冬の病院
今年は異例の寒さで――なんて、毎年聞く口上だ。
だが、年々寒くなる時期が早くなり、初雪が降るのも早くなっているのも事実だ。真冬の気温も毎年下がっている。
今日は特に肺が凍るようだった。
篠雪市――俺、明星斥が住むこの街は、雪と付く割にあまり雪は降らない。
降っても積もらないし、積もったとしても1センチともなれば地元のニュースに取り上げられる。
雪が降らないとはいえ、凍りつくような風は吹き付け、目や鼻先はよく痛くなる。
通院のためにバスに揺られる。運転手の、寒さで赤くなった手でスロープを出してもらい、リムに手をかける。
この動作も慣れてしまえば案外悪くない。けれど、この乗り降りの時に、前に立つ人へ「すみません」と声をかけて避けてもらう――あの邪魔だと言いたげな視線だけは、どうしても慣れる気がしない。
世の中理不尽な物ばかりで、合理や道理に沿った物なんてそうあるものじゃない。
好きで乗り始めたわけじゃない車椅子、自由に動かなくなった足、それらに付随する視線の数々。
赤くなる手もこの理不尽な寒さのせいだ。
バス停から自動ドアまで、たった数十メートル、時間にして1分ほど。この短い距離を移動するだけで手が悴み、指を開くことが難しくなる。
篠雪市立総合病院。市の中央にある、この街で1番大きな病院だ。
目的は週に1回のリハビリ。下半身の不完全麻痺――自由に動かなくなった足を、元に戻すための。
自動ドアが開き、中の暖かい空気が頬を撫でる。
吹き抜けで正面がガラス張りのエントランス、等間隔に並んだ観葉植物、自動で鍵盤が動くグランドピアノ。
どれも自分の番を待つ患者の目を楽しませる、ただの退屈しのぎだ。
受付で、悴んで動かなくなった指を無理やり動かし、斜め掛けのカバンから診察券を取り出して渡す。
予約していたため、すぐに通され、エレベーターに乗り込んだ。
冬休みというのは意外と退屈で、クリスマスや正月といった大きなイベントはあるが、大抵皆家族との時間を過ごす。
かくいう俺もそうで、親戚と馬鹿みたいに騒ぐのは楽しかった。
楽しい事があれば憂鬱な事もある。俺にとってこのリハビリが憂鬱なそれにあたる。望んでなった訳じゃない。元々、足は早い方で、サッカー部のエースだったくらいだ。
本当だったら、走ることが出来たはずだった。
なのに今では両端の手すりに掴まって両足を引きずりながら、1分かけてたった2メートルを何度も往復する。
「おはようございます、明星さん」
「おはようございます、宇多見さん。今日もよろしくお願いします」
憂鬱と言う割に何度も通うのは、きっとこの人のおかげだろう。
宇多見瀬奈さん。通い始めた頃から俺の担当をしてくれている理学療法士。
元気でよく励ましてくれて、何より俺の嫌いな言葉を言わない、いい人だ。
だから側にいても気分が悪くならないし、次も頑張ろうと思える。これも多分仕事としてだろうが、それでも多少心の許せる人だ。
「今日から平行棒を始めましょうか」
リハビリ室は3階にある。1、2階は診察室やMRIなんかがあるらしい。
リハビリ室には平行棒を始め、ルームランナーやフィットネスバイク、階段や風呂、キッチンなんかの模型まで。普通の生活が出来るように様々な器具が置いてある。
――とは言ったものの、歩く事すらままならない俺にはまだ無縁な物だが。
平行棒に掴まり、ほぼ全ての体重を預ける。
「じゃぁ始めましょうか」
足を引きずるようにして右、左とちまちまと動かす。何度動けと念じても、数センチ動けばいい方。
リハビリを始めた頃は立つことすらままならなかったのだから、かなり良くなった方だと思いたい。
「あと少し」
その声に導かれるように力の入らない足に無理やり力を入れまた1歩踏み出す。
平行棒の先に触れ、ようやくこの2メートルが終わったと息を吐く。
「お疲れ様」
差し出されたタオルを受けとり、滲む汗を拭き取る。案外体力を使い、少し上がった息を整える。
時間にして1分半と言ったところか。体力が落ちたと改めて実感する。
クールタイムを置く事になって、手持ち無沙汰になった目線を部屋に移す。
見回すと俺以外にも患者が居て、高齢の男性が杖を使い、拙いながらも自らの足で歩いている。
比べるつもりはなかったが、嫌な事ばかり頭によぎる。ギリギリ立って居られるような俺に歩けるようになるのかと。
考えても仕方ないことから思考を逸らすために目線をずらす。
そこには雪とも思える白があった。
窓際の車椅子。白く長い髪が、冬の光を受けて透けるように見える。
それが少女だと理解するのにそう時間はかからなかった。
少女は窓の外を眺めていた。幼い顔立ちで、中学生か、それよりも幼くも見える。病衣から覗く手首は、想像以上に細かった。
「宇多見さん...あの子は?」
「あぁ、あの子ね。綾瀬有希さん。ここの医院長の姪御さん」
医院長の姪。それだけで、俺とは違う世界の人間だと理解できる。
少女は相変わらず窓の外を眺めていて、何を見ているのか、何を考えているのか。
そう思った瞬間、少女がこちらを向いて、その瞳が俺を捉える。
灰色の瞳は真っ直ぐこちらを捉えていて、まるで全て見透かしたかのような感覚に陥る。
少女は小さく首を傾げた後、また窓の外へ視線を戻した。
なんだったのだろうか?
胸の奥に残る、不思議な感覚
俺はしばらく、その白い少女から目を離せなかった。




