅街。どれも窓から見る景色で、けれどいつもより近かった。ガラス一枚の向こうではなく、手を伸ばせば届きそうな距離に、世界があった。
やがて車が緩やかに速度を落として、停まった。
「お着きになりました」
運転手の声に、窓の外を見る。
大きなエントランス。ガラス張りの壁に、冬の空が映り込んでいた。パンフレットで見た時より、ずっと大きく見えた。
扉をくぐると、吹き抜けのロビーに光が満ちていた。天井が高く、足音が少し響く。春休みのためか、生徒の姿はほとんどない。静かな校舎に、どこか遠くで誰かが話す声だけが聞こえていた。
「こちらへどうぞ」
運転手に案内されて、廊下を歩く。
立ち並ぶ教室の扉は全て閉まっていて、小窓から中を覗くと、整然と並んだ机と椅子が見えた。黒板には何も書かれていない。誰もいない教室は、思っていたより広かった。
次の授業まで、あと何分。そんな声が聞こえてきそうな気がして、少し立ち止まった。
「有希さん?」
「……ええ、大丈夫」
廊下を進んで、突き当たりの扉の前で運転手が止まった。
「理事長室でございます」
ノックをすると、どうぞ、という父の声がした。
中に入ると、父が机の前に立っていた。その隣に、見慣れない顔がある。私と同じくらいの年の、栗色の髪をした女の子だった。
「有希、こちらは芥子未雛さん。在校生で、学校に来た時にサポートをしてくれる」
女の子――雛さんは、少し緊張したような顔で私を見ていた。それから、背筋を伸ばして口を開く。
「はじめまして、芥子未雛です。よろしくお願いします」
はっきりとした、綺麗な声だった。
「……綾瀬有希、です。よろしく」
雛さんは少し表情を緩めて、小さく頷いた。
父が「では、案内を頼む」と言うと、雛さんは「はい」と答えて私の方を向いた。
「まず、図書室はどうでしょう。有希さん、本がお好きと伺いましたので」
「……ええ」
雛さんと並んで廊下を歩く。誰かと並んで歩くのは、久しぶりだった。菜奈さんとはよく歩くけれど、年の近い、女の子と並ぶのは――初めてかもしれない。
「春休みなので、今日は人が少なくて。普段はもう少し賑やかです」
雛さんは前を向いたまま、穏やかな声で言う。
「そう」
「緊張していますか?」
「……少し」
自分でも意外な答えだった。雛さんは少し驚いたような顔をして、それからまた表情を緩めた。
「私もです。うまくサポートできるか、少し不安で」
素直な人だな、と思った。
図書室の扉を開けると、本の匂いがした。
広い部屋に、天井まで届く本棚が並んでいる。窓から差し込む光が、背表紙の上を滑っていた。病院の本棚とは比べ物にならない蔵書の量に、思わず足が止まった。
「お好きな本はありますか?」
「……種類はあまり気にしたことがないわ」
「そうなんですね。でしたらこの本棚に人気な本や、よくオススメされている本が並んでいるので、時間が空いた時にでも」
雛さんに案内されて、奥の棚を見る。背表紙を指でなぞりながら歩く。知っている題名、知らない題名。どちらも等しく並んでいた。
「好きなだけ見ていてください」
雛さんはそう言って、少し離れた場所に立った。急かさない人だな、と思いながら、私は棚の前に立ち続けた。
「他に行きたい場所はありますか?」
少し考える。パンフレットの1ページに屋上と高いフェンス越しの街の写真があったことを思い出す。
「そうね......屋上かしら。病院ではよく居たから」
「屋上ですね、こちらです」
雛さんに案内されて階段を上る。手すりを握りながら一段づつゆっくりと。雛さんはその間、静かに待っていてくれた。
屋上への扉を開けると、冷たい風が吹き抜けた。思わず目を細める。広い空が広がっていて、思っていたより高かった。病院の屋上より、少し低いくらいだろうか。
「寒くないですか?」
「平気」
縁に沿って歩くと、足元に花壇があった。小さな蕾を膨らませていて、今にも咲きそうだった。
「屋上は花壇と、ベンチしかないんですが、眺めは良いんですよ?」
そう言って雛さんはフェンスの向こうを指さす。
少し高い場所にあるこの学校の周辺は、この建物より高い建造物はなく、とても開けて見えた。
「この花壇も色々植えているんですが、今なら確かスイートピーだったはずです」
その名前に聞き覚えがあった。病院の花壇にもよく植えられている花で、花言葉の意味は、なんて言っていただろう、もう覚えていない。
柵の前に立つ。
眼下に街が広がっていた。雪解けの街は、まだどこか薄ぼんやりとしていて、色が淡かった。遠くに山が見えて、その頂にはまだ白が残っていた。川が光を反射して、細く光っている。
「綺麗ね」
気づいたら口から出ていた。雛さんが隣に並んで、街を見た。
「そうですね。私はもう見慣れてしまって」
見慣れてしまう。
それはどんな感覚なのか、私にはまだわからない。毎日ここに来て、同じ景色を見て、それでも飽きない日があって、ある日ふと見慣れてしまう。そんな時間が、私にも来るのだろうか。
風が吹いて、髪が揺れた。
空を見上げると、雲が流れていた。病院から見る空と、同じ空のはずなのに。
「……行きましょうか」
「はい」
屋上を後にして、雛さんと廊下を歩く。エレベーターで上の階へ上がり、突き当たりの教室の前で雛さんが足を止めた。
「こちらが、有希さんのクラスになる予定の教室です」
3年D組。
扉の小窓から中を覗くと、整然と並んだ机と椅子が見えた。誰もいない。春の光だけが、窓から差し込んでいた。
「入りますか?」
雛さんの問いに頷いて、扉を引いた。
静かだった。足音だけが響く。窓側の席の前で立ち止まって、窓の外を見る。校庭が見えた。街路樹の枝がまだ裸のままで、けれどその先に小さな芽があった。
一番後ろの窓際の席に、そっと手を置いた。冷たい感触。誰かがここで何年も過ごしてきた机。
「有希さんの席は、壁際になるみたいです。どこの壁際か、まではわかりませんが。でも、よかったら好きな席に座ってみてください」
私は窓側の席に腰を下ろした。椅子の感触が、病院のものとは違った。
窓の外を見る。
枝の先の小さな芽。遠くの山の白。流れていく雲。
ここから、毎日この景色を見ることになる。
毎日、ここに来ることになる。
そう思ったら、胸の中に何かが生まれた気がした。嬉しいのか、恐いのか、まだわからない。けれど確かに、何かがあった。
「有希さん」
雛さんが、少し遠慮がちに口を開いた。
「何かわからないことがあったら、いつでも聞いてください。私にできることなら、何でも」
私はしばらく窓の外を見ていた。それから雛さんを振り返った。
「……ありがとう」
雛さんは少し目を丸くして、それから静かに微笑んだ。
春が来たら、あの芽は花になるのだろう。
私はここで、その花を見ることができる。
それだけのことが、少しだけ楽しみだった。
遅くなりました。




