36引き篭もりからおまかせを
言葉ほど力があるものは無い
誰かの背中を押す事が出来る
励ます時も 助ける時も 死ぬ時も 殺す時も
声に出しても良い 文字に起こしても良い 唄にしたって良い
けれど 不思議にも目に映った言葉は 傷付ける言葉ほど脳裏に焼き付ける
皮肉にも人間という生き物は 自分が経験しないと真意を知ろうとはしない
周りを見渡して 足跡は見えるだろうか
・・・。
・・・・・・。
時間は容赦無く事務的に巡り、秒針の針を頼んでもいないのに忙しなく回す。連なるように短針も長針をゆっくりと追いかける。時計を見つめる時間が増えている自分がそこに居た。虚になった瞳で動く時計の針を並走するように見つめていると、その時間はあまりにも膨大で、ゆっくりに感じてしまう。あぁ、早くこの窓辺から差し込む陽の光が早く沈まないかと、待ち望みたくなる程に。けれどいざ振り返れば、あっという間に時は過ぎ去っていた。振り返ってそう感じた頃には、無自覚に費やした時間に驚く。何だか、自分だけ置いてけぼりにされているんじゃないかと錯覚に陥る。それでも気が付けば、日は無情にも刻んでいた。寸分の狂いも無く、正確に一定の間隔で時を刻み込んでいく。日は、長いロープで引っ張り上げるように季節を連れ歩き変わり始めていた。
鬱陶しい夏も漸くその出番を終え始めようと思ったのか、その気怠い気温と共に過ぎ去っていっていた。代わりに現れたのは乾燥した冷たい風。季節の移り変わりの風物詩とも云える冷たく鋭い風だった。陽の光が僅かに一歩遠退き、僕らの上を漂う空はすっかり寒空へと変わっていたのだろう。この前よりも僅かに寒気を感じるのは、僕の体調だけでは無い筈。この街にも秋が漸く訪れたのだ。そう、あれからそれだけの時間が経っていた。一週間だろうか、いや二週間ほどは経過していたのかも知れない。無条理に時は正確に刻んでいるというのに、対する僕はいつの間にかその日付すらも把握し切れていなかった。理由は至極当然だと思う。
僕は今、あの便箋小町に顔を出していない。僕はあの日以来、塞ぎ込み、この部屋から出ていない。不思議な事に人は、それまで与えられていた労働というものを失うと時間の感覚が崩れ始めてしまう。完成されていた朝のルーティンすらも忘れ、テレビをつけながら歯を磨く事すらやめてしまったのはいつだったか。見知った天井を眺める時間は必要以上に多かった。日付よりも天井にポツリと浮かぶ染みの数の方が正確に数えられた。あの日以来から携帯電話の電源を切っていた為か、仄かに温かみのあった携帯電話はとても冷たかった。まるで秋空の下で染められた鉄棒を握った時に近く、その冷たさが僕の指先の体温を奪っていく。外部のと連絡が、なぜか億劫だった。何かがせき止めているような、大事なところを塞いでいるみたいだった。携帯を見つめながら電源を入れようとはするが、感情とは裏腹に自分の指は震えていた。氷を敷き詰めた冷水を帯びたかのように、悴んだ指先では電源ボタンを押し込む力は備わっていなかった。
何度か同じ夢を見た。それは少女との別れだった。あまりにも唐突で一方的だった別れ。もう少し、あともう少しだけ手を伸ばす事が出来たなら、この物語は変わっていたのかも知れない。少女が生きる未来があったのかも知れない。けれどそれはもう、変える事の出来ない事実。タイムマシンがあればなんて夢物語を抱えても、今更どうこう出来るものでは無い事ぐらい分かっている。分かっていた、過去も未来も変わる事は無い事ぐらい。その為か、眠りに付けばいつも夢の中で少女が目の前に現れる。その小さな灯火を失った瞬間の夢。いつもあの涙を滲ませた笑顔が映るところでブツリとブラックアウトしてしまう。少女は何かを云い欠けていた筈だ。淡く火照った唇を震わせ、真っ直ぐに青い瞳をこちらに向けながら。
メリィは何かを僕に伝えようとしていた。発する言葉が耳に伝わる前に、飛ばしたシャボン玉のように儚く弾け、消えていく。発した音は反響する事無く、無音で何かを訴えかける。なんだろう、あの時彼女はなんて云ってくれただろうか。思い出せない。思い出そうとすると頭に電流でも浴びせられたかのように痛みが地走りを引き起こす。きっと大事な言葉だった筈だ。忘れてはいけない受け止めなければならない言葉の筈。何故、僕はそれを今になっても思い出す事が出来ないのだろう・・・。
