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便箋小町  作者: 藤光一
第二章 鍛錬編

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67師範の組み手とおまかせを

 一触即発。この光景を表現するならば、敢えてそう捉えようか。カイデンは垂を稽古場へと案内した。このフロアは無色で揃えられたあの空間とは違い、彼らの足元に並べられているのは一面の畳。寸分の隙間無くピシリと綺麗に並べられた畳からは、まだ新品のようで“い草”の香りが特に強く漂っていた。彼らとの間に一直線状に引かれた畳縁を中央線とし、そこから数歩ずつ離れた位置に対峙する。堅苦しくも重く刻む音。機械的なものかと思えば、その足踏みは秒針を正確に刻む時計だった。そう思わせる程に、この光景は緊張を走らせる。この深層心理により、彼らは触発されている。


(さて・・・、こうして拳を交えると余計に物騒やで・・・。イサムはんは素人ながらに構えている筈なのに、ひとっカケラも殺気が無い。)


 カイデンは懸念していた。そして、困惑もしていた。相手は、どう見ても素人。自分と、どれだけ見比べても格下。それは明白だった。その力量の差は、子供と大人が取っ組み合いをするようなもの。だが、これは組み手。組み手とは、何も優劣を決めるものでは無い。互いの力を確かめ合い、より実践的な攻防を養う為の訓練。故にカイデンは、垂の素質を改めて己の体躯で受け止めようとしていた。この目の前に対峙する青年がどれ程の者なのかを。洗練された無駄の無い構え、隙というものを針の糸すら一切寄せ付けない型。対する垂は、彼の見よう見まね。それも当然である。彼はこれまでに碌な格闘術はおろか、汗水流す運動をしてきていない。荒削り・・・。一見、遠目で見てしまえばなんて事の無い素人の構え。誰もがそう見えていた。ただ一人、カイデンを除いて。


「おー、えぇなぁ。こー言うんも・・・。自分、オモロいやっちゃ。」


 それは虚勢か、迫真か。それとも彼自身のプライドが覆い被さってきたのか、彼の頭の中では全く逆の事を思っていた。ただ、口に出した唯一の真実は彼への興味。垂イサムという異質な存在。その興味本位が潤滑油となって、彼の歯車を回す。


(普通、どんな人間だって殺気なんちゅーもんは、針の穴を通すくらいのサイズだって飛ばしていりゃあ嫌でも気付くもんや。なのにワイの身体には、どこにも殺気を当てられた感覚が無い・・・。)


 彼の思うところは一理ある。それは人間に限らず、身を潜めながら獲物を狙う肉食動物だって抑え込んだ殺気はある。だが目の前に対峙するこの青年には、その殺気どころか“気”が全く感じ取れない。極めて、異質であり異例。そのイレギュラー要素は、困惑する思考とは裏腹に身体は武者震いを起こしていた。そんな御託は良い、今すぐ始めろ。拳を、蹴りを、身体をぶつけさせろ・・・。それは本来の(さが)、妖怪の根底にある闘争本能故の原動力だろうか。カイデンがどれだけ拳を握り締めても、その震えは治まる事は無かった。殴り合わない事には始まらない、治らない。彼は、その(たぎ)った想いを決して表には出さなかった。あくまで平常心、あくまで自分が師範である故に。


「なんか改めてだと、緊張しますね・・・。」


「そう言うもんや。練習してなんぼや、戦闘なんてな。そうすりゃ、緊張は次第にほぐれていくで?」


 だが、その蒼く鈍ませた彼の瞳だけは笑っていなかった。視界に映る情報だけは、一秒たりとも目を離す訳に行かなかった。対する垂は、カイデンの逆だった。少しでも平常心を保つ為に、敢えて緊張を表に出す。そうしなければ、この恐怖心を拭い切れなかった。このツグミ道場で垂が出会ったどの者よりも、カイデンはずっと小さい。普段の小人サイズよりから人間サイズまで大きくはなったが、それでも虎や蛇に比べれば本来ならば恐怖心は劣る筈。だがそう彷彿させないのは、やはり彼自身の体躯から発する覇気とも呼べるオーラだろうか。針山に触れるかのように、垂は全身にその刺激を受けている。嫌でもピリつく緊張は、空気をぐっと硬直させていた。カイデンは肩に撫で下ろした三つ編みの髪を後ろへと払い、口元を笑わせる。


(武術や気術や魔術に長ける者ほど、相手の“気”の状態を頼ってしまう。それが見える奴ほど、“気”やマナの流れを見てどう動くかっちゅーのが戦いの基本でマナーみたいなもんや。だが、こいつにはそれが一切無い・・・。)


