友情
熱い展開になってきましたね。友情系、割と好きですよ。
ついたときには、満月の一歩手前の月が沈み始めていた。東側は山だからまだ暗い。
それを見たとたん、眠くなんかないのに大きなあくびが出た。いつもなら寝てる時間だからかな?それともやっぱり眠いのかな。
長い長い、厳しい坂道を我慢して登っていく。息が切れる。陸上やめたからか、体力が落ちているのだろう。この上の、長屋。記号は「ホ」。この家だ。やっぱり電気とかはついてない。もしかして寝てるのかな?
意を決して、インターホンを押そうとした時だった。
「女の子が、こんな夜中に一人で出歩いちゃ危ないわよ」
玄関が開いて、白いワンピースの女の子が顔を出す。妖精みたいだ。とてもはかなげで、びっくりするほどかわいい。かわいい、と最初思った。
でもよく見たら言うほどでもないなって感じ。かわいいのはかわいいけど美人ってほどじゃないかな。
「って、依?」
「そうよ。ケバくなったわね」
どうしたのその恰好。趣味と全然違うじゃん。聞きたかったけど聞けなかった。依の右手が、玄関の扉のふちにかけられている手なんだけど、指が五本ともピシッと伸びているんだ。依自身は無表情なのに。
「どうしたの、こんな遅くに。お父さんとお母さんは?」
髪が少し伸びて、服装がガラッと変わったけど、このババ臭い言動、間違いない。依は、依なんだ。ほっとひと安心した。
私は依をじっと見て、これまでのいきさつを一通り説明した。したつもりだったけど、涙が出てきて止まらなくて、ちゃんとできたかどうかわからない。
「逃げよう、依」
「どこに?」
ぐしゃぐしゃの顔に、表情のない顔で聞き返してきた。
「どこだっていいよ。ここから、逃げよう」
涙をぬぐいながら、相手の顔を見ようとするけれど、暗いせいかよく見えない。依の声はどこか平板。切羽詰まった感じはあまりない。昔から、依には何ていうか、のんきなところがある。
「帰ろうよ。おじさんもおばさんも、みんなだって心配してるよ」
ううんおばさんは現実を見てないだけで心配はしてなかったかもしれない。けど依を連れて帰れるならそれでいいよね。
「私、依がいないの寂しいよ」
依の口が開いた。でも声はしない。ピシッと伸びた右手の指が小刻みに震えている。涙が頬を伝っている、と思って初めて、依の顔をよく見たんだ。
これ、誰の顔?
真っ赤に充血した目からは涙は出てない。まなじりのあたりから頬を縦断して顎まで、皮膚が渇いた路面のようにひび割れているんだ。
涙に見えたひび割れの奥には赤でも黒でも青でも黄色でも橙でも緑でも紫でもない、闇としか言えない何かが渦巻いている。白い肌はすぐ裏が真っ黒なんだろう。人の肌の白さではない。
口も、開いているのはその通りだけど間違っている。開き方が間違っている。口が耳まで裂けて顎が外れたみたいになって、真っ赤な舌が三本突き出ているんだ。きれいな歯並びがよく見える。
言葉を失って立ち尽くす私に、依だった誰かが気づいた。
「違うの」
あの口でよく喋れたなって思うよね?あの口じゃ喋ってないんだ。あの、指が伸びきってる右手の甲にもう一つ口ができてるんだ。そっちが動いて、声を出してるんだ。
頬を縦断する亀裂がバックリと開いて、顎がもう一段階落ちる。口がまた開く。
「ちょっと疲れて、その、うまくできなくなっただけなの。落ち着けばすぐ、元に戻せるから」
顔にある口はごぼごぼって、声とも言えない音を出し続けている。違う違うって左手を振ってるけど、指の数増えてない?何本か逆向きに生えてるし、爪も、それは人の爪じゃないよ。
「逃げないで」
ひどいノイズの混じった声だった。ひらひらとかわいらしいスカートの中からずるりとぬめった触手が何本も何本も落ちてくる。タコやイカに似ていた。獣臭いような磯臭いような、独特の臭気が鼻を刺す。
「ね、待って。すぐ、すぐ元に戻るから。戻せるってば。おじいちゃんに教えてもらったからちゃんとできるわ……待ってて」
ざり、と靴底が地面を後方に擦った。
誰の?私の靴だ。私が今、後ずさったんだ。冷や汗がじわっと噴き出す。逃げるなって言われたのに……逃げちゃった!気づかれちゃだめだ。何とかしてごまかさなきゃ。殺される!
「お、おじいちゃん、って?」
「大丈夫おじいちゃんは怖くないわよ」話がかみ合ってない。何がどう大丈夫なんだって?「これの使い方……教えてくれたの。服、買ってくれたの。夏祭りにだって連れて行ってくれたわ」
依の隣にいた、あのバケモノのことかな?あの時はまだ、依は依だったと思うけど、どうして今は……ううん違う、そうじゃないんだ。今でもそうなんだ。
この後自分がしたことを、私はきっと一生許せない。
「ねえ、依なんだよね?」
「そうよ。だからそう言ってるじゃない」
「ゆっくり話さない?坂の下の自販機でジュース買ってくるからさ、待っててよ」
私のもくろみ通り、依は頷いた。私はできるだけ平静を装って、その場から歩いて離れた。わかってなかったとは思えない。絶対、わかってた。戻ってくるつもりなんかなかったこと。
ゆっくりゆっくり、できる限りゆっくりと坂を下りた私は、全速力で走った。
自販機を通り過ぎた。涙をぬぐいもせずに家に向かって、ひたすら走った。全然走ってないのにブランクのせいで息が切れて足がもつれる。
山の上から叫び声なんてしなかった。ううん、したかもしれない。でも必死に走ってたからわからなかった。
もうバスはなかった。何度も転んで泥だらけになりながら、走って走って、どこをどう走ったかわからない。でもおまわりさんに保護されて、翌日には一度病院に行って、それから家に帰ってきた。
パパとママは私を叱りもしなかった。
何事もなく生きて、今、大人になってるわけだけど、何でだろう。親友を裏切ったはずの私にはバチが当たってない。でもきっと、いつかは。