テレビを付けなくなったのは、つい一週間前だと思う。昼前に何気なく点けたテレビを観ていた時だった。その時映っていたのは、液晶画面に街頭インタビューか何かの映像。衣替えの季節ともあってかすっかり街の人たちは、半袖のような素肌を見せる服装を見なくなった。長袖でしっかり肌身を隠し、コートほどでは無いが少し厚めの上着を羽織っている者が殆どである。右上に表示された天候と気温を見れば、なんとなくその寒さは実感出来る。天候は曇り、それでいて気温は十五度。流石に素肌を出す気温ではない。引き篭もっている間に、季節は予告通り秋の扉へノックを繰り返していたようだ。アナウンサーが街ゆく通行人に声を掛け、テロップに表示された質問を投げかける。
『・・・それでまたガソリン代が上がった事について何ですが、それについてどう思いますか?』
『いやぁ・・・そうですね、結構まいりますよね?こんなに上がっちゃうと・・・。』
そこに映り込む親子の姿。何気ないインタビューを受ける母の物陰に抱き付く少女を見た瞬間に、脳裏がざわつく。瞳孔を焼き尽くすような震えとその熱。視界の周りがチカチカと光り出し、プリズムのように散り散りとなった。僕の視界に映り込んだその少女は、直前になって色や形を変え始め、やがて姿すらも変えてしまう。一人の少女、メリィとなって酷似させる。そのフラッシュバックは、僕の精神を崩壊させるには充分過ぎる光景だった。
「う・・・ッ⁉︎」
「お、おい!イサム、大丈夫かよ⁉︎」
そうだと思った瞬間には、胃の奥を抉り返すような嫌悪感が体躯を駆け巡り始めていた。内臓でも吐き出してしまうのではないかという程の腐り切った魚の鱗のような臭いが鼻を通った。カビたスポンジを乱暴な力で喉に押し込まれたようだった。その反動でひっくり返された胃は、拒絶するように逆流する。その日、何も食べていなかった僕は空っぽの嘔吐を吐き出していた。これをトラウマと形容すれば良いのか。布団にそのまま吐き出してしまった嘔吐物は生臭い悪臭を放ち、余計にまた胃を抉り回す。テレビに映り込む少女の声を聞く前に、僕はなんとかリモコンのスイッチで電源オフにした。今すぐにでも、のたうち回りたくもなるくらいに僕の身体は何かを拒絶していたのだ。
「はぁ、はぁ・・・、ごほッ、ゴホ・・・。」
むせ返る咳が身体を無理矢理跳ねさせる。僕の思いとは裏腹に咳を止めようと胸を掌で押し付けても、中々止まってはくれなかった。咳をする度に胃から迫り上がるドロドロとした粘液が叱咤に絡み付き、乾燥した喉を詰まらせる。鼻から流れている物がもはや鼻水か嘔吐物かも、今の僕には判断出来ないでいた。体の震えは治らない。皮膚は震えるように熱いのに、身体の芯は蝋燭の火を消した後の蝋のように冷たい。思った以上に僕の身体は、相当のショックを受けていたらしい。その時、チップも色々と面倒をくれていたみたいだ。けれど、頭にモヤでもかかったかのように記憶が曖昧だ。正直なところ、あまり覚えていない。解離性フラッシュバックが引き起こした光景は視界のスクリーンを埋め尽くす。自分でもわかる過度な警戒心と驚愕反応。小さく映り込むそれは、強い恐怖へと変換され思考を雁字搦めにさせていた。周りの声がしんと静まり返ったかと思えば、介抱しようとしている幼女の声が僕の耳には届かなかった。何かを話している。いつも吊り上げていた眉も流石に垂れ下がり、何かを僕に訴えかけている。それでも何を話しているのかが、僕には聞こえていなかった。まるで防音ガラスに閉じ込められたみたいで、幼女のパクパクと動く唇から声は聞こえず理解は遠かった。