 本来、戦う時の動作というものは“気”またはマナの流れで左右される。各神経から脳に伝達され、各部位に行き渡る電気信号のような軌道が視覚的に視えるのが彼ら“ギフト”だ。その軌道を予測し、自分はどう動くかという読み合いが本来の戦い方である。だが、対峙する垂にはその“気”が無い。つまり、カイデンに残された情報というのは、垂の筋肉の動きと視線に限られる。一見、なんて事の無いイレギュラー。しかしそれは、決して簡単な話ではない。“気”の情報というのは、それだけ絶大で可視化されたデータ。その戦いに慣れた者ほど、この条件下では苦労する。云うならば、“気”が読めるのならば、真っ暗闇の方が遥かにマシだろう。互いに拳に力を入れると、ほぼ同じタイミングで深呼吸を一つ。先に覚悟を決めたのは、垂からだった。


「では・・・、行きます・・・ッ!」


「おう、どっからでもドーーーーンと()ぃや!」


 次いで、カイデンも決意を示す。どうこう言っても、始まらない。まずは拳を交えて・・・。互いに裸足で踏んでいた畳から(さざなみ)に似た音が混じる。彼の言葉を置き去りに、しんと静まり返った道場。もはや互いの呼吸音さえ耳元まで響く程に、ピンと張り詰めた糸が一線。それは白線のように半透明な境界線を作り出す。対峙する二人の間には、黒羽の少女センが見守る。そっと挙げた腕が、凛と旗めく。


「・・・・・・、始めッ‼︎」


 少女は手刀を振り下ろすように、彼らの境目に引かれた半透明の白線を断ち切った。ぼやけた霧を払い、クリアとなった視界が互いの目に対峙する者のシルエットを浮かばせる。最初の飛び出したのは、垂・・・。境界線となった畳に、彼の足が強く踏み締めた。弾ませた風圧が、静止した空気を押す。それでも彼は戦いにおいて、全くの素人。そんな男が取る行動は、至極単純。真っ直ぐ、相手に向かって突っ込む。戦いのノウハウなんてものは、今の垂には無い。そんな事ぐらいしか出来ないのだ、今の彼には。ただ、真っ直ぐ前へ、前へと。カイデンはそんな垂に対し、その場から動かなかった。ただ、じっと構える事はやめずに、垂の動きをギリギリまで観察していた。


(唯一の救いは、こいつが鈍臭い事・・・。筋肉の動き、目の動きで・・・、次の軌道が読める。)


 真っ直ぐに突っ込んでくる青年の動きは、実に明白。握り締めた右拳からの上段からのストレート。当然、その動きはカイデンも見抜いていた。筋肉の動きは、()()()で充分に読む事が出来る。殴り掛かってきた拳をカイデンは左手で払い除け、自分自身は最低限の力で受け流す。拳はカイデンの横顔を掠め取る。受け流された拳は横に逸れていき、垂の身体は十分な隙が生まれてしまったのを彼は見逃さなかった。カイデンはただ受け流しただけでは無い。突っ込んでくる垂自身の身体をカイデン側に誘導するように作り出す。そうする事で二撃目の攻撃、つまり左手の追撃を封じさせる為だ。浮いてしまった左手は防御に転ずる事も出来ない。

まさに、絶好の隙。カイデンは垂の鳩尾目掛けて掌底を当てようと構え始めた。緩やかな動きでありながら実に鮮明。それでいて、彼の動作とその判断力は恐ろしく速い。ほんの少し膝を屈伸させ、体勢を屈めると力を込めるように息を吸う。垂もただやられる訳にはいかないと思ったのか、瞬時に対策を練る。受け流された腕は、ゴムをつけられたように引っ張られる。彼の受け流しは、速度まで殺していない。威力を極限まで抑え込み、横に流しただけに過ぎない。瞬時にそれに気付いた垂は敢えて、その慣性を利用した。持って行かれた慣性に力を込め、半身を捻りながら軽く跳ぶ。


