押して駄目なら猫なで声
おそるおそる、首を捻って背中を見る。
「……!」
そこには醜悪な青黒い色の触手がのたうっていた。いつの間にか別の生き物がいるなんて思わなかった。
腐った死体のようにぶよぶよとして血管が黒く浮いた、これは私だ。どう見ても私の一部だ。間違いない。思った通り動いていないが、それは利き手じゃない左手で字を書いているときのように震えて、うまく動かせないだけだ。
首が痛むほど後ろへ曲げて、観察を続ける。
絶えず粘液を分泌する表面はどうも丈夫な皮で覆われているらしい。下側――いや、上か?――には吸盤が無秩序に並んでいる。
吸い付く機能はないのか、私がまだ操れないのか。どっちなのかも不明。知りたくもないけど。
そっとうなじにかかる髪を右手で持ち上げてみる。ソレが生えている部分が見えた。乾燥した粘土のようにひび割れた肌の隙間を押し広げてぬるりと伸びている。
一本だけだったことに安心し――何が安心なんだ?生えてるぞ。人間のパーツじゃないものが人間のパーツから生えてるぞ?――そっと髪を元に戻す。この部分だけは、首筋から触手が生える基部は自分でも見ていたくないのだ。
なんと安易な逃げ道。さらに逃げる。姿見の方へ向き直る。触手はこの操作でほとんど隠れた。目を覆う――もう何歩逃げたんだろう。
「どうしよう……」
何とかして隠さないと、ああ、どうやって隠せるというのか?上から服を着たって粘液が染み出すし、背中が変な形に膨らんでいる時点で何かおかしいだろう。
引きこもる?それは辛い。首に巻く?締まるわ。切る?血管浮いてるのに?大出血の可能性がある。ていうか痛いじゃん!
「戻せばいいではないか」
簡単に言うけど……どうやって。だって思うように動きさえしないのに。あれ?震える肩を汗ばんでぬるぬるした誰かの手が後ろから抱く。この期に及んでやっと私は後ろを振り向いた。
「弓……削」
鍵は閉めたはずだ。身を硬くすると、今日は他人行儀なのじゃな、と爺臭い口調が聞こえた。口調までは弓削に話していない。肩にあった手が静かに滑って触手を撫でた。
壮二の方だ。
「恐れるな。それはぬしの一部じゃ。落ち着いて動かせば意のままになる……ほら、ゆっくり息を吸って。……吐いて」
小さい子供をあやすように触手をさすりながら囁く。その声を聴いているとだんだん落ち着いてきた。先端部を右、左と動かしてみる。十全。せーの、いち、に、さん。
「もどった……」
「だから言ったであろ。戻せばよいと……まあ、肌の部分は誤魔化せるじゃろ」
まだ割れてるの?首の後ろ。
「ああ、少し。じゃが心配するな、50も数値があればすぐ消せるようになる」
ふ、と吐息が首筋にかかったところで我に返り、思わず壮二の胸を――弓削の体を、どんと突き飛ばした。壮二は少しよろめいたけれども、倒れも後ずさりもしなかった。ただ肩から手を離しただけだ。
特に何もない胸元を隠しながら、いや、そこは肋骨とブラジャーがあるのだけれど、肉的な意味で何もない。何もない胸を隠しながら口を動かす。壮二は少し驚いたような顔でこちらを見ている。何と言ったらいいだろう?
しばらく悩んだ私の口から出て来たのは陳腐な上に場違いな言葉だった。
「ありがと……」
意味が分からない、という顔のまま壮二はしばらく私を見ていたけれど、何か思い立ったらしい。手を打つ。
「何じゃ、恥ずかしかったのか。それならそうと言えばよいのに……突き飛ばすものがあるか」
私の顔は真っ赤だっただろう。かあっとか、そういう謎の音でもすればわかりやすいのだが、頬のあたりが熱くなる感覚しかなかった。
「じゃがそれでよい」
弓削の細いくせに節くれだった指先が頬に触れる。相変わらず手汗が気になる指である。
払ってしまおうとするかのように――私自身どうしてそうなったかわからないのだが、心当たりすぎてわからないのだが、とにかくびくっと右手が浮いた。浮いて、戻る。
「ぬしは美しい。できることなら誰にも見せたくないほどに。儂にはわからぬが、肌は――この滑らかな白い肌は。力を籠めると指が沈んでしまうほどに柔らかいのだろう、それでいて指を押し返す弾力があるのだろう?もっと力を籠めれば、脆弱に裂けてしまうのか。ふふ」
見当違いだ。私の肌は白いほうではあるだろうが、乾燥気味でさほど滑らかでも柔らかくもない。裂けるのは裂けそうだけど。ついでに言うと美人でもない。そう言われたこともないし思ったこともない。
鏡をのぞけば無駄に広い額の下に不機嫌そうなアーモンド形の両目が吊るでなく垂れるでなくこちらを睨んでくる。眉は山もなければ弧もない。
鼻も低いし、全身筋肉質なのに表情筋が弱いのか表情は大きく動かない。胸だって貧乳と言うよりは微乳である。尻もない。
尻は年相応に発達してきた骨盤と筋肉でできているごつごつした構造物。うすっぺらーいそれを包んでいる下着がたまに可哀想に思えてくるほど。
「謙遜が過ぎるぞ。視力は2,0だし、長距離走の選手だというではないか。鼻など高くても邪魔であろ。表情など小さくてよい。しようと思っていないポーカーフェイスほど相手にとって厄介なものはないからのう。……この骨と皮を絵にかいて吊るしたような身体とは搭載されている機能が違うわ」
機能美に萌えていらっしゃった!うんそれは否定できない!確かに私の謙遜が過ぎたね!
このあとも壮二はあれこれと私の肉体を褒めていた。しかし飽きたのか自分がみじめになったのかしばらくして一言ぼやいて出て行った。
「それにしても、なぜ妻はあえてぬしを使わなかったのじゃ……?おそらくもっとも適格であったろうに」
さあね?私が聞きたいわ。おかげでこんな面倒なことになってるんだし、もちろん乗っ取られてしまいたいわけではないけれど、ね。
こうなってくると何も悪いことだけではないのか。痴漢対策にめちゃくちゃ有効よね、触手。
トラウマを植え付けそうなうえに私に触る痴漢なんて見たことも聞いたこともないけどね。




