準備期間・その1
十一月の半ば、千晴の通う大学では大学祭が催される。学内だけの前夜祭、一般公開の三日間に及ぶ本祭、打ち上げ的な後夜祭と、都合四日間のお祭り騒ぎはかなり賑やかなものであるらしい。
らしい、と伝聞形なのは、今年入学した千晴がはじめて参加するからだ。大学見学には夏休みに来たから、やはり祭りの空気と言うのは先輩方の話や年間行事予定の写真くらいでしか知りようがない。
学生有志の出店もかなりの数が出るし、野外ステージではライブ等の華やかなイベントが盛りだくさん。立候補して大学祭の実行委員になった友人・辻梨佳子がそんなふうに力説したけれど、サークルにも委員会にも参加していない千晴はそんなお祭り騒ぎに加わる気は毛頭なかった。
「なんで? どうして? すごく盛り上がるし絶対楽しいのにー」
梨佳子の声はかなり大きかったが、午前の講義を終えて昼休みに移行した大講義室の喧騒に紛れてくれた。
不満げな彼女を横目に、紙パックの野菜ジュースを一気に吸い上げる。ストローを離すと、紙パックはのろのろと空気を吸って元通りになった。
「だって、人手もすごくてばんばん音楽が鳴ってうるさい場所なんて苦手だもん。ゲーセンとかカラオケも好きじゃないっていうのに、そんなのに行くわけないでしょう」
「それが祭りの醍醐味じゃないの」
まだ納得いかない風の梨佳子を、まあまあと宥めるのは黒髪美女の依田香澄。清楚な佇まいの通り、邦芸クラブに所属して茶道や華道をやっている。今時どこのお嬢様だ、と出会った当初は思ったけれど、似合いすぎて突っ込む気にもなれなかった。
「梨佳子は運営側で忙しいし、私も本祭中はクラブの茶会につきっきりだもの。千晴も一人でまわるのはつまらないんじゃない?」
香澄がおっとりと言うと、梨佳子も「それもそっかあ」と吊り上げていた眉を戻した。
実際その通りで、詳しくもない祭りに一人で参加する気にはとてもなれない。友人のどちらかにでも暇があれば一緒に回ることもできたのだろうが、できないものは仕方がない。
でも残念、と香澄が頬に片手を当てた。そんな仕草さえ絵になるのだから美人は得だ。妬ましいついでに、そのさらっさらの直毛も分けてほしい。
「部員は無料招待券を何枚かもらってるんだけど、二人が来れないんじゃ余っちゃうわね」
薄紫色のチケットを取り出して、困ったように呟く。両親や特に仲の良かった高校時代の友人にはもう渡してあるらしく、これで最後なのだという。
梨佳子はあっけらかんとチケットを拾い上げて言った。
「じゃあ、余裕ができたら行くよ。さすがに昼休憩くらいはもらえるし、大丈夫だと思う」
「本当?」
嬉しそうに微笑んだ香澄の笑顔が、今度はこちらに向く。困ってチケットに視線を落とした。
邦芸クラブ茶会無料招待券、一服お茶菓子付。
「お茶菓子はね、いつもお世話になってる和菓子屋さんから取り寄せたものなの。お出しする濃茶に合わせた練りきりで、季節の花の形でとても綺麗よ。もちろん、食べても美味しいし」
心を読んだかのように滔々と語られ、逃げ場がなくなる。食べ物に釣られるのはちょっと、いやかなり情けないけれど。
「……わかった。澄ちゃんのとこのお茶会には行く」
「ありがとう、千晴」
まんまと釣り上げた釣師は満面の笑みでチケットを差し出した。敵う気がしない。
チケットをしげしげと見ながら、一応断っておく。
「でも、私、お茶会の作法なんか一つも知らないからね」
「大丈夫。茶会といってもかなり簡易的なものだから。講義棟の教室をそれっぽく飾り付けて、お客様にお道具や生けたお花の説明をした後、お茶とお茶菓子をお出しして、おしまい。そんなに時間もかからないわ」
「なんだー、安心した。私もちょっとどうしようかと思ってたんだよね」
梨佳子が笑って、ばしばしと千晴の肩を叩いた。
「せっかくの大学祭だもん、楽しまないとね!」
ほんの少しとはいえ、千晴も参加することになったのが嬉しいらしい。運営側としては喜ばしいことなのだろうけど。