「ぐ・・・、でやぁ!」


 寸前で垂はカイデンの掌底を回避しただけでなく、くるりと回転を加えた後ろ回し蹴りで反撃をした。回し蹴りの軌道はカイデンの頭。確かな動き。それは今まで垂には出来なかった動きだった。これまでの特訓の成果が影響か。垂自身も自分の身体がここまで軽く動いている事に、驚きを隠せないでいた。それはまだ、自分の変化に慣れていない証拠。イメージと実感がリンクしない状況では、僅かなブレが生じるからだ。やはり、カイデンはそのブレを見逃さない。いや、正確には別物。見逃せなかったのだ。垂の奇襲とも呼べる攻撃に。殺気を持ち合わせない垂の攻撃は、本人が思っている以上に脅威である。“気”の動きが見えない以上、筋肉の動きで判断する。カイデンはその一瞬一瞬を見逃す事が出来ない。常に意識を集中させ、攻撃・防御・反撃に転じなければならない。だからこそ、カイデンはギリギリで防ぐ事が出来た。垂の回し蹴りが衝突する寸前で彼の足首を掴み取り、威力を完全に無くす。垂も再度踏み込みながら押し込もうとするが、彼が堰き止めた掌はびくともしない。攻撃を止めただけでなく、足の軸を掴み取った事でそれ以上の力を流さないようにしているからだ。睨み合う二人、まるで互いのガラスを擦り合わせるようなキリキリとした甲高い摩擦音が聞こえてきそうな程だ。


「おー・・・、良ぇ蹴りあるやないか。実は自分、なんかしてたんちゃうか?」


「見様見真似ですよ!」


 その言葉に少しムッとしたカイデンは、彼の足を放した。互い数歩分だけステップで距離を取り、構え始める。カイデンは少し乱れ道着を掴み、アイロンを当てたようにピッと筋を伸ばしながら整えた。


「そんなん自分才能ありますさかい、みたいなコメントは嫉妬心買われるでー?」


 あからさまな挑発。狙っていたのは、意識の外側に向かせる事。その実、カイデンは驚愕していた。出した言葉とは裏腹に、実際に目の当たりにした垂というあまりに特異な存在に。


(ほ、ほへぇ~~、なんちゅーところから蹴り入れるねんコイツは!ワイやなかったら、防げれへんね!)


 要因は二つ。一つは先述の通り、殺気が出ていない事。もう一つは、垂が素人が故にだ。この二つが織り混ざる事で生まれるのは、意外性という攻撃。一見なんて事のない攻防に見えて、実は違う。これが熟練者であればある程、対峙する者とのレベル差があればある程、その意外性は生まれやすい。緊迫した雰囲気に交わされるフランクな会話。それはお互い、別のベクトルで緊張を解く事が出来ないでいたからだ。垂もまた何枚も上手(うわて)の存在に肝を冷やしていた。呼吸はいつもより荒い。いつもより、疲れが増している気がする。それは気のせいではなく、限りなく確信に近い。この空間に漂うプレッシャーが作り出しているのか。ピンと張り詰めた糸は、身体中を縛りつけようとする。シルクのように柔軟に、ピアノ線のように固く強く痛々しく。数歩離れた距離を先に縮めさせてきたのは、再び垂からだった。性懲りも無く、再び真正面へと直進する。


「フッ!はァアアあ!」


 それは、見よう見まねの連撃。ジャンプをしながら振りかぶった右拳、カイデンは僅かなステップで見切り躱わす。カイデンの避けた方へ残しておいた左アッパーが放たれる。垂の拳は、顎下まで接近していたが、寸前彼はバク転で再び躱わす。見た目通りの身軽さ、バク転の軌道上で逆立ち状態となったカイデンはそのまま支点となる腕を巧みに回し、回転蹴りを浴びせた。中段、下段、そしてまた中段と三連続に及ぶ連続蹴り。中段の攻撃は何とかガードしても、下段までの攻撃はキャパオーバー。まるで木製バットで叩きつけられたような鈍い痛みが左足に伝わり、一瞬体勢がぐらついてしまう。その一瞬を狙い、カイデンは肘をバネのように屈伸させると、反動を利用させたドロップキックを垂の胸部へ目掛ける。カイデンの攻撃を悟った垂は反射的に防御へと回る。突貫に見えたカイデンのドロップキックは、強烈な一打だけでは済まない。

 一打目が当たると、まるで階段を駆け上るかのように垂の身体を連続蹴りで踏み付けてきた。十打目を受けるまでに掛かった時間は、ほんの二秒かそこらか。次の一打が来る前に垂は、防御をやめた。代わりにくるりとサイドへ反転させると、裏拳でカウンターを狙う。カイデンも瞬時に攻撃パターンを変える。垂が放った裏拳の切先に足を乗せ、そのまま後退するように身を翻す。くるくると回る様は、サーカス団の曲芸にも似た動きだった。距離はまた、数歩離れていく。


「ウォッっと、惜しいなぁ自分!」


(コイツは殺気が無いと思うべきか・・・。これは、一体どっちなんや・・・⁉︎まるで、ワイらを呑み込むくらい、あまりにもデカ過ぎる殺気に気付いておらんだけやと・・・。ワイが・・・、ここにおるん皆が・・・、勘違いしてしまいそうやないかい!)


