<休日散歩>
しまった。
案内端末をずいぶん長いこと独占してしまっていたらしい。
ぼくは慌てて横へ避けながら、
「あ、すみません! 長く使いすぎ――」
と言いかけて、ようやく気づく。
……あれ?
今の。ぼくに向かって挨拶した?
聞き覚えのある声が、数拍遅れて頭の中でつながる。
はっと顔を上げると、そこには見慣れた少女が立っていた。
「あっ……!」
駅前のカフェでいつも笑顔を向けてくれる、あの店員さんだ。
「あ、カフェの……!」
思わず声が弾む。
彼女は少し照れたようにグレーの耳をぴくりと揺らし、ふわっと花が咲くように微笑んだ。
「ふふっ。気づいてもらえてよかったです。」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
「今日は制服じゃないから、一瞬わからなかったよ。」
「ですよね!」
彼女は嬉しそうに笑って、その場でくるりと一回転してみせた。
今日はいつものカフェのエプロン姿ではない。
クリーム色のゆったりしたパーカーワンピースに、小さなポシェット。
ラフな服装なのに、どこか上品で、年相応の可愛らしさがある。
休日の私服というだけで印象はずいぶん違うものだ。
……正直、かなり似合っている。
そんな感想を口にしたら照れさせてしまいそうで、心の中だけにしまっておいた。
「こんなところで会うなんて偶然ですね。」
彼女は嬉しそうに話し始める。
「今日は税金の手続きがあって役所に来てたんです。
そしたら案内板の前で、ものすごく真剣な顔をしてる人がいて…
『誰だろう?』って思ったら、いつものお客さんだったので。」
「はは……。」
思わず頭をかく。
「かなり夢中になってたから、周りが見えてなかったよ。」
「見ていてすぐわかりました。」
くすくす笑う彼女。
その笑い方まで、どこか癒やされる。
彼女は少し首をかしげると、大きな瞳で真っすぐ、ぼくを見つめた。
「そういえば……最近、お店に来られてませんでしたよね。」
「あ……」
「いつも仕事帰りに寄ってくださるのに、急に来なくなったので……。」
言葉の最後は少し小さくなる。
「どうしたのかなって、ちょっとだけ心配してたんです。」
そう言って、指先をもじもじと合わせながら照れ笑いを浮かべる。
……心配してくれていたのか。
その一言だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「いや、本当に仕事が立て込んでいてさ。」
ぼくは苦笑しながら肩をすくめる。
「植物園の取材記事を書いてたんだけど、気づいたら丸二日徹夜で。部屋にこもりっぱなしで。」
「えっ、二日間ですか!?」
彼女は耳をぴんっと立てて目を丸くした。
「ちゃんと寝ました?」
「記事を書き終わってから、丸一日寝てたよ。」
「寝すぎです!」
ころころと笑う彼女につられて、ぼくも笑ってしまう。
こうして誰かと他愛ない話をするのは、いつ以来だろう。
「今日はその代休なんだ。」
「なるほど。」
「だから街をぶらぶら見て回ろうと思って。」
少しだけ間を置いてから続けた。
「もし時間があるなら、このあと一緒に歩かない?」
彼女は一瞬だけ目を丸くしたあと、
「はいっ!」
と満面の笑みを浮かべた。
「もちろんです!私もちょうど手続きが終わったところなので、このあと暇です!」
その笑顔は、本当に花が咲いたようだった。
断られるかもしれない、と少しだけ思っていた自分が馬鹿らしくなる。
「じゃあ行こう。」
「はい!」
並んで役所を出る。
ルナ中央行政シティの駅前広場では、植物の浄化システムを利用した巨大な噴水が、七色の水しぶきを上げていた。
白い石畳に反射する光がまぶしい。
吹き抜ける風は少しひんやりしていて、噴水の水音が街のざわめきを優しく包み込んでいる。
「こっちへいきませんか」
彼女が元気よく先を歩き始める。
ぼくもその後を追いかけた。
案内された先は、小ぢんまりとしたアーケード商店街だった。
ルナニュータウンの大きな商店街とは違い、どこか昔ながらの温かみがある。
焼きたてパンの香り。
花屋から漂う甘い香り。
工芸品店に並ぶ手作りのランプ。
どの店先からも、店主たちの笑い声が聞こえてくる。
「この商店街、安いんですよ!」
彼女は目を輝かせながら右へ左へと忙しい。
「あっ、お花屋さん!」
「パン屋さんもいい匂い!」
「わあっ、あの雑貨屋さん見てください!」
ころころと表情を変えながら歩く姿は、まるで好奇心いっぱいの子うさぎだ。
「こっちです!」
ぐいっと袖を引っ張られる。
その勢いに少しだけドキッとしながら、ぼくは苦笑して後をついていった。
店内には、植物のツルを丁寧に編み込んだアクセサリーや、月の石を磨いて作られた淡く光るランプ、
小さな植物を閉じ込めたガラス細工など、思わず足を止めてしまう可愛らしい雑貨が所狭しと並んでいた。
「わぁ……!」
彼女は子どものように目を輝かせながら店内を見回し、そのままショーケースの前にしゃがみ込む。
その視線の先にあったのは、一つのブローチだった。
透明なガラスの中に、青白く輝くムーンライト・ダリアの花弁が閉じ込められている。
──あれは。
先日、取材で訪れた『月の花屋』で見かけたデザインだ。
「綺麗……」
彼女はそっとつぶやいた。
「でも、ちょっと私には大人っぽすぎるかな」
名残惜しそうに微笑みながら立ち上がろうとした、その瞬間。
気づけばぼくの手は、自然とショーケースへ伸びていた。
「えっ?」
「これ、ください」
自分でも驚くほど迷いがなかった。
店主が丁寧に包んでくれた小さな箱を受け取り、ぼくはそのまま彼女へ差し出す。
「いつも美味しい日替わりセットで、ぼくの健康を支えてくれているお礼です。」
少し照れくさくなって視線をそらしながら続けた。
「その……今日の服にも似合いそうだったから。」
彼女は一瞬ぽかんとした顔をしたあと、みるみる耳の先まで赤く染まっていく。
「そ、そんな……!」
両手で包みを受け取り、大切そうに胸へ抱き寄せる。
「ありがとうございます……!
