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準備期間・その2

 昨日から頭がぼうっとする。熱でもあるのかと体温計で計ってみたけれど、普段通りの平熱だった。体もだるくないし、風邪ではないらしい。それでも、厄介だ。

 もう間近に迫った大学祭に向けて、目もまわるほど忙しいはずの友人二人にまで心配をかけてしまった。病気ではないようだから大丈夫だと言ったけれど、早く帰って休みなさいと念を押された。


 幸いにして今日の午後の講義は休講になっていた。それでもアパートに帰る気になれず、図書館の隅の席でこうして机に顎を乗せている。席の一つ一つが区切られているので、情けない顔をさらさずに考え事をするには最適なのだ。


 目の前には、2つの飴玉。月に似た金色の、丸いお菓子。

 ともすればこれを取り出して、ぼんやりと眺めてしまう。病気じゃなくても異常だ。自分で自分が分からない。

 窓から差し込む日光できらきらと輝く飴玉を前に悶々としていると、頭上から呑気そうな声が降ってきた。


「あれー。珍しく映画娘が図書館で映画以外のものを見てるな。何してんの?」


 見上げれば、本を大量に腕に抱えた眼鏡の男。今日は、前髪の一部を編み込んで色ピンで留めている。相変わらず軽薄そうな髪型だ。

 返却作業の途中のようだが、角の席に陣取った千晴の周りに本棚はない。わざわざ見つけてこちらにやって来たらしい。


「何でもないです。仕事してください」

「そうは見えないけどなあ。何、その飴玉」


 重そうな本の山を片手で持って、机の上を指差してくる。細腕のくせに、力はあるようだ。

 何故だか彼の手に昨日見た白い手が重なって見えて、自分でも驚くくらい、弱気な声が出た。


「わからないんです。私……、何かに憑りつかれたのかもしれない」


 そうでなければおかしいのだ。異様に心臓がどきどきして疲れるし、ぼんやりして何度も何もないところで転びそうになるし。絶対に正常じゃない。


「憑りつかれたって……。へえ~、なるほどねえ~」


 急にこの上なく楽しそうな顔になって、机に手を付き顔を覗き込んできた。


「ねえねえ、映画娘。このあとヒマ? お兄さんが奢ってやるから飯に行かない?」

「……は?」

「話聞いてやるよ。お前が何に憑りつかれてるのか、知りたくない?」


 知りたい。けど、何か悪巧みしているような男の顔を見ていると、頷きづらい。

 躊躇っている間に、彼の中ではもう決定事項にされたようだった。


「じゃあ、あと十分で上がるから、図書館の入り口で待っててな」


 本棚の群れの中に消えていく彼を見送って、頬杖をつく。きらきらした二つの飴玉を前に、途方に暮れた。




 男に付いていくと、彼は食堂の入り口横の、職員食堂の扉を押して手招きした。戸惑って、思わず足が止まる。


「いいんですか? 私、学生なのに」

「職員同伴ならいいんだよ。よく先生方もゼミ生とか連れてきてるし」


 それなら……と扉をくぐる。学生食堂よりはだいぶ狭いが、テーブルも椅子も木製で、床も木目調に統一されていて雰囲気がある。ちょっとしたレストランっぽい。なんだか、学生の方と比べてものすごく贔屓されてる気がした。


 窓際の席に着くと、メニューを差し出された。こちらは席で頼んで、運んできてもらえるシステムらしい。職員の特権なのはわかるけど、ここまで違うのもどうだろう。うちの大学は総学生数一万人越えのマンモス校だし、そこまで至れり尽くせりっていうのは無理なんだろうだけど。


「何食べる? カツカレーでいい? っていうか俺、ここ来てそれ以外食べたことないんだよね。昔からの定番メニューだし」


 すらすらと言って、勝手に二人分のカツカレーを注文してしまった。別に文句もないけれど、他のことが気になってつい身を乗り出した。


「あの。もしかして、司書さんてここの卒業生ですか?」

「お、知らなかったっけ?」


 知らなくても、今の台詞や慣れた雰囲気で、なんとなく想像がつく。


「卒業したのほんの数年前だし、あんまり変わってないんだよなあ。同僚に世話になってたおばちゃんがいるのも、最初は変な感じだったよ」


 笑って、彼はテーブルの上で腕組みした。


「ところで、こうして差し向かいで飯食うんだし、そろそろ名前で呼ばない? 司書さんはないでしょ、さすがに」


 そういうものだろうか。なんとなく納得がいかなくて、眉を寄せた。


「そっちも、私を名前でなんて呼ばないじゃないですか」

「俺は、あえてあだ名で呼んでるだけだよ。ご希望なら名前で呼ぶけど? 河野千晴サン」


 なんだかすごく違和感があって、ぶんぶんと首を振った。


「結構です。ええと、サツキ、メグミさん?」


 首から下げた職員証を見ながら呼ぶと、彼はそれを持ち上げて言った。


皐月(さつき)(けい)。メグミじゃなくてケイだよ。昔からよく間違われるけどさー。メグミじゃ女の子じゃん」

「はあ。すみません」


 男性のメグミさんだっているだろうに、そんなことを言っていいのか。

 彼は口を尖らせながら、まあいいけどね、と言って職員証を落とす。そうこうしている間に、もうカレーが運ばれてきた。

 ほかほかと湯気が立つそれはいい匂いがするし、なるほど美味しそうだ。カツカレーと言えば食堂でダントツ人気のメニューだけれど、実は食べるのは初めてだった。絶品だという評判に比例して、なかなかに厳しい値段設定なので諦めていたのだ。