 気付けばカイデンの額には、さらっとした脂汗が滴っていた。彼は顔に出さずとも、動揺はしっかりとしていた。誤認を与えてしまう程の異質。もしかしたら、この目の前で起きてしまっている光景は、気がデカ過ぎて錯覚させてしまっているのではないか。そう誤認すら与えてしまう程。だが実際のところ、垂の“気”は無い。それだけの異質がこの青年にはある。


「くッ、くそ!」


 一方の垂もまた、驚愕していた。対峙する相手は妖怪。だが、彼の中で一つの違和感が滲ませている。妖怪ならではの妖術だけでなく、魔法や気術を使うような素振りを一切見せない。あくまで武術一本のみ。それは相手への敬意を払ったカイデンなりの礼儀なのか。それとも彼は、妖術などには長けていないだけのか。だから妖術などにおけるマナは、大技となる術は使用せずに身体的向上を目的としたバフ上げのみにしているのか。いずれにしても武術においては、今まで出会ってきた“ギフト”とは比べ物にならない力量であるのは間違いなかった。事、武術においてはあの飛川コマチと並ぶか、それとも彼女以上か。そう、彼の脳裏に思い浮かんだ瞬間、静かに悟った。


(な、なんだこの人!僕よりもずっと身体小さいのに、打ってくる拳も蹴りも鉄の棒で殴られているみたいだ。しかもめちゃくちゃ速い・・・。これもマナや気で補っているのか?)


 互いに相手を見つめ合う。呼吸は落ち着いてはきたが、まだ少し荒い。垂は額にびっしりとついた汗を腕で拭い、ピシリと張り付いた前髪を掻き上げた。ナイフのように尖った目。昔から目付きだけは一丁前に悪かった分、その鋭さはある目的にのみ特化する。この人から一本取りたい、というあまりにも無謀な信念。それでもやはり、彼からビリビリと伝わるような殺気は出なかった。


(あぁ、そうだ。コイツは殺気が無いクセに・・・。)


(この人は、全身から放つ殺気のせいで・・・。)


 互いにスゥー・・・と、半拍分の息を吸う。


((まるで隙が・・・無いッ‼︎))


 次に動き始めたのは、カイデン。持ち前の素早さで牽制し、一気に距離を詰める。


(だが、悪いな。・・・悪いなぁ青年。ワイに有って、自分には無い決定的なもんがあるんや。)


 彼の俊敏なステップは縦横無尽。右へと動いたと思えば、既にそれは残像。目で追いかけても、残るのは影のみ。上へ、下へ、そう思った次の瞬間には右側に戻っている。ダメ元で繰り出す垂の攻撃は、呆気なく躱わされてしまう。この動きは、誘い。相手の闇雲で繰り出す攻撃を行わせる為のステップ。出来上がった隙は充分に大きい。


「ほいなッ!」


(それは、圧倒的な戦闘経験と順応力や。)


 空振りとなった事で、僅かに体勢が低くなった瞬間を狙ったカイデンの踵落とし。威力はカイデンなりにだいぶ抑えてはいるが、その突発性も重なった攻撃は充分に脅威だった。


「ぐふッ!」


 垂の後頭部へと直撃した踵落としにより、垂の行動は二手、三手と怯みを与えてしまう。カイデンは素早く回り込み、背中へとハンマーで叩き落とす要領で膝打ちを追撃させる。ドンっと伝わる重低音は、内部へと振動させる衝撃波。内臓は衝撃により揺れ動き、口に溜まった涎を一気に吐かせた。倒れ込んでしまう寸前で垂は、震える膝で踏ん張りを効かせながら耐えていた。蹌踉めきながらも立ち上がる。最低限のファイティングポーズで迎え撃つが、カイデンは容赦しなかった。最低限故の隙。右フック、掌底、膝打ち、そして勢いを加えた飛び回し蹴り。


「イサムッ!」


 カイデンが見せた連続攻撃は、まさに型通り。理に適った理想的な連携技。最後の回し蹴りが決まり、突き放すように垂を思いっきり蹴り飛ばす。ボキンっと首を傾げるように骨を鳴らし、薄らとした笑みを見せていた。その顔は闘神の如く、覇気を滲ませる。