そうかと、これがトラウマという物であると理解するのにそれほどの時間は掛からなかった。トラウマとは、“傷”や“負傷”が元々の意。精神医学の分野では、強いショックによって心に受ける深い傷を意味する言葉。主に、戦争体験や事故の目撃、虐待や暴力などが体験した事で、酷く深刻で重いショックを受けた事を意味する。成程、それであれば僕もこれに該当するのだろう。自分が思っていた以上に携えた盾は脆く、整備はされていなかったのだ。トラウマとして植え付けられた要点は二つ。メリィの喪失と社長の疑念の強まり。これらが相乗的に重なり渦巻いた。そうして混じり合った歪なこれらは歪な個となり、それまでの常識を麻痺させる。非日常と云える日々が感覚を狂わせ、肥大化したネガティブの空に押し潰されていく。
メリィの喪失。最後に別れ言葉を告げたとはいえ、あまりにも一方的だった。もしかしたら、何か別の選択肢があったのかもしれないと思い返す度に茨で縛り付けられるようだ。どれだけ腕を振り上げても声を荒げても、僕には成す術が無かった。本当に彼女の魂であるブルーサファイアを奪ってしまう事が正しかったのかと、今でもどろりと渦巻く。そうするしか無かったのかも知れない。もしかしたら、彼女の行く末はこれしか道が無かったのかも知れない。
だからこそ自分の無力さに愕然としたまま、目の前から消えてしまう彼女の魂を見て僕は虚無的になっていた。あぁ、ただ指を咥える事すら出来ないかと、その悔しさから心を静かに震わせる事しか出来なかった。何故、一日も無い時間しか過ごしていない彼女にここまでの喪失感を背負っているのか。それはきっと彼女が実の兄のように僕を接してくれたからだろうか。彼女は姉妹と父親は居た中で、数年間も強制的に孤独だった。その寂しさから溢れた言葉だったのだろう。誰かに寄り添いたかったという彼女の寂しさを感じ取れてしまったから、僕は本当の妹として受け止めていたのかも知れない。僕も独り身だった。親とは離れて暮らしている、兄弟は居ない。ひょっとしたら、僕が独り身じゃなきゃこうはならなかったのだろうか。いや、そこまで薄情だろうか。例え人で無くとも物であっても、感情を持ち魂を持った者であれば、やはり失うものへの喪失感は堪らないものだ。
そして社長への疑念。僕は初めて、彼女にそう思うようになってしまった。恐らく彼女は知っていた。メリィの動力源があの宝石であると云う事を。宝石を報酬代わりに指定したのはメリィとは云え、否定をしなかったのは社長だった。きっとメリィを一目見た時からその仕組みも理解していた、それなのに彼女は少女の希望を通した。そうして少女の希望のまま、社長はその魂にも匹敵する宝石をメリィから取り上げた。宝石を取り出せば動かなくなる事を分かっていながら、彼女は淡々とそれを実行した。もしかしたらそれは、やむを得ない事情だったのかも知れない。けれど事実は変わらない。社長が、メリィの命を奪った事に対しては揺るがない事実なのだ。何故、あの状況下でも報酬に固執する必要があったのだろうか。依頼主である“ギフト”の命を奪ってまでして・・・。
彼女は頑なに、その理由を口にはしなかった。ただ唇を紡ぐばかりで、その真意を口に出す事はなかった。だからこそ、疑念が募るばかりだった。それと連なってある仮定が浮上する。便箋小町が行っている事は、果たして善の行いなのかと。普通の会社では無いし、どれも“ギフト”に纏わるものばかりだ。社長は何を集めている・・・?何が目的なんだ。彼女は一体何を隠しているんだ。そんな疑惑が肥大し続けていく。
そういえば、トリビュートを倒した帰り道に聞こえたメルとの会話。「まだ豆を挽いたばかりだ。」という会話。今思えば気掛かりだ、どんな意味が込められているのだろうか。あの社長と妖怪は何かを企んでいる?けれど具体的なそれが何かは判断出来ない。それもあってか、連絡を絶っていた。そもそも便箋小町とは何なのか、ただの運び屋だけで留まる話だろうか。彼女らの背後にある影が長く見えてしまうのは、恐らく妄想癖が作り出した錯覚では無い筈だ。少し距離を置くことも大事なのかも知れない。まぁ、そもそも僕はまだ立ち上がれなそうだ。静寂となった六畳間に秒針が噛む音だけが鳴り響く。