「あの、皐月さん。いいんですか? ごちそうになって」


 窺うと、きっぱりと笑顔で言われた。


「これでも社会人だからね。可愛い女子大生に奢るくらいの金はあるよ」


 なんだかその言い方は怪しいですよ。という突っ込みは呑み込んで、ありがとうございます、と頭を下げた。正直、バイトもしていない学生の身に四桁の出費は痛い。

 髪を邪魔にならないように耳にかけ、今更ながら断りを入れておく。


「でも、食べきれなかったらすみません。なんか食欲なくて」


 スプーンを手にした皐月は、いいよいいよ、と言いながらカレーを口に運ぶ。それから、満面の笑みを浮かべた。


「それが恋の病、ってやつだからね」


 カレーを掬った千晴の手が止まる。皐月を見て、瞬きした。


 恋?


「だからね、映画娘が憑りつかれてるのは恋だってこと」


 彼の声は耳に届いている。それなのに、頭が真っ白で働かない。人間、本当に思いがけないことが起こった時にはこうなるんだ、と妙に感心した。

 呆けている千晴を見て、皐月はにやにやと頬杖をついた。


「その感じだと、まさかの初恋? いやー、いいねえ、若いって」


 自分もそう変わらないくせに爺くさいことを言って、やれやれとか言いながら水を飲んでいる。

 ちょっと待て。初恋? 誰が誰に?


「あ、ありえないですよっ」


 動揺のあまり声が上ずった。ここが職員食堂で良かった。ほかにもちらほら利用者がいるとはいえ、慎み深く聞こえないふりをしてくれている。これが学生食堂だったらどれだけの好奇の視線を集めているかと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。


「ありえない? どうしてさ」

「あの人とは会ったばかりだし、たいして話もしてないもの。顔も知らない相手に恋なんかしない。理屈に合わない」


 皐月は、笑ったまま目を細めた。


「理屈で恋なんかできないよ、バカバカしくって。情緒不安定もいいところだし、不整脈にはなるし、始終ぼーっとして注意力散漫で。ちっとも理性的じゃない。映画娘、今そんな感じじゃない?」


 その通りだ。言い当てられて、余計に頬が熱くなる。

 しかし、こうして言葉で聞くと。


「恋って、体に悪そうですね」


 頬杖をついた皐月が、やけに重々しく頷いた。


「そう。理屈に合わないし、体に悪い。それが恋だ」


 真顔で言い切られた。

 湯気を立てるカレーを前に、混乱する頭で考える。


 恋。あの、狐のお面の男に? そんな馬鹿な。

 顔も名前も知らない相手だ。それ以前に、噂になるほどの変人だ。そんな男に、自分が、恋?


「絶対、ありえない」


 自分に言い聞かすみたいに呟いて、勢い任せにカレーを次々頬張る。皐月は嘆息して、宥めるように言った。


「お前自身のことだから俺がどうこう言うことじゃないけどさ。あんまり悩まないほうがいいと思うぞ。こういうのは直感だから」

「私の直感が、そんなのはありえないって言ってるんです」


 断固として睨みつけると、(かたく)なだなーと苦笑した。


「ま、がんばれ。話くらいなら聞いてやるからさ」


 ついでにメアド交換しとく? と素早く携帯電話を取り出した皐月を無視して、黙々と食べ続けた。


 でも、どこか納得した気分でもある。彼が学生たちに人気がある理由が、理解できた気がした。

 気安い態度や口調だけではない。彼は世話好きで、聞き上手だ。やり方は強引だけれど、必要以上に踏み込まないし、あくまで判断は本人に任せている。彼に懐いた学生たちも、悩みを聞いてもらったりしているのかもしれない。

 もしも、兄がいたらこんな風なのだろうか。一人っ子の千晴にはわからない。


 それでも、ずっともやもやしていた気持ちがどこか落ち着いたことは事実だったから、スプーンを置いて彼に向き直った。


「ありがとうございます」


 皐月はきょとんとして、やがてにっと笑った。


「どういたしまして」



 結局、ごちそうになったカツカレーはすべて平らげた。久々にボリュームのあるものを食べたので胃が重たくなったけれど、まあ平気だろう。

 皐月は仕事に戻り、千晴も帰宅すべく、アパート方面の裏門に向けて歩き出す。大学構内はどことなく、いつもより賑やかだ。そういえば明日はもう前夜祭なのだ、と気が付いた。


 明日は全ての講義が休講になり、丸一日が準備にあてられる。その夜に前夜祭があり、明後日からは本祭が始まる。いよいよ四日間のお祭り騒ぎの幕開けだ。

 そうとわかっていても、弾んだ気分にはなれない。それよりも、今はわけのわからない自分自身のことをなんとかしなければ。


 図書館の裏手の道を歩くうち、無意識に視線が短い斜面を、街灯の向こうの角をさまよう。自分が誰を探しているのかに気がついて、思わず足が止まった。


 ――認めなければならないのかもしれない。これは、だいぶ重症だ。


 嘆息して空を見上げる。月はなく、雲の少ない青い空が広がっていた。


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