「なんや~?まだ組み手は始まったばっかやで?まぁ、ワイも鬼やない・・・。」


「はぁ・・・、はぁ・・・。」


 吹っ飛ばされてしまった垂は、天井を見上げていた。どこまで高く高く続く天井を。もういっそこの上は空なんじゃないかとさえ錯覚を与える天井の高さは、少し嫌気を指し始めているところだった。カイデンはゆっくりと垂に近付き、畳を踏み締めていく。一歩一歩が高波を起こすように、緩やかで静かな足踏み。そうして、垂との距離は互いの鼻先から指三本分まで縮めていき、悪魔染みた提案を持ちかける。


「ワイから“一本取れ”なんて、酷な事は言わへん。まずはこの組み手で、二分耐えてみぃや!」


(二分・・・、たった二分。一瞬はそう思っていた。けど、現実は違う。この二分がどれだけ苦しいのか・・・。この人の“気”に触れるだけでも、戦意喪失しそうだ。なら、あれを試す価値は・・・、あるッ‼︎)


 そう、彼との組み手で二分。これもまた、あまりにも酷であった。通常、空手でも三分が一般的。大体の試合はこの三分を待たずして、試合の決着はついてしまう。だが、この組み手においてはポイント制は無い。あるのは、カイデンから一本取る事のみ。そう垂にとって、どちらにしても酷なのだ。激しい攻防戦、それらを支える為の集中力。これらを二分も連続で途切れる事なく行う方が至難なのである。だから、垂はその提案を受ける前から覚悟はしていた。この組み手においての勝利条件は、今も変わってはいない。垂はカイデンから受けたダメージを抑え込みながら、ゆっくりと蹌踉めきながら立ち上がる。


「はぁ、はぁ・・・、そ、それって、二分耐えても良いし、あなたから一本取ってもオーケーって事ですよね?」


 垂はいつの間にか溜まっていた顎下の汗を腕で拭いながら、カイデンの蒼い瞳へ睨み付ける。特に派手とはいかないが、吹っ飛ばされた垂の身体に痛みが走る。何とか防御した二の腕、膝に肘、頬も僅かに膨れている。赤く警報を鳴らすようにズキズキと身体の至る所に、その痛みは主張を繰り返していた。それはあからさまな虚勢。そんな啖呵を切って、目の前に対峙する明らかなレベルの違う達人に通用するか。いやしかし、垂はとある事を狙っていた。それは、ちょっとした悪知恵という奴だ。


「ほ、ほう・・・?云うやんけワレ・・・。」


 ピキッと額の血管がはち切れそうな程に、彼が放った言葉に火が付く者が一人。云うまでもなく、それはカイデンだ。師から見てしまえば、弟子の生意気な発言。挑発とも捉えられようその言葉を、カイデンは握り潰すように受け取った。


「やれるもんならやってみぃ・・・ッ⁉︎」


 垂の言葉に応えようと思った矢先、それはほんの一瞬の出来事だった。先程まで目の前に居た筈の垂が、もうそこには居ない。一瞬の不覚・・・。右か、左か、辺りを見渡すが彼の影は無い。殺気の無い彼は言うならば、透明人間のようなもの。一度見失えば、肉眼で捉えるのには一コンマのラグが発生する。


「くっ!」


 カイデンが垂を捉えたのは、その間一秒には満たなかった。だが、その一秒足らずが命取り。垂は既にカイデンの視界の更に下、死角となる懐まで既に潜り込んでいた。拳を握り込みカイデンの顎目掛けて、今まさに殴り掛かろうとしていたのだ。


(こ、こいつ・・・!いつの間に、んなところに⁉︎いつ・・・、一体どうやって・・・?)


 数手遅れたカイデンは、その僅かな時間に思考巡らせる。攻撃をいなすには時間が足りない。かといって今から回避するか、横か・・・、後ろか・・・。素直に彼の行動に驚愕してしまった故、それも出来ない。ならばと苦肉ではあったが、両腕を交差させ顔を守るように隠す。


(くそ・・・!踏み込みが甘かった・・・。けど・・・、今ので分かった。)


 カイデンの動物的な勘の鋭さに、垂は短く舌打ちをした。まだ、思うように身体がついて来ていない模様だった。もう少し。あと一歩でも踏み込んで、拳を振り上げていたならば・・・。彼に気付かれる事無く、攻撃が届いていただろう。こればかりは圧倒的な戦闘センスの差が卑しくも顕著に表れている。だが垂もここまで来た以上、もう後戻りは出来ない。握り込んだ拳は、もう火花を散らせている。ならば、行くしかない。そう思った垂は、素直に開き直った。失敗したって良い。今ここで、行動する事に意味があるのだから、と。


