放課後の彼女
キーンコーンカーンコーン
単調な学校のチャイムのリズムが本日の学務が終了したことを校内中に告げた
チャイムが昔のサイレン音から今のような『ウェストミンスターの鐘』という英国由来のクラシック音楽めいたものに変更された経緯は
空襲の時に敵機の襲来を告げるサイレン音を、当時の子供が嫌がったというエピソードから来ているとされるのだが
戒はチャイムの音なんて特に興味は無かったし、始業や終業を告げる音としか認識していなかったのでその事は知らなかった
それはともかくとして、生徒たちの間から退屈な授業への開放感と放課後の時間への期待感が教室中に広がる
「起立。礼」
「よし、明日までに今日の課題をノートに纏めてくるように。では以上!」
号令係が決まりきった台詞を告げ、教師も応じるように終礼の挨拶を告げると本日の最後の授業が終了した
雑談や鞄に物を仕舞う音で溢れかえるひと時。担任の教師によるホームルームが始まるまでの短いながらの弛緩し切った空気が溢れる
学生ならではの若い活気に満ちる教室は誰にとってもおなじみの光景である
その中で窓際に座っている眼鏡を掛け髪を腰まで伸ばした女子生徒は他の生徒たちと異なるものを見ていた
彼女が目を向ける先は窓の外の景色。グラウンドを退屈しのぎに眺めているわけでも、学校の外に広がる街に放課後の逢瀬を夢見ているわけでもない
「・・・。」
彼女は無言で、眼鏡の奥の澄んだ光を宿す瞳は上空の空を見ていた
無数の雲の中に潜む何かを透かし見るかのように少女は天へと思いを馳せていたのだった
(今日も誘われたけど。)
康生には今日もゲーセンに誘われたのだが、手持ちの金が少ないことや門限を理由にして静かに断った
彼らも戒を仲間に入れようと誘ったようなので悪気はないのだろうが、誘われる行為そのものが彼にとって少し疎ましいとさえ思っていた
正直に言ってしまえば自分のクラスには戒の様な人間は少なくいわゆる体育会系の人間が多い
運動部に所属している人間はチームワークを大事にする部が多いためか他人や知り合いとの付き合いを重視する傾向にあるのだ
反面、戒みたいな孤独を好む人間からすれば彼らのような人間と関わるのはかなりの心労を要するのだ
戒は集団に気を使って神経をすり減らすよりも、静かに文庫本を読んだり空の景色を見て楽しむことのほうが大切だったのだ
完全に康生達と縁を切れればそれはそれで良いとも彼は考えているが、集団の輪から外れてしまってはいろいろと不都合な点が生じる
虐めや陰口などがそれだ、そしてやや神経質な戒はそれを享受する神経の太さに自信が無かった
彼は中学の時、クラス中に本が好きだという理由だけで仲間はずれにされたことがある。そのときの恐怖が未だに彼の心を縛っていた
クラスを相手にするということは四十人近くの生徒たちと消極的な対立状態に入ることを意味している
それ故に今は必要最低限ながらも比較的穏やかな連中と交流を続けているのだ。それが苦痛に感じることがあったとしても省られるよりは相当マシである
尤も、慣れないことなのであまり上手くいっているとはいえないのだが
「さて、と」
鞄の紐を肩に軽く吊って、人の少なくなった教室を出て気分転換に一息、深呼吸する
残っている数人の雑談を横目に戒は文芸部の部室へと向かっていった
「あれ?」
戸を開くが飛鳥の姿は無かった
大体先輩である彼女はいつも戒より早めに部室の席に座り文庫本のページを捲っているのが普通だったからだ
「先輩も用事があったのかな?」
飛鳥の鞄などは置いてなかったことから、彼女は今日はまだ部室に来ていないことになるのだろう
(少し、待とうか。)
手前の椅子に腰掛けて、棚に仕舞ってある文庫本の一冊を適当にとってページを捲る
題名は戒も聞いたことがあるもので、海外の有名作家の本を翻訳したものだった
最近の本などは無い。飛鳥は商業主義に染まっていない頃の娯楽として完成された類の二十年近く前の作品を愛読していたからだ
ページを開くと、翻訳が悪いのかやや読みにくく直訳的な言い回しが多い一文が目に入る
それでもテーマなどは伝わってくるので翻訳の失敗はともかく、荒削りながらもこの本の面白さは味わえそうだと戒は感じる
不在の先輩のことは気になるが、しばらく戒は本のページを捲る事に集中した
キーンコーンカーンコーン
部活動の終了を告げるベルが鳴り、戒は顔を上げる
本に熱中して四分の三ほど読み終わっていた、栞を挟んで静かに本を閉じ元の棚へと戻す
物語りそのものにのめりこんでいたせいか、時間の感覚は無くなっていた
(先輩、何で今日は来なかったんだろ?)