チップは僕が嘔吐したその日以来、口を聞いていない。というより今は、この部屋には僕以外誰もいない。やかましかったあの六畳間戦争は見る影もなく、どこまでも静かで声を出せば反響して音が返ってきそうだ。あれだけ云い合っていた口喧嘩も、取っ組み合いもあいつが居なくなった事でしんと静まり返っている。喧嘩ばかりの方が多かっただろうか、いやそれでも少なからず笑い合っていた時もあったかも知れない。人は不思議と楽しかった日や幸せな時よりも、何故か嫌な思い出の方が鮮明に覚えてしまっているのだ。それが不快に感じられずにはいられなかった。結局のところ、マイナスの力の方が強いのだろう。手探り寄せて漸く見つけた光はあまりにも頼り無く、落胆する程に乏しい。時折、チップの気配を遠くに感じるがこの家に訪れる事は無かった。気を遣って距離を取っているのだろうか。
僕が引き篭もるようになってから、まともな会話はしてい無かったし目すらも合わせる事も無かった。最初の頃はいつものように絡んできてはいたが、殆ど反応する気力が僕には無かった。会話の弾みは無く、平坦で一方通行。こんな状況ではチップでなくても離れていく者は少なくは無いだろう。頭の中でフラッシュバックされる光景が叱咤に映り込む。そうだ、人形とはいえその魂が目の前で死んでしまったのだ。救えるかも知れなかったその命たちを。最初はただ、自分に悔しいだけだった。けれど気付けば身体は縮こまり、コンパスは導く方位を失い進むべき道を見失い路頭に迷っていた。
ただぐるぐると同じようなマイナスな思念が決まって螺旋状に巡り周り、意図も容易くプラスの気持ちを叩き落とす。外部との関わりを遮断し、自分でも鏡を見なくてもやつれているのだろうと思える。そういえば、社長とはあれ以来会っていないな。連絡も無ければ、ここに訪れる事も無かった。チップからの言伝で聞いたのは、『暫くの間、謹慎処分とす。』だ、そうだ。業務無視に、上司への威圧。これでクビではないんだなと、余計にやるせなさが彷彿してしまった。丁度良い、どうせこの身体はまだ動きそうに無いのだから。まだこの見慣れた天井を見続けるのは、長く続きそうだ。
・・・。
・・・・・・。
あぁ、そういえば・・・。カーテンの開け閉めをしなくなったのは、これで何日目だったろうか。窓から差し込む木漏れ日も街灯も、月明かりでさえ僕は浴びる事なく一日をこの六畳間で小さく縮こまるように過ごしていた。なんだか蜃気楼に囲まれた砂漠に放り出されたみたいだ。柔らかい砂は踏ん張りを緩め、次第に足取りを失速させる。どこを見ても同じ景色ばかりで、ふわりと見えた光も幻想だと揶揄うように気付かせ、近づく頃には砂の城のように溶けていく。道の無い迷宮で僕の精神は彷徨う。再び瞬きをすればいつもの景色、昼間だと云うのに暗がりの六畳間。聞こえるのは時計の音。時折、蛇口の栓を閉め損ねた洗面台から聞こえる水滴音。散乱して脱ぎ散らかした服。洗う事を忘れて水分も含まれていないシンクに溜まった食器。唯一良かったと思うのは、虫も減る季節に移り変わってくれた時期だった事。傍目から見れば、不摂生の他ない。
家事は嫌いじゃなかった筈だ。むしろ人並み以上に熟せる自信はある。以前ならこんな状況、一目散にやるだろう。けれど座り込んでしまった身体は、その為だけに再び立ち上がろうとはしなかった。何十キロもする鉛が鎖で四肢に繋がれたようだ。動こうとしても一定の距離で抑止されてしまう。これ以上は前に進むなと云わんばかりに、僕の身体は縮こませていた。明日こそ動こう。靴を履き、あの玄関の扉を開けよう。そんな小さな目標すら、遠のく霧を掴むようだった。また秒針を眺める間がスローモーションでも掛けられたように遅く感じる。なのに太陽が沈み始めるのは、こんなにも早く感じてしまう。これ程退屈で無駄な時間が有って良いのか。そんな解決に結び付くも訳もない矛盾がぐにゃりと脳内を捻じ曲げる。そんな退屈が、僕を襲っていた。
この部屋に引き篭もって何日目の事だったろうか。夢と現実を行き来する繰り返しの日々の中で、僕はどちらに片足を踏み入れているのかが段々わからなくなっていた。瞳を閉じ、暗がりの瞼の裏にはいつもあの少女が居る。目を覚ませば、暗がりの目を背けたくなる自分の部屋。いっそ自分の時間さえも止まってしまえば楽なんだろうかと思う時もあった。台所にあるナイフで、そっとその糸を切り落とすだけ。ぼそりと口で云うのは簡単だ、首元に刃を添えて撫で下ろすだけ。