「どりゃぁあああああああ!」


「ほッ!なんのッ!」


 振り上げた垂の右アッパーは、惜しくも防がれてしまった。ミシっと鈍い音は、カイデンの両腕で相殺される。カイデンは攻撃を受けるその瞬間に、僅かに足を屈伸させ衝撃を最小限に抑えていた。その為、本来あるべき力は全て逃がされてしまい、カイデン自身にダメージは殆ど無い。そうして出来た余裕は、カイデンに次の行動を与えてしまう。トッとカイデンは軽く跳ねると、高速で二回転。


「ふッ!」


 遠心力を手にしたカイデンはその場で垂の胴体目掛けて、回し蹴りを浴びせる。再び反撃を喰らった垂は防御に転ずる事が出来ず、またしてもカイデンの蹴りで吹っ飛ばされてしまった。


「やるやんけ、自分。」


 とカイデンは云うが、内心は少し焦っていた。素直に彼の行動に対し、驚愕してしまったからだ。戦闘は未経験、お世辞に見ても素人に毛が生えた程度の筈。これは、戦闘センスに長けているからか・・・、否。垂の戦い方は馬鹿正直な見様見真似であり、彼は常に考えながら行動するタイプ。それもただ一点に目標を定める。どうすればこの人に一泡吹かせる事が出来るか。唯一、カイデンという存在に対抗出来る手段は意外性のある攻撃。それが垂の唯一のカードだ。再び垂は立ち上がり、肩に付着した埃を数回叩き払う。


「生憎、欲張りなもんで・・・!」


 この時、垂は何かを掴んだ気がしていた。それは()に見せられていたとある事。ただここで気付かれてしまっては、その意外性もクソも無い。だから垂は虚勢を張った。


(この人と僕とでは戦闘経験があまりにも違い過ぎる。次の一手を狙っても、すぐに順応してくる。だったら・・・、今、僕が出来る手段は・・・!)


 垂は踵を整えるように、畳に向けてつま先で数回小突く。粗かった呼吸を少しでも整える為、それは一種のルーティンのように。カイデンは筋肉の動きで垂の行動を先読みしている。その為、二度同じ攻撃はもう通用しない。常に別の動作から入る攻撃ではないと組み手の一本どころか、有効となる一打すら当てる事が出来ないのだ。それだけに、カイデンの順応力と戦闘センスがある。垂は道着の袖を肘付近まで捲り、拳を握り締めた。


「だっぁあああああああああーーーー‼︎」


 度重なる殴打による痛みを、少しでも和らげようと発した悲痛にも似た叫び。その雄叫びと共に垂は大きく弧を描くように走り、カイデンへと接近していく。カイデンは察した。何かまた企んでいる、と。今まで真っ直ぐにしか突進してこなかった垂が回り込むように接近している。彼の違和感は的中している。だがその根本となる底の底までは見えていない。まるで暗がりの地中を覗いているかのように。次に来るのは蹴りか、それともまた体勢を屈めた攻撃か、真っ直ぐ飛び込んでくるか。いくつかの手段がカイデンの脳裏にシュミレートされていく。それに対し、自分はどう動くか。カイデンはまだ動かない。様子を見ている状況下だ。垂の動き次第で彼もまたピアノ線に引っ張られるように動き出す。


(あの時、カイデンさんが見せた隙を作らせる動作・・・。)


 垂は拳を振り上げる。攻撃は真っ直ぐに、カイデンの顔面目掛けてだった。そう判断したカイデンは、電流が流れるが如く人差し指がピクリと動き出す。すると、不意に垂は目線を変える。真っ直ぐだった視線から、やや斜め下。この攻撃はフェイントか。腕を上げたのも見え透いたフェイントだとするならば、降りかかる攻撃こそブラフ。真の攻撃はフェイントのその先。カイデンは読み解く。彼がやろうとする行動を、攻撃を。視線の動きから再び右下へと潜り込むつもりか。カイデンは感じ取る。筋肉の動きから察するに、攻撃方法はローキックか足払いのどちらか。より低く屈めば足払いになり、体勢を大きく変えなければローキックになるだろう。カイデンはそう予測した。そして下段への攻撃に対して、ゆっくりと構え始める。下から攻撃に備えるように、軸足を固め重心を整える。


(そう・・・、そうだ。それで良い。僕はそれを・・・、待っていたんだ。)


