<突然の出社命令>
数日後。
ぼくはいつものように、自室でタブレット端末で取材資料を整理していた。
先日の取材で撮影した写真や映像を整理しながら、記事に使えそうな資料を分類していく。
「これは植物園の資料。こっちは花屋。で、これは…」
指先で画面をスライドさせていると、一枚の写真が目に留まった。
月面都市の商店街。その一角で撮影した写真だった。
写っているのは、花蜜アイスを手にした一匹のうさぎ。
こちらに振り返っているわけではない。
ただ、後ろ姿のまま、楽しそうにアイスを眺めている。
―ミア。
つい先日のことなのに、ずいぶん昔の出来事のようにも感じられた。
気がつけば、ぼくは画面をじっと見つめていた。
花蜜アイスを受け取ったときの嬉しそうに笑っていた顔。
そして。
まだ名前すら知らなかった相手に、ぼくはブローチをプレゼントした。
急に恥ずかしくなった。なんであんなことをしたんだろう。
いや、もちろん、困っているように見えたから。
それに、あのブローチが似合うと思ったからで…。
「誰に言い訳してるんだ、ぼくは」
小さくため息をつく。
写真の中のミアは、そんなぼくの葛藤など知る由もなく、花蜜アイスを持って楽しそうにしている。
その姿を見ていると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
「…また会えるかな」
ぽつりと呟く。
この月世界に来てから、ぼくには分からないことばかりだった。
自分が何者なのか。
なぜぼくは、ヒトだったという記憶以外、覚えていないのか。
そして、どうしてぼくは、ポケベルを持っていたのか。
考えれば考えるほど、頭の中には疑問符が増えていく。
けれど、ミアと過ごした時間だけは、そんなことを忘れさせてくれた。
ただ一緒に歩いて、食べて、話した。
それだけなのに、不思議と心が軽くなった。
「今度会ったら…ポケベルのこと、話してみようかな」
ふと、机の端へ視線を移す。
そこには、すっかり風景の一部と化していた黒い小さな箱「ポケベル」が置かれていた。
この世界に来てから、一度も鳴ったことがない。
「…持っていくか」
仕事用のバッグを開き、ポケベルを中へ入れる。
その瞬間――。
ピコッ! ピコッ!
「わっ!」
突然、背後から電子音が鳴った。
反射的に耳が跳ね上がる。
「なんだ、通話装置か」
部屋に設置された通信端末を見る。
画面には、『編集長』の文字が点滅していた。
「編集…?」
ぼくは慌てて通信をつなぐ。
『おお、アルト。今、大丈夫か?』
「はい」
返ってきた声は、いつもの豪快なものだった。
けれど、どこか妙に真剣だ。
『休日は満喫できたか?』
「え? あ、はい。」
『そうか。それならよかった』
一拍。
『実はな。お前に作ってもらった植物園の記事について、少し突っ込んだ打ち合わせがしたい』
「…え?」
『明日、編集部に出社してくれ』
「出社…ですか?」
『そうだ。直接話したい』
通話が切れた後、ぼくは一人、部屋の中で首を傾げた。
ぼくはこの世界において、編集部に所属してはいるものの「フリーの記者」という遊軍的な位置づけにある。
スターグラス商業シティにある編集部のオフィスには一応、自分のデスクも用意されているらしいが、
これまで直接出社することはほぼなかった。
タブレット端末一つで完結するこの世界で、わざわざ「対面での打ち合わせ」を指定されるというのは異例だ。
もしかして、あの記事の中で何かとんでもないタブー(例えば、地下の国家機密についてなど)に触れてしまい、大問題に発展したのだろうか…。
一抹の不安が胸をよぎり、その夜はなかなか寝付けなかった。
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