まあ、アパートで一人暮らしの身だし、家に籠っていたところで何をするわけでもないからこれでいいのかもしれない。実家に帰省するにも半端な時期だ。
とりあえず頷いて、今日こそ出遅れる前にと、二人を食堂に促した。
自由気ままな大学生活といえど、一年次はそう暇でもない、というのは入学してから知った。まず必修科目が多いし、三年に進級する際に足きりがあるので、必要な単位数は最低限確保しなければならない。
三、四年で楽をするためにも取れる限りの単位は取るべき、とのオリエンテーションでの先輩方の忠告に従って詰め込んだ時間割は、必然的に朝から夕までほぼ埋まることになる。その1コマあたりが高校時代の倍の90分授業なのだから、何をか言わんや。
今日も最後の授業を終えて外に出れば、すでにとっぷりと暗い。大学祭の準備で忙しい友人二人と別れ、一人てくてくと講義棟の群れの間を歩いていくと、最奥に巨大な建物が現れる。これが、大学図書館だ。
昼間見ると趣のある煉瓦造りの建物だが、夜の佇まいはいわくつきの古ぼけた洋館、みたいな雰囲気になる。はっきり言ってヘルハウスだ。壁を這う蔦までなんだか不気味に見える。
重たいガラス扉を押して中に入ると、図書館特有の古い紙の匂いに包まれる。これが好きだ、と言う人もいるらしいが、千晴にはよくわからない。どっちかというと異臭に近い気がする。少しこの中で過ごせばいつの間にか気にならなくなるのだから、害はないのだろうけど。
一階は素通りして、階段に向かう。一階に置かれているのは新聞や辞典、小難しい専門雑誌なんかが主だから、あまり利用したことがなかった。だからって、本をよく読むわけでもないけど。図書館を利用するのは、もっぱらここのDVDが目当てだった。
二階に上がると本棚の列の向こうにカウンターがある。その脇のファイルが並んだ記入台に直行して、一冊を手に取った。
ファイルの中にはDVDの外装をコピーしたものが入っていて、それでタイトルとあらすじなんかが確認できる。ぺらぺらとめくってめぼしいものを見つけ、用紙に書き込む。それを持ってカウンターに向かうと、見慣れた職員がいた。
「こんばんは。今日も来たな、映画娘」
顔を上げて気安く笑うのは、眼鏡の若い男。長めの薄茶の髪をハーフアップにしていて、今日もちゃらい頭だなあと思いながら挨拶を返す。
いつだったかは前髪を上げてヘアバンドだとか、一部をお団子にしてシュシュでまとめたりしているのも見た。曲がりなりにも公共施設の職員なのに、誰も注意しないんだろうか。
少なくとも、学生に人気があることは知っている。年も近いし気安いタメ口だから、話しやすいのかもしれない。たまに聞こえるひそめる気もなさそうな女子学生の黄色い声は、どう考えても迷惑だけど。
学生証と一緒に差し出した用紙を見て、彼はへえ~と面白そうに言った。
「渋いなあ。アニメ映画を借りてく女の子は多いけど、これを選ぶのは珍しい。好きなの?」
あんまり通い詰めているからかすっかり顔を覚えられてしまい、毎回こうして絡まれる。できれば他の人にお願いしたいくらいだが、この時間帯は彼の担当なのか、昼間見る気のいいおばちゃんたちの姿はない。しぶしぶと答えた。
「……父が好きなの思い出して。小さいころは何度か見たんですけど、面白いとは思わなかったですね」
「あーうん、そうなんだよなあ。これの面白さは子どもにはわからない」
嬉しそうに頷くと、棚からDVDケースとリモコンを出して手渡した。
「今日は5番ね。ごゆっくり」
笑顔に送り出されて背を向けると、「ああそうだ」と呼び止められた。
「手違いで他に貸し出されちゃった本の件だけど、一週間以内には戻るって。迷惑かけてごめんね、ほんと」
口調に悪びれた様子はないが、手違いをやらかした職員は彼ではないし、別に本も急ぎだったわけではないから構わない。
「大丈夫です。仕事してください、司書さん」
「冷たいなー。そろそろ『皐月くん』って呼んでくれてもいいんじゃないの?」
「よくないです。カウンター、待ってますよ」