 飛び込んだ垂は、カイデンのすぐ目の前まで接近していた。どちらの攻撃ももう手の届く範囲である。垂が前に出した足は、確かに右下へと潜り込もうとした動きではあった。だが、その光景はガラリと変わる。


トッ


 体勢を屈める素振りではなく、飛び込んだ足をバネにし、逆サイドへと大きくステップさせた。その光景は一見するとただのフェイントに見えるだろう。だが、実際に目の当たりにしている者には全く違って見える。


(な・・・、き、消えた・・・?い、一体どこに・・・⁉︎)


 カイデンの視界には、再び垂が()()()ように見えてしまっているのだ。通常であればなんて事の無いフェイントだが、“気”を持ち合わせない垂は一度見失うと厄介なのである。ギリギリまでカイデンに近付いたのも、瞬間的に錯覚を与えさせる為でもあった。一瞬・・・。それがこの攻防戦において、どれほど重要なものか。それをこの青年は体現させようとしていた。


(そして・・・、無理やり作らせた死角からの一撃・・・ッ!)


 垂が回り込んでいたのは左の視界の外、つまりカイデンにとって死角となる位置である。大きくステップする事で得た力を元に、くるりと回転しながら垂はカイデンの顔面に向けて裏拳を浴びせた。


「うぉっ・・・ぶはッ⁉︎」


 カイデンの後頭部に鈍い衝撃が走り渡る。それはカイデンにとって、あり得ない一撃。予想だにしなかった一手。意識の外側だった為に、防御も完全にノーマーク。今日まで鍛え上げた垂の力は、想像以上に向上していた。その威力は、カイデンを数メートル吹っ飛ばせる程の威力。身体が畳に直撃する寸前で、彼は吹っ飛ばされながらも受け身を取る。空中でくるりと回転を数回行いながら勢いを殺していき、ストッと僅かな音を残して畳に着地した。カイデンが顔を上げると、その数メートル先には今まさに裏拳を放った垂の姿があった。


「名付けるならそう・・・、陽炎(カゲロウ)・・・ッ。」


 それは異様な光景でもあった。彼は“気”となるものが無い筈。それでも何故か、視る事の出来ないオーラを放つようだった。自分の目の前に佇むあの青年は、本当に人間なのかと目を疑いたくもなる。気付けば、カイデンの呼吸も少し荒くなっていた。これは冷や汗か、それとも疲れか。そのどちらかもさえ判断し難い汗が頬を伝っていた。彼にとって、どちらにしても想定外。素人同然の垂に対して、自分が汗を流すなんて事があるだろうか。まだまだ修行不足なのかと目を瞑りたくなる思いだった。


(こ、こいつ・・・、今何しよった?・・・そうか、視線・・・。自分、やりおったな・・・!移動する前に、こいつは視線と言葉を囮にしやがったんや。しかもワイに対して・・・‼︎それも、至極単純・・・。ワイから一本取る、それだけの為だけにぃ・・・ッ‼︎)


 カイデンが困惑するのも無理は無い。驚いたのは、垂の先程の攻撃の仕方。確かにレクチャーはした。簡単な実践もやって見せた。だがカイデンは、ただ見せただけだ。それをこの青年は、ぶっつけ本番でやって退けた。


「ほぅ・・・、師範の意見無視しといて、ケッタイな技名付けるやないかい。」


 吹っ飛ばされてから数秒置いて、カイデンはゆっくりと立ち上がる。


(陽炎・・・、ほんまにケッタイな技やで。死角から突く一撃・・・。もし・・・、もしも万が一あの時、あの鈍臭芋が武器を持っていたら・・・、致命傷は避けられへんかった・・・⁉︎)


ゴキッ


 再びカイデンは首の骨を鳴らす。彼の脳裏を過ぎった。覚悟が足りなかったのは、どっちだと。半端な決意で向かってしまったのは、どっちだと。覚悟も決意も足りていなかったのは、己自身ではないかと胸に問いかける。彼は首を何度か横に振り、ふぅーっと肺に溜まり切った空気を全て押し出す勢いで大きな溜め息を吐いた。


「・・・舐めて悪かったなぁ、イサムはん。ほなら、ここからはなぁ・・・。一秒たりとも余所見せんといてなぁ?せやないと・・・・・・。」


ドゥッンン


 カイデンの身体を覆うように不気味なオーラを纏い始める。ビリビリと伝わるのは、確かなプレッシャー。対峙する垂も、電流を帯びたような痺れが皮膚に伝わり始める。全身から解き放たれたマナは、垂よりも小柄の筈なのにその存在を大きく強調させていく。

