静かなもの
夏の初め。
梅雨の時期は湿度で髪がよく跳ねる。
髪をとかしながらアイロンをかけても、かけた端から毛先が跳ねてしまう。
ある程度アイロンをかけてから髪を後ろで束ねて、生え際の辺りで縛った。
肩甲骨の辺りまで伸びるこの髪、この時期になるといつも切りたいと思うようになる。
ヘアオイルで軽く整えてから鞄を持つ。
「行ってきます」
私の声はあまり響かなかった。
この雨音のせいだろうか。それとも、テレビの音が大きいからか。
ドアを開いて傘を開く。
向かいの家に咲いていた梅の木は、もうすっかり花も落ちて青い葉が生えていた。
雨は嫌いじゃない。
髪を整えるのに時間がかかったり、低気圧で気怠くなるのは少し面倒だが、この雨音は好きだ。
雨の1粒1粒が傘を叩く。たまに電線や葉から落ちた少し大きな粒が、少し大きな音で傘を叩くのも好きだ。
雨の日だからか、道路を通る車がいつもより遅く走っている。
水溜まりの上を通る時、近くに私がいるからとわざわざ速度を下げてくれたあの運転手のご婦人は、とても余裕のある方なのかもしれない。
軽く会釈をして歩を進める。
家から徒歩40分。いつもなら自転車を使って通学しているが、雨の日ばかりは仕方なく歩いている。
朝は苦手だ。
起きるのが億劫だと感じてしまう。
まだ少し眠気の残る目に入る光は、少しだけ痛いと錯覚させる。
途中、スーパーの前を通ると、配達ボックスの上の段に入れられた荷物を取ろうと手を伸ばしている老人がいて、代わりに取ってあげた。
さして気にする程のことでもない。
私にとって、解けた靴紐を結び直す程度の感覚なのに、その老人は逆に私が居心地悪くなるくらい感謝していて、飴を握らされた。
ほんのりとハッカの香りがする飴を口に入れて、私は雨の中で傘を広げ直した。
「おはようございます」
なるべく自分から挨拶をするようにしている。
優等生の肩書きは、それほど惜しいものではない。けれど、頼りにされるというのは悪い気分でもない。
だから私は優等生を行う。
優等生。
人によって定義は違うかもしれないが、多くの人の場合、品行方正で学業に優れた人をイメージするだろう。
けれど私の優等生は、誰かに頼られるような人。
誰かを助けて、ありがとうと声をかけられる。その繰り返し。
そして相手から頼られるようになれば、それが優等生。
けれど、相手から頼られるようになるには、それなりの実績も必要で、私は苦手な勉強も、あまり好きじゃない運動も続けている。
その点で言えば、有希さん達は私に優等生を求めない。
それどころか有希さんは、私を別の何かとして見ているような気すらする。
だからなのか、有希さん達といる時は少し肩の力が抜けた。
「おはよう」
声をかけられて振り返る。
杖をつく有希さんが、上履きを履き替えているところだった。
手伝いましょうか、と手を差し出すと、有希さんは大丈夫と言って首を振る。
少しふらつきながら上履きを履いて、エレベーターに向かう。
廊下に貼られた掲示板には、中間試験の日付が書かれた紙や、部活勧誘のチラシが貼られている。
杖は目立つのだろうか。
後輩達の視線がこちらへ向いているのがわかった。けれど有希さんは気にしていない様子。
ならばと、私は後輩達に挨拶をしてその場を後にした。
教室へ向かいかけたところで、突然声が聞こえた。
複数の声は、決していい言葉を発していない。
有希さんにも聞こえていたようで、私達はその場所へ向かった。
「最近来ないと思ったら、なんでまた来てるわけ?」
東階段の踊り場。午前はあまり使われないその場所で、3人が壁に追いやった1人を詰めていた。
見過ごす訳にも行かず、なんと声をかけるかと一瞬思案を巡らせた。
「あら、千寿じゃない。大丈夫?」
気付いたら、有希さんはその輪の中心にいた。
彼女達は有希さんを知らないのか、今にも掴みかかる勢いで捲し立てていたが、有希さんは榊さん以外存在していないかのように振る舞った。
その様子に、私の身体は自然に前に出た。
「これは見過ごせませんね」
そう言って私は声をかけた。
これでも、私は顔が割れている方だ。
よく部活のヘルプに出ているし、1年へ向けた学園説明会を行ったのも私だ。
私を知らない人もいたようだが、胸に下げられた名札を見て焦りを見せた。
「え、あ。これ、は」
明らかに狼狽える後輩は言い訳を探しているようで、私は榊さんと彼女達の間に入った。
「説明は必要ありません。名前は覚えましたので、後程職員室へ」
行っていいですよ。そう言うと彼女達は何かを言いかけて、2回ほど振り返りながら去っていった。
遠ざかる足音が、踊り場の静けさをあとに残した。
改めて榊さんを見ると、目立つ怪我や汚れはなかった。
事情を聞こうと声をかけようとしたが、放っておいてくれ、と手を払って昇降口の方へ向かっていった。
有希さんがその後ろ姿を見ていた。
心配しているのか、それとも何かを考えているのか。
私には分からなかった。
ただ、すぐに視線を戻した有希さんの顔は、穏やかだった。
きっと、放っておいていい、ということなのだろうと私は判断した。
どうしよう。
理事長にいじめの報告をするよう言われている以上、報告をしないといけない。けれど、なんと説明すればいいか分からなかった。
なにせ、被害者本人が対話を拒否したのだから。
「雛は顔が効くのね」
有希さんはそう言うと、ありがとう、と付け加えた。
分からない以上、そのまま説明するしかない。
一先ず、私は教室に向かうことにした。




