雪溶け
雪が溶け始め、突き刺すような冷たさの風に落ち着きが見え始める頃。
蕾が大きくなり、花壇に彩りが出始めた。
歩けるようになってから半年、杖を使いながらだが、私は安定して歩けるようになった。
もう蕾も開く季節かしら。
そんな独り言は、誰に拾われる訳でもなく消えていく。
屈んで蕾を撫でていると、看護師さんが時間だと言って、院内へ誘導する。
定期診察。いつもと変わらない、ただの確認作業。
「失礼します」
ノックして、返事も待たずに入る。
担当医の梔子椛蓮先生は「どうぞ」とカルテを見ながら言う。
椅子に座った私を見て、先生は問診を始めた。
「有希さん、調子はどうですか?」
「...変わらないです」
そう言うと、頷きながらキーボードで打ち込んでいく。
最近は、紙のカルテより電子カルテの方が普及している。
筆跡の癖による読みにくさが改善されたり、情報の共有がスムーズに行える。他にも何千人という人を診ている病院としては、保管場所や、その患者のカルテを探す手間、紙のコストを省けて、何より伝達ミスを防止できるのだから。
問診を終えると、心拍を始めとした軽い診察を行い、また電子カルテに書き込んでいく。
書かれている事はよく分からないが、その並んだ数値からあまり大きく変動していないことは一目でわかる。
「うん、少し前からずっと体の方は安定しているね」
先生はそう言うと、私の顔を見た。
何度目か分からない、毎度同じ事を繰り返しているだけ。けど何故か、先生の声色がいつもと違う気がして、首を傾げた。
「有希さん、少し話があるんだけど」
先生は少し考えるような顔をして、それから口を開いた。
「通学を考えてみない?」
「え?」
唐突だった。前にそんな話は出ていなかったし、何より私自身、考えたこともなかった。
「…どうして、急に?」
「急じゃないよ。ずっと様子を見ていたんだ」
そう言うと、梔子先生はカルテを開いてみせる。
「ずっと体調が安定しているし、軽い運動程度なら体に影響もない。何より、有希さんは15歳、普通なら学校に通っている年齢なんだよ?」
「...学校」
たしかに私は15歳で、本来なら高校生として学校に通っていてもおかしくない年齢。
けれど、私の中で学校とは本の中の舞台でしかなく、私が通う姿なんて、想像もできなかった。
授業、教室、クラスメイト。そしてできるかもしれない友達。
どれも知識として知ってはいるが、やっぱりどうしても自分の事として想像ができなかった。
「有希さんのお父さん、瑞希さんの学校はサポート体制を備えているの」
梔子先生は言葉を選びながら、けれど穏やかな声で続ける。
「もちろん、無理にって訳じゃない。毎日通う必要は無いし、体調を見ながら週に数回でだっていい」
そう言って看護師に目配せすると、看護師は入口の扉を開け、そこから父が入ってきた。
「有希...」
「父、様...?」
久しぶりに会う父は、記憶の中より少しやつれているように見えた。
「先生から聞いた。身体の調子、良いみたいだな」
父はそう言って鞄の中からパンフレットと、制服を取り出した。
「採寸は合わせてある。サポートしてくれる人も用意した。後は有希次第だ」
机に置かれたパンフレットを手に取り、ページを開く。その時初めて、父の学園を見た。
私立篠宮高等学園。
大きくガラス張りのエントランスに大きな照明、エレベーター、古さの中に趣のある校舎。
今を取り入れながら伝統を大切にしている様子がひと目でわかる。
パンフレットを置いた私は流れるように制服に手を伸ばす。
初めて触る質感に違和感を覚えながら広げる。
紺をメインにしたセーラー。襟は白く、紺色のラインが入っていて、左胸に小さく校章が入っている。
この制服を見てやっと、学校に通えるのだと実感する。
驚きはある。けれどそれ以上に私の心は凪いでいた。
通える事が嬉しいのか、恐れているのか私でもよく分からない。
「私...が通っても、いいの?」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
父は少し目を見開いて、困ったように眉を下げた。
「できるかどうかは、やってみなければ分からない。けれど——」
父は一度言葉を切って、私の目を真っ直ぐに見た。
「私は、お前に外の世界を知ってほしい。この病室の窓からじゃなく、自分の足で」
その声は、記憶の中の父より少し掠れていて、けれど確かな熱を持っていた。
久しぶりに聞く父の声。久しぶりに見る父の目。
どうして今まで会いに来なかったのかとか、どうして今になって学校なのかとか、聞きたいことはたくさんあった。
けれど、父のその目を見ていたら、そんな言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
「...はい」
頷くと、父は少しだけ表情を緩めた。
「来週、学校が春休みに入る。その時学校を見に行こう」
父はそう言うと、私の頭にそっと手を置いた。
「無理はしなくていい。辛くなったら、いつでも言いなさい」
「はい」
父は名残惜しそうに手を離すと、梔子先生に軽く頭を下げ、部屋を出て行った。
扉が閉まり、静けさが戻る。
梔子先生が「良かったね」と微笑んで、私もそれに小さく頷いた。
病室に戻ると、菜奈さんが制服を掛けながら鼻歌を歌っていた。
「おかえりなさい、有希さん」
「ええ、ただいま」
ベットに腰掛け、菜奈さんにお茶を入れてもらう。
「聞きましたよ、学校に通うんですね」
コップを傾けながら、私は小さく頷く。
「良かった…本当に、良かった」
菜奈さんの声が少し震えていて、顔を上げると、目元が赤くなっていた。
「菜奈さん?」
「すみません、つい…」
菜奈さんは慌ててエプロンの端で目元を拭う。
「有希さんが生まれた時から、ずっとお傍にいましたから。こうして学校に通えるようになるなんて…」
言葉を詰まらせながら、それでも菜奈さんは笑っていた。
私のことで泣いてくれる人がいる。それが少しだけ、不思議だった。
「大袈裟よ」
「大袈裟なんかじゃありません」
菜奈さんはきっぱりと言い切って、それからまた目元を拭った。
「…ねぇ、菜奈さん」
「はい?」
「菜奈さんは、学校に通っていたのよね」
菜奈さんは少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。
「えぇ、普通の公立ですけれど」
「どんな所だった?」
私の質問に、菜奈さんは少し考えるように視線を上げた。
「そうですね…楽しかったですよ。朝、友達と待ち合わせをして、一緒に登校して。授業中にこっそり手紙を回したり、お昼は皆でお弁当を食べたり」
菜奈さんの目が、遠い日を懐かしむように細められる。
「放課後に寄り道をして、何も買わないのにお店を覗いたり。テスト前に慌てて勉強会を開いたり。他愛もないことで笑って、些細なことで喧嘩して、でも次の日には何事もなかったみたいに話して」
その言葉の一つ一つが、私の知らない世界だった。
「…楽しそう」
「楽しかったです。でも当時は、それが当たり前だと思っていました」
菜奈さんは少し寂しそうに笑った。
「大人になってから気づくんです。あの時間がどれだけ特別だったか」
特別。私にとっては未知のもの。けれど、菜奈さんの話を聞いていたら、少しだけ——本当に少しだけ、楽しみかもしれないと思った。
「有希さんにも、そういう時間ができるといいですね」
菜奈さんはそう言って、温かい目で私を見た。
「…そうね」
私は窓の外に目を向けた。
まだ空は青く、太陽は高く病室に日が差している。
外から浴びる光はどんなものなのか、少し知りたくなった。
金で縫われた校章が光に反射して眩しく見えた。