握り締めていたナイフは震えていた。呼吸も荒い。上下に躍動する身体は、中々狙いが定まらない。その決意すらも躊躇された揺らぎが振るいを起こし、僕は数分握り締めていたナイフを手放した。弾みの良い金属音が床に散らばり、目を覚ました頃には荒い呼吸をしながら涙で滲んだ視界が広がっていた。ぼやけた視界はいつもの暗い部屋。自殺というのが無責任な行為と気付かされる。この辛さからは解放されるかも知れない。選択肢として最も選んではいけない道。滲み出た冷や汗が顎下を通り、僕の胸懐はまた殻を破る事もなく静かに閉ざされていった。
何度目かの目を開けた朝。まだ瞼の裏は夢の中だ。腕を、首を引っ掻いても痛みや痒みはない。またこの光景だ。夕陽が沈み欠けている僅かな橙の日差しに照らされた小さな部屋。打ちひしがれた僕は、床に膝を突きながらからっぽの空を見つめている。どこに焦点を合わせれば良いのか。オレンジの光は次第に濃くなり、元ある色たちに暖色を加えている。けれど、今日は違った。それは明確であり鮮明だった。抱き締められた背中から感じる仄かな温もり。あの細い腕で包み込まれた確かな情景。何日かぶりに聞こえた彼女の最後の言葉を僕は漸く思い出す。
「私は、メリィ。ずっと、あなたの後ろに居ます。」
頬から零れ落ちた水滴が、洗面所に落ちる水滴と重なり共鳴する。ふと窓の方を見ればカーテンで閉ざされてはいるが、その奥では小鳥の囀りが聞こえていた。そして漸くにして、僕は長い時間閉ざされていたカーテンをこじ開けた。溜め過ぎた光の粒が一斉にこの部屋に差し込む。あまりの明るさに目を細めてしまったが、今日はなぜか嫌な気はしなかった。同時に何かが吹っ切れたような感覚に陥る。ずっと錘をつけられたような感覚は、すとんと抜け落ち不思議と体が軽かった。時計にも目を配ると、時刻は午前十一時を回ったところ。働いていた時と比べれば、恐ろしく遅い目覚めだ。
それでもなんだか今日の朝は、元旦の初日の出でも見たかのように特別な感じがしたのだ。今日を逃せば、また振り出しだ。このままではいけない。そんなプラス思考が急に湧き出す。今更、それが何の原理かと聞かれても分からない。何とも形容し難い不確かな確信が頭から離れなかった。けれど、それは間違いではない筈。彼女ずっと、僕の背中を押してくれたのだと。そう、都合良く思いたい。僕は硬くなった身体を出来るだけ伸ばし、全身の筋肉を整えた。バキバキと悲鳴を上げる身体。服を着替え、歯を磨き、顔を洗う。季節変わりの水道から流れる水は異常に冷たかった。そのお陰か余計に目が冴える。久々に見つめる自分の顔。どうやらまだ本調子ではないようだ。分かっている、僕にはリハビリが必要だ。僕は靴を履き、重い身体を引っ張りながらも玄関の扉を開けた。
あぁ、そういえばもう秋だったか。少しひんやりとした風が服の隙間を通り抜けていく時、軽い身震いを起こす。その間隔すら、不思議と懐かしさすらあった。けれど、寒い事に変わりは無い。そうだ、今立ち止まる訳にはいかない。嫌でも前を向かなければならないんだ。僕らの顔はそう出来ているのだから。振り返ったって良い。きっと、彼女はいつも居てくれた筈だ。まだ僕は、君に気付かされてばっかりみたいだ。だから少しでも長く、前を見つめる時間を増やすんだ。歩く為の足はある、目の前をこじ開けるための腕はある。あとは気持ちだけ。トン・・・っと優しく背中を押してくれた感覚は、もう誰かとは云うまい。慌てて僕は、クローゼットに仕舞い込んでいたベージュのダッフルコートを羽織った。久々に感じた身体に入り込む冷気を少しコートに含ませながら、僕は秋空の下を歩み出した。
・・・。
・・・・・・。
言葉ほど力があるものは無い
誰かの背中を押す事が出来る
励ます時も 助ける時も 死ぬ時も 殺す時も
声に出しても良い 文字に起こしても良い 唄にしたって良い
けれど 不思議にも目に映った言葉は 傷付ける言葉ほど脳裏に焼き付ける
皮肉にも人間という生き物は 自分が経験しないと真意を知ろうとはしない
周りを見渡して 足跡は見えるだろうか
もし 自分以外の軌跡が見えたのなら
あなたはもう 誰かの背中を押す事が出来るはず
言葉の重みを知ろうとしているのだから