疑問を口にする。もう一部を除いて生徒は下校しなければならない
しばらくここで待っていることも考えたが、教師に見つかっていろいろ説明することが面倒だったのでそのまま帰ることにした
そして、何かに気付いた後に鞄を探っている最中にとあることに気付いた
「ノートを教室に置いたままだっけ?」
忘れ物に気が付き引き返す。夕暮れの色に染まった校舎と校舎を繋ぐ連絡通路はそれ自体が朱色の橋のように真っ赤に染まっている
とりわけ急ぐ必要も無いのに戒は駆けていた。自分でもわからない衝動に突き動かされて
教室への道を急ぐ。校舎に人は殆ど残っていなかった
「誰だ・・・?」
教室の入り口にたどり着いたところでそれに気付く
部屋の中、それも誰もいない筈の夕日に照らされた教室の窓際の席で女子生徒が窓の外に目を向けている
直接話した事は無いが見覚えのある不思議な雰囲気を漂わせる少女だった、もしかしたら高校に進学する前に会っていたかもしれないと思うが記憶はあまり宛に出来ない
名前がすぐには出なかった。必死に思い出そうとする戒。そして口に出した長い髪の同級生の名前は・・・
「宇都宮さん」
思わず呟いた声に少女が黒板の前に立っている戒に目を向けた
長い黒髪が夕日に照らされて橙色に染まっている。凛とした立ち姿が彼女の存在感を昼間のときと段違いなほどに引き上げていて一瞬身間違えそうになる
眼鏡の片方は夕日の逆光で光を反射しており見えないが、戒に声をかけられたのをあまり歓迎しているようには見えない
黒曜石のような輝きを秘めた瞳が片方だけ戒を見据える
「神城君。どうしたんですか?」
少女は自分に声をかけた人物に視線を向けると抑揚のあまり無い声で彼の名前を呟いた
感情のあまり篭もらない声音は意外に良く透き通った管楽器のようであり小さくとも言葉ははっきりと戒の耳に届いた
それは声は級友に対する反応としては無関心そうな色が多く相手にあまり良い印象を与えかねない声音だったが、戒は特に文句を言う気は無かった
彼女の気持ちは分からなくも無い。あまり接点の無い異性が自分に話しかけてくるのは必ずしもいい印象を与えるものではないからだ
それよりも、何故自分の名前を知っているのかが引っ掛かる。クラスメイトだから覚えていても当然なのかもしれないが
戒でさえ名前は半分以上しか覚えておらず、さらに十人ちょっとしか名前と顔の一致するものは知らなかったからだ
彼はじっと天音の瞳を見つめた、彼女を見ると心の奥底の何かが疼く感触を受ける
その正体が何であるかなどはっきりと説明することは出来ないのだが
「あまり見ないで」
「ごめん」
戒はとりあえず謝った
あまり謝るのは気が進まないが綺麗な彼女に言われると、一方的に自分が悪いような気がして非を認めざるを得ないのだ
だが、それを抜きにしても天音には何かを感じる。昔あったことのあるようなデジャブのようなものを
その感情の正体が何であるか今の戒には解らないままだったが