 何か来る・・・、今までとは明らかに気配が違う。そう思った垂は、痺れを振り払うように構え始める。頬に伝う汗すら拭う暇も無い。そんな余裕を与えてしまっては、一撃でやられてしまうかも知れない。そう思っていた。だが・・・・・・。


(堪忍な、イサムはん。これでも師範と名乗った以上、その尊厳はきっちり守らんとなぁ。)


 カイデンが垂へと接近するスピードは風を切った。ダンッと踏み込んだ瞬間には、もうそこには居ない。彼の踏み込みでひしゃげながらも剥がれた畳だけが残っている。


「はッ⁉︎」


 垂が気付いた頃には遅かった。彼は既に懐へと潜り込んでいる。その目は鬼神。明らかに違う闘気。両手に集中されたマナは、その手に吸い込まれるように凝縮されていく。


「イてまうぞ、コラ。」


 それは、ほんの一瞬に発された一言。まるで秒を止められたかのような、しんと静まり返る密閉された部屋に居るよう。


(な・・・、いつの間に・・・⁉︎だ、駄目だ!ガードが、間に合わない・・・ッ!)


虎咬牙(ココウガ)ッ‼︎」


 そして放たれる一撃。カイデンは両手に纏わせたマナをぶつけるように、両の手を合わせた掌底を放った。


ドゥンッ


「グッ・・・、ハァッ⁉︎」


 放たれた一撃は、轟音を鳴り響かせた。その一撃は、垂が知る中でどの一撃よりも重かった。放たれたマナは身体を突き抜け、遥か遠くの壁をも貫いた。しかし、よく見るとそれは違っていた。


「おっと・・・。安心せぃ、寸止めや。」


 カイデンが放った攻撃は、ギリギリのところで垂の身体をするりと避けていた。まるで油が水を弾くように、カイデンの放つ衝撃波は掠めていただけだった。


(い、今のが、す、寸止め・・・?寸止めで、このハンマーで殴られたような衝撃・・・。こ、こんなのモロに喰らったら・・・。)


 それは、改めて知る恐怖だったのかも知れない。圧倒的で、無慈悲な戦力差。ポテンシャルも何もかもが違う。垂は痛みを忘れてしまうくらいに愕然とし、膝をついてしまった。


「ま、勝負あり・・・、やな。」


 トンっと垂の頭に軽く振り下ろされたチョップが当たる。先程までの鬼神を彷彿させる面影は無い。いつもの飄々とした憎たらしい笑顔を見せながら、そう言葉を綴ったのだった。


「はぁ、はぁ・・・、げほッげほ・・・。」


 垂の疲労は限界を迎えたようで、悲鳴を上げるように咳き込み始めた。立ちあがろうとするも膝は震え、無意識に畳に手をついてからはその場から動けなかった。


「けどなぁイサムはん。今の攻撃、良かったで?踏み込みさえ良ければ、ワイから一本取れたんちゃうか?」


 ヘラヘラと笑いを誘うカイデン。だが内心はその真逆である。


(あ、あぶね~~~・・・!マジで最初の組み手で、一本取られるとこやったで!)


 実際のところは、かなり焦っていた。未だ顔を上げていない垂が功を奏したが、当のカイデンは焦りの汗が滝のようだった。一瞬とはいえ、本気を出してしまった事にカイデンは苦い顔が浮き出ていた。何よりギャラリーの視線が痛い。センは頬を膨らませながら、今にもブーイングの弾丸を放とうとする勢いの顔でカイデンを睨み付けている。流石にマナを使うのは、大人気(おとなげ)無いのではないかと言わんばかりである。すると、ふらふらになりながらも漸くにして垂は立ち上がる。


「じゃあ、もう一本・・・。」


「せやな。そんじゃま、ほれエンキ。」


「キキッ!」


 ぼむんッと白煙と共に現れたのは、彼のペット。猿のエンキだった。エンキの手にはあの鉛入りの特製お手玉を握り締めている。それを見た垂は時が止まったかのように思考が一時停止する。


「え?」


「“え?”やないで!ワイから一本取れへんかったら、またエンキからやり直しや。一本勝ち取れるようなるまで、無限ループしてもらうで!」


「ま、マジっすか・・・。」


「え、ちょ、い、イサムーーーー!」


 数秒置いて漸く事の状況を理解し始めたのか、ぐるりと思考が目紛しく高速回転し出す。そして青年はそのまま疲れ果て眠り着くように、再び畳に倒れ込んでいった。慌てて駆け寄るセンの声が聞こえた気がしていたが、彼はショックのあまり失神してしまったようだった。


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