本当に、すっごく嬉しいです……!」
その笑顔を見た瞬間。
ああ、買ってよかった。
そう思えた。
店を出る頃には、彼女はさっきまで以上に上機嫌だった。
「あっ!!」
今度はアイス屋さんの前でぴたりと立ち止まる。
「これです!花蜜アイス!」
ショーケースを指差しながら満面の笑み。
「子どものころから大好きなんですよ!」
「へぇ、美味しそうだね。」
……花より団子、なのかもしれない。いや、ここでは花も食べ物か。
そんなことを思いながらも口には出さない。
二人でミニサイズの花蜜アイスを買い、商店街を歩きながら食べ始めた。
ぼくは数口で食べ終えてしまったが、彼女は大事そうに少しずつ味わっている。
「この甘さがいいんですよねぇ♪」
楽しそうに話しながら歩いていた、その時だった。
「わっ!」
彼女が小さくつまずいて体がふらつく。
反射的に手を伸ばすと、彼女の腕をしっかり支えることができた。
「ありがとうございます!…セーフでした!」
にこっと笑ってこちらを向く。
……その鼻先に、白いアイスがちょこんと付いていた。
ぷっ。
思わず吹き出してしまう。
「えっ? な、なんですか?」
彼女はきょとんと首を傾げる。
「ご、ごめん……セーフって言った直後に、鼻にアイスが付いてたから。」
「あっ!」
慌てて鼻を触る彼女。
その仕草があまりにも可愛くて、ぼくはまた笑ってしまう。
「もうっ!笑わないでください!」
そう言いながら本人まで吹き出してしまい、二人で顔を見合わせて笑い合った。
こんな他愛のない時間が、どうしてこんなにも楽しいのだろう。
――――――
商店街のパン屋で焼きたてのパンと温かなハーブティーを買い、ぼくたちは再び駅前広場へ戻った。
噴水の水しぶきがほんのり届く木陰のベンチ。
柔らかな風が吹き抜け、花の香りがふわりと漂う。
ハーブティーを片手に、ぼくたちは取り留めのない話を続けた。
植物園の取材のこと。
徹夜で記事を書き上げたこと。
編集長に褒められ、二日間の休みをもらえたこと。
「すごいです!」
彼女は目をきらきら輝かせる。
「記事が雑誌に載ったら、絶対買います!」
まるで自分のことのように喜んでくれる。
その反応が、なんだか照れくさくて嬉しかった。
今度は彼女の話を聞く。
実家はルナニュータウンの少し外れ。
子どもの頃から接客が好きで、今のカフェの仕事が毎日楽しいこと。
そして、いつか自分のお店を持つことが夢だということ。
夢を語る彼女の瞳は、月の空よりもずっと輝いて見えた。
言葉を交わすたびに思う。
笑う顔も。
真剣な表情も。
嬉しい時にぴんと立つ耳も。
照れた時にふわりと垂れる耳も。
その一つ一つが、不思議なくらい心に残っていく。
「植物園で事件があったって聞くと……」
彼女が少し心配そうに尋ねた。
「記者さんのお仕事って、怖くないんですか?」
ぼくは少し考えてから答えた。
「怖いこともあるよ。でも、それ以上に知らないことを知る方が好きなんだ。」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、小さくざわついた。
……なぜだろう。
まるで昔から、そうやって生きてきたような。
そんな懐かしい感覚が、一瞬だけ胸をよぎる。
ぼくは小さく笑って続けた。
「それより怖いのは……思い出せないことかな。」
自分でも驚くほど自然に言葉がこぼれた。
「まだ思い出せないことが多くて。」
視線が自然と足元へ落ちる。
「本当の自分が、どこかに置き去りになってる気がするんだ。」
少しだけ沈黙が流れた。
すると彼女は何も言わず、そっとぼくの隣へ少しだけ近づいた。
肩が触れそうなくらいの距離。
優しい声で、小さく微笑む。
「だいじょうぶです。」
その一言だけだった。
「きっと、思い出せます。」
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