夕焼けの教室(1)
「宇都宮さん、とりあえず早く帰ったほうが良いと思う」
戒は窓際の席で夕日を浴びながらこちらに視線を寄越す少女に聞く。下校のチャイムが鳴った今生徒たちが校内に留まる理由は無い、天音が何故教室に残っているのか気にかかったからだ
彼なりの親切心から彼女に言ったつもりではあった。しかし天音の眼差しは数秒の間、戒本人に向けられて居るだけで何も反応が無い
どうでもいいような鬱陶しそうに戒を見る天音。その態度はどうみても話をまともに聞いているようなものではない
やがて、天音は戒に興味を失ったかのように夕焼けの風景を眺め始めた
あからさまに無視されたことにいささか苛立ちの感情が混じる戒だったが、そこは表に出さず冷静に深呼吸。再び天音に呼びかけた
「宇都宮さん、もう下校時間なんだけど」
「知ってるわよ、チャイム鳴ったから。あんたに言われるまでもなくね」
以外に透き通った声音から毒々しい返答が戒に跳ね返ってきた
今までの丁寧な口調はなんだったのかと疑いたくなるほどの変貌ぶり、意外な迫力の篭もったそれに気圧されつつも怯まないよう戒は説得を続けようとした
「そう言われてももう下校時間だ。校則で決まっているから早く教室から出た方がいいよ」
「・・・。」
戒はクラスメイトに語りかけるような穏やかな声で忠告したが、彼女は無視。
相変わらず窓の外の夕焼けを見ているだけで言葉に耳を傾けようともしない
戒は呆れそうになった。自分はこうまであからさまにふざけた態度を女子生徒に取られてお節介を焼く程お人好しでも勘違いしたバカでもない
少しばかり身なりが綺麗な彼女だったので珍しく親切にしたつもりだったが、もはや我慢の限界である
「最近は社会科の笹山が見回りを担当してるから気を付けて帰るようにね。それでもそこでずっと夕焼けでも見ていたいなら僕はもう何も言わないけど」
「・・・なら早く帰れよ」
小さいがはっきりと聞こえる清廉な声音から飛び出た男言葉。それにに冷たくあしらわれ、戒もこの少女に何かを言うのが無駄の徒労に思えてしまった
呆れ果てて、怒りの感情すら湧かない。戒は自分がわりと短気な性分だったことを思い出した
馬鹿馬鹿しくてやっていられなくなる。時間の無駄であると認識せざるを得ない
「そうかい、ならば僕は失礼させてもらうよ。じゃあね宇都宮さん」
男のように凄みを利かせた少女の拒絶の返事にそれ以上付き合う余地もないと見て戒は皮肉を込めた返事を送ると、戸の近くにおいていた鞄を拾い上げ教室から出ていった
天音は出ていく戒の姿を見送らず、そのまま窓の外に広がる紅く染まった雲の隙間を何かを探すかのように瞳を動かしていたが一瞬だけ出口のほうに視線を投げ
再び空を見上げるのだった
その眼差しは先程戒に向けたものとは違い透明かつ真摯であり、巡礼の時に神に祈りを捧げるシスターのようだった
彼女が空に何を求めているのか、誰も知らない
一方で、戒が四階の教室から出て三回に降りる階段の途中でとある教師に遭遇していた
その人物は戒どころか他の生徒すらもあまり遭遇したくない人物で、特にこの時間帯に遭遇するのはある意味では災難でもあった
「おい、もう下校時間だぞ」
傲慢な物言いで戒に突っかかるように言い放つ中年教師は社会科担当の笹山直人
人を威嚇するように細められた神経質そうな眼孔を宿す五十代のベテラン教師だが生徒はおろか教師の間でも評判が悪く、意外なことにこの学校に赴任してから二年ほどしか経ってない
短期間で瞬く間に悪評を広めた人物として有名であり、噂によれば前の学校でも不祥事をやらかして異動させられたとの話だが真相は明らかになっていない
戒は康生達の話から聞くに組合のコネクションがあり、それが原因でなかなか解職に追い込めないとの談だが真相は不明である
彼の眼がまるで近所のいたずら小僧を燻り出して咎めるように刺す視線で戒を捕らえた
「おい。神城戒だったな?」
「はい、そうですが」
戒は脳裏に浮かんだ笹山に対する印象をすぐに思考の奥底に引っ込めて模範生徒らしく実直な声音で答えた
彼が教師や大人たちに話すときの落ち着いた声で演じるのは大抵の場合効果的なのだが、それで笹山は陰険な眼光を弱めることは無いかった
面倒な事になりそうだ、と戒は考えた。不幸にも彼の予想は的中することになった
「お前、下校のチャイムが鳴ってから既に七分が経過しているようだが、何か済ませるべき課題でもあったのか?」
「教室に忘れ物が有りましたので取りに行ってました」
本当のことを話したが、笹山はフン。と戒を馬鹿にするように鼻を鳴らし傲慢な物言いで言う
あからさまに生徒を見下した言い方に戒も感情がざわめくのを感じずには居られない
「なら早く帰れ。生徒達の構内での素行を監視するために今日から私が定期的に見回りをやっているんだ
お前達のような馬鹿な餓鬼が居るから、特別手当も付かない学校の見回りをしないといけないのだよ」
笹山の言っている事は確かに間違っていないように聞こえるが、ここまで高慢さを隠さずに言われると些細な反抗心が波立ってくる
年下に対しても礼儀としての言い方というのがあるのだが、笹山はそこまで頓着していないようである
思い切り馬鹿にされているような言い方に反骨心がむくむくと鎌首を擡げ始めるがここは自分を諌めるしかない
そう、この場で彼に何を言っても解決しない。笹山によからぬ噂があったとしても一応は正論なのだから、彼の言い分も間違っては居ない
「・・・はい、申し訳有りませんでした。それでは」
戒はさっさと切り上げるように言うと、笹山は聞こえるように舌打ちを残して四階への階段を上っていった
流石の彼も同じように舌打ちを返してやりたい程には心中穏やかではなかったが、笹山と同レベルにまで堕ちるのは流石に御免被る
仮にも教師なので下手に因縁を付けられて面倒事になるのは避けたかった、足早に下の階へと降りていく
理不尽な信念を振り回して他人に迷惑を撒き散らす輩は大人であっても敬意を払えない。そのような人間とは可能な限り関わらない事がベストなのだが避けられない不幸も有るのだ
(宇都宮さん、僕にあんな事言ってたけど笹山に言い返して変なことにならないだろうか?)
少女の以外な毒舌を浴びせられた戒は、ほんの少しだけ宇都宮天音の整った顔を思い浮かべる
彼女の態度は正直言って気に食わない。成績は学年でも五指に入ると聞くが教師にも従順な所もあるが基本的に孤立しているため、教師にも生徒にも目をつけられているのが天音だった
対する笹山は以前赴任していた学校で女子生徒と何らかのトラブルを抱えていたという噂がある
その事は教師の間でも何回か問題視されているようだが、表沙汰になる前に教師が口を噤むことが多いと聞く
彼女が神城が帰った後にもすぐにも帰宅の途へ付いていたとすれば問題無いのだが
真っ赤に染まった校舎を振り返った。校門で先輩を待っていたのだがまだ来る気配は無い
(さて、どうするか?)
戒はしばしの間、思案に暮れた。クラスメイトというだけの自分とあまり関わりの無い筈の少女に、やや肩入れしてしまう理由は解らない
だが、彼は結論を下すことにした。何故そうしようと思ったのは自分でも解らなかった




