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瞳に映る坂の街  作者: 橘かすみ


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教会の扉の前で、湊は一度立ち止まった。


灯は隣に立つ。声はかけない。


しばらくして、湊が自分で扉を押した。


中は静かだった。

朝の礼拝前で、人はいない。


湊はまっすぐ祭壇へ向かう。足取りに迷いはない。


祭壇の上に置かれた古い写真に目を向ける。

若い頃の牧師が写っている。


「……久しぶりや」


低い声だった。


灯は少し後ろに立ったまま、その背中を見る。


「待っとったやろか」


湊が言う。


灯は答える。


「待っとったと思う」


手紙の一文を思い出す。

否定できない、と書いた人だ。


湊はしばらく黙り、それから言った。


「俺は、あいつを愛しとった」


はっきりした口調だった。言い訳はない。


灯はうなずく。


「うん」


湊は写真から目を離さずに続ける。


「帰れんやったと思っとった」


灯は言う。


「帰り方がわからんやっただけやと思う」


湊は小さく息を吐く。


否定はしない。


外から港の音が聞こえる。

船のエンジンの音と、人の声。


湊の姿が少しずつ薄れていく。


灯はそれを見ている。


「俺は、帰る」


湊が振り向く。


灯は一瞬だけ迷うが、言う。


「いってらっしゃい」


湊はうなずいた。


「ああ」


それだけ言って、姿は消えた。


礼拝堂には灯ひとりが残る。


しばらく動かなかった。


やがて祭壇の横の名簿を開く。


空白だったはずの行に、名前がある。


湊の名前。


灯は指でなぞる。消えない。


ページを閉じ、教会を出る。


町はすでに忙しない朝として動き始めていた。


港では漁船が沖へ向かっている。

見送りの声が交わされている。


灯は石段を下りながら、叔母の言葉を思い出す。


巻き込まれただけや。

背負わせんでよかって。


すぐに全部を受け入れられたわけではない。


今も、ときどきあの夜の順番を考える。


自分が言った。

両親が出かけた。


けれど、それだけではなかった。


両親には両親の事情があった。


灯はその中にいただけだ。


それでも、生きている。


生き残ったのか、生かされたのかは、まだはっきりしない。


ただ、前よりも自分を責める時間は減った。


灯は港のほうを見る。


あの夜と同じ海だ。


景色は変わらない。


変わったのは、自分の受け取り方だけだ。


この街は、追い出す街ではない。


送り出す街。


灯は小さく言う。


「いってらっしゃい」


誰に向けた言葉かは、自分でも決めていない。


それでも、足は止まらない。


灯は歩き出す。


まだ完全ではない。


それでも、この街で生きていく。

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