さっきから本を抱えた学生が、困ったようにこちらを窺っている。
「はいはい。ごめんね、お待たせー」
彼が対応しに行くのを見届けてから、今度こそ背を向ける。
指定された5番の席につきながらざっと見たところ、他にも4、5人の利用者がいた。多いときには席が全部埋まっていることもあるし、千晴のようにこれを目的に図書館に来る学生は割と多いのだ。
DVDをセットして座ると、何かがくしゃりと音を立てた。上着のポケットを探って、掴んだものを取り出す。たった今まで忘れていた。数日前に狐面の男からもらった飴玉だ。
金色のそれを明かりにかざして考える。
食べるには勇気がいるし、捨ててしまうのもどうだろうという気がする。少しの間考えたけれど、答えを出すのは保留にして、またポケットに戻した。
始まったアニメ映画を見ながら、頭の半分ではまだ飴玉のことを考えていた。それと、それをくれた奇妙な人のことも。
結局、映画の内容はちゃんと頭に入ってこなくて、父や司書の男のいう面白さを知ることはできなかった。あるいは、それを知るにはまだ子どもなんだろうか。
返却の時には、カウンターは図書整理でばたばたしていたため、長く捕まることなく済んだ。
時計を見ればもう8時近い。夕飯をどうしようかと考えながら、いつもの癖で近道のできる植え込みの隙間に向かう。ここから出ると裏門に近いのだ。同じことを考える者は他にもいるらしく、草が擦り切れて地面がのぞいた道になっている。
そして、植え込みを抜けた斜面を下りる前に、千晴は足を止めた。
そこには、白い狐のお面をつけた男がいた。彼は数日前の千晴のように、寝転がって空を仰いでいた。
四肢を投げ出して微動だにしない姿は、かなりホラーだ。自分もこう見えていたのだろうか、と思うと今更ながら後悔がこみ上げてくる。短い斜面を下りて、彼を見下ろした。
「何してるの?」
口にしてから、ああ、あの時と逆だな、と思った。彼は驚いた様子もなく答える。
「月を見ていた」
すっと右腕を上げ、空を指差す。確かにそこには月が浮かんでいた。あの日よりもいくらか欠けて、半円よりもいくらかふっくらした形になっている。
「月を見るの、好きなの?」
あの日をなぞるみたいな言葉が口からこぼれる。
なんとなく、彼の横にしゃがんでみた。答える彼の透明な声が、近い。
「特には。でも、綺麗だ。そう思ったから見ていた」
彼の答えも千晴のものに似ていた。あるいは、わざとだろうか。彼の声に作ったようなところはないように思えるけれど。
特に好きじゃなくても、綺麗なものは綺麗。それには同意できるから、千晴は頷くことにした。
「そうだね。今日のはオムレツみたいな形」
そうだ、夕飯はオムレツを作ろうかな。
なんだか自分は、月を見上げるたびお腹を空かせている。時間帯が時間帯だから、仕方ないけど。
少しの間の後、彼は淡々と頷いた。
「……オムレツか。そういえばそうだな」
「こないだの満月の時は、萩の月を思い出したんだけどね。あれも真ん丸で、黄色くて、似てるでしょう?」
ふふっと、息がもれるみたいな声がした。彼が笑ったのだと気が付くのに、時間がかかった。どきりと心臓が跳ねる。
「腹が減ってるのか」
透明な中に、何か優しい色が混じった声。余計に心臓が暴れる。なんだろう、これ。
平静を装おうと、バッグを強く抱いた。
「だって、まだ晩御飯食べてないもの」
子どもか。胸中で自分自身につっこむ。やっぱり平静なんか装えていない。
熱くなった頬を押さえた千晴の前に、握った白い手が突き出された。やるよ、と言われて手を差し出せば、落ちてきたのは見覚えのある飴玉だ。
彼が起き上がって、こちらを向いた。狐の吊り上がった目の奥にある、彼の瞳と目が合った。それが笑んだ気がして、息が詰まる。
「それも、いらなかったら捨てて」
立ち上がり、服を払って歩き出す。その背中に、慌てて言った。
「いらなくない、私捨てないよ!」
とっさに出た言葉で、自分でもわけがわからなかった。やっぱり子どもじみていたかもしれない。
お面の奥で、また彼が笑った気がした。