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終電の窓に映った自分の顔が、知らない人みたいだった。
目の下の影は濃く、口角は下がったまま戻らない。
今日は会社のデスクで意識が遠のいた。
目を開けると、同僚が覗き込んでいた。
「ちゃんと寝てる?」
寝ているはずだった。
けれど夜になると目が冴え、心臓だけがやけにうるさい。
繁忙期はとうに過ぎているのに、
数字が頭から離れない。
帰宅は午前二時。
朝は七時に家を出る。
限界、という言葉が頭から離れない。
ふと、もう2週間くらい彼氏と連絡を取っていないことを思い出した。
私から連絡しないとこんなにも間が空くのか…
と徐にスマホを開いた。
1番上には彼のSNSの更新の通知。
なんとなく嫌な予感がした。
開くつもりはなかったのに、指が触れていた。
そこには、知らない女の子との写真。
距離が近い。
自然すぎる笑顔。
最近、見ていない顔だった。
胸の奥が、静かに冷える。
しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
あぁ、っと我に返った灯は自分から彼に電話をかけた。
コール音が、永遠にも思えるくらいやけに長い。
「もしもし」
いつも通りの声。
それが、少しだけ遠い。
「あの写真、なに」
問い詰めるというより、確認だった。
電話の向こうで、わずかな沈黙。
「……灯はさ」
彼は小さく息を吐く。
「悪くないよ。でも、ちょっと重いんだ」
重い。
その言葉が、胸ではなく、頭に落ちる。
仕事で削れて、
余裕がなくて、
それでもちゃんと向き合おうとして。
それが、重い。
灯はただただ、思った。
——ああ、疲れた。
もういいや、と。
「わかった。別れよ」
あっさりと言えた。
自分でも驚くほど、簡単だった。
電話の向こうで、彼が息を呑む音がした。
想像と違ったのだろう。
灯は少しだけ黙って、それから言う。
「今まで、ありがとう」
返事を待たずに、通話を切った。
画面が暗くなる。
部屋は静かで、
心も、不思議なくらい静かだった。
仕事で削れた心は、
恋で穴が開いて、
ちょうど空っぽになった。
帰り道、ビルのガラスに映る自分を見る。
軽い。
何もない。
泣きたいとも思わないのに、胸の奥だけが冷えている。
そのとき、不意に潮の匂いを思い出した。
あの街の、朝の海。
いい思い出なんて、ほとんどなかったはずなのに。
坂を上るたびに息が切れて、
居場所もなくて、
早く出て行きたいと願った街なのに。
どうしてだろう。
あの港の色が、唐突に懐かしかった。
理由はない。
ただ、帰りたいと思った。
坂の多い、西の港街へ。
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駅を降りると、湿った空気が頬に触れた。
ここは、両親が亡くなってからずっと、
灯にとって唯一“帰れる場所”だった。
坂を上り、叔母の家の門をくぐる。
「あら、早かったね」
台所から声がする。
「仕事は?」
「辞めた」
その一言で、空気が少し変わった。
「はぁ……やっぱりね」
小さな溜息。
夕食の席で、従兄が笑う。
「なんややっぱり戻ってきたと?」
“やっぱり”。
その2人の言葉が、静かに刺さる。
「灯は昔から真面目すぎるけん。要領悪かもんね」
叔母も頷く。
「まぁ、若かとやけんやり直せるやろ。でも——」
味噌汁を置く音。
「ここはあんたの家じゃなかとよ。あんま頼りにされても困るけんね」
柔らかい声だった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
灯は笑う。
「うん。わかっとる」
両親が亡くなった日も、
“強い子やけん大丈夫”と言われた。
泣きたいのに泣かなかった。
今も、泣かない。
ここは帰る場所のはずなのに、
どこにも根を下ろせない。
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布団に入っても仕事をしていた時と同じように眠れない。
早朝というにはまだ早い時間だが、灯は静かに起き上がる。
外はまだ薄暗い。
歩き慣れた坂を上る。
昔、嫌いだった坂。
息が切れる。
それでも止まらない。
向かうのは、山の上の教会。
両親の葬儀が行われた場所。
石段を登りきると、朝焼けが街を包んでいた。
屋根の連なり。
遠い港。
細い路地。
こんなにも小さかったのだと、思う。
「お嬢さん、早かね」
穏やかな声が、すぐ後ろからした。
振り向く。
石畳の端に、男が立っている。
黒い瞳で、私ではなく港街を映していた。
値踏みするでもなく、
ただそこにいる。
「……眠れんやっただけです」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
男は小さく頷く。
「朝は、静かでよか」
それだけ言って、同じ景色を見下ろす。
隣に立たれても、息が詰まらない。
沈黙が重くない。
灯は小さく息を吐いた。
——ああ。
少しだけ、楽だ。
朝の光が、二人の間に落ちる




