【終】 ――社――
農作物と川の幸、山の獣で腹を満たす田舎の集落があった。四季折々の自然を目で舌で楽しめるが、それ以外には特に何もない、都から遠く離れ街道沿いでもない場所だ。
やってくるよそ者は、せいぜい修行中の僧の類か、道に迷った旅人。
そんな場所に、その豪奢な佇まいの社は、かつてあった。
鈴李姫神。
集落を抱く山の中にある、そんな名前の神を祀っていた場所。古くからこの地にあり、巫女の家系の最後の一人となった少年が一人で管理する、それなりに由緒ある社だった。
今はもう、焼け焦げた跡しか残っていない。
それは数十年前のことだった。
人ならざる、神ならざるものが集落にやってきた。それと一騎打ちをした鈴李姫神だが、戦いの場となった彼女の社は炎上。彼女に仕えていた従者と共に、炎の中で果てたという。
これが、集落に語られる鈴李姫神の伝承の最後。
そして神は、消えた。
されど――その人でも神でもないものの呪いは、集落に色濃く残されていた。
集落の長たる名主の家に、相次いで不幸が訪れているのだ。
神と共に果てた従者の幼馴染だった一人娘は、近隣の集落から婿をもらい、六人もの子宝に恵まれた。しかし、長女と末娘を除き、皆が五つにならぬうちに死んでしまった。
夫も早くに死んでしまった。
そして、人々は囁いた。
あれは呪いだと。
名主夫妻は娘婿や孫の相次ぐ死に心を弱くし、相次いで死んだ。そして残された一人娘が新たな名主になった。彼女の長女も結婚し、だが乳飲み子を残し夫婦揃って病に倒れ死んだ。
残された末娘は都に嫁いだ。彼女の方は特に異常は無いという。
これにより、人々の下世話な噂の矛先は名主の娘に向けられることになった。
集落は呪われている。
名主の家は呪われている。
いいや、名主こそが呪われている。
一人娘は、誰にも言えずに耐えるしかなかった。
邪神を呼び出したのは自分で、契約したのも自分で、社に火をつけさせたのも自分で、誰よりも好きだった彼を死なせたのも自分で、この集落から神を消し去ったのも自分で。
家族を死なせたのも自分で、にも関わらず生き残っているのも自分で。
彼を――葵を恋しがっている愚か者も、自分で。
せめて、この子だけでも。
どうかこの子だけでも。
珠姫という名の老婆は祈った。
そして、祈りは届いた。
◇ ◆ ◇
それは娘が遺した乳飲み子が、だいぶ大きくなった頃。
都に嫁いでいた娘から、一通の文が届いた。
そこには嫁ぎ先の義理の両親と仲良くしていること、夫が仕事に励んでいること、都であったいろんな出来事、それから子供が生まれたこと。それが男の子だったこと。
いろんな『嬉しいこと』が、綺麗な字で書き綴られていた。
「あの子は……元気なのですね」
そして読み進めていった先に、その一文があった。
曰く、都に不思議な力を持つ巫女の娘がいる。少し前に代替わりした帝さえ心酔し、彼女に意見を乞うほどの力を持ち、意のままに神を呼び出すことさえできるという。
そんな――どこかで聞いた力を持つ、巫女の話。
彼女と偶然知り合った夫が、妻の故郷の惨状に意見を求めた。このままでは妻に帰る場所がなくなってしまうと。末娘は実に良い伴侶を得たと、珠姫は思わず視界を潤ませる。
その話を聞いた件の巫女は、現地に行って何とかしようと申し出てくれた。
文がつく頃には、もうついているかもしれない。
……そんな内容だった。
手紙が届いて数日後、数十年前は時折見かけていた豪奢な牛車と団体が、名主の屋敷にやってきた。籠は珠姫の末娘の嫁ぎ先のもので、顔見知りの使用人も何人か混ざっていた。
そして、牛車から出てきたのは巫女ではなく、その従者らしき少年だった。
その知った姿に、珠姫は思わず絶句する。しかし周囲には、若い従者に驚いたと思われたようだった。もうあの一件を知る者は珠姫しか生きていない、だからそう思われた。
そんな彼に抱きかかえられ、その姿を晒す神。
艶やかな黒髪が、さらりと揺れた。
「久しいのぅ、名主の娘。ずいぶんと老いたものじゃ」
それは……忘れかけていた声だった。
忘れたかった、声だった。
あれから何十年と時が流れ、色あせたと思っていたあの夜が脳裏に浮かぶ。
燃え上がる社。そこに消えていく彼の背中。
彼が追いかけていった、神。
あの頃と寸分違わぬ姿で、二人はそこにいた。
「またあの場所に社を立ててくれんかぇ? 妾はあの場所を好いておる。もしも社を立て直してくれるなら、それ相応の利益をもたらしてしんぜようぞ。なにせ、妾は神じゃからのぅ」
それに、と幼い姿をした神は、くつくつと哂い。
「ここはかつて妾がいた場所。かつて己が住まっていた場所。そして母を筆頭とする先祖が眠る土地。そのように縁深き集落を、このまま滅ぼすのは忍びない……そう、奴が申すしの」
「……」
幼い姿の神を抱きかかえる少年は、何も言わず目を伏せる。
珠姫は全身を細かく震わせ、声にならない声をか細く綴っていた。
それを見た神はくつくつと愉快そうに肩を揺らす。
「案ずるでない、小さき娘だったものよ。全ては終わったこと。そなたは集落を守り、妾はこれと永久に共に在る。誰も不幸になっておらぬ、実に幸福な結末ではないかぇ?」
遠くなる意識、かすんでいく視界。その中でまっすぐに見ていたのは、かつて恋焦がれた相手の変わらぬ姿であり、変わらぬその瞳だった。あの頃と何も変わっていない、何も。
そうだ、変わったのは自分だけではないか。
くだらない感情に振り回されて、邪法に手を染め社を燃やし。
愚かだったのは、自分一人ではないか。
彼には復讐する資格がある。
珠姫も、その家族も、この集落も。
すべてを見殺しにしても、許されるだけの資格がある。
それなのに――助けてくれたのか。あの夜、あれだけのことをした珠姫を彼は、彼女だけでなく集落ごと救ってくれるというのか。それでも、この苦を祓ってくれるというのか。
視界がゆがんだ。
少しだけ、困ったように葵が苦笑するのが見えた。あの頃と何も変わっていない、彼がよく浮かべていた表情だった。泣かないで、という痛いほど懐かしい幻聴が、そっと耳を掠める。
珠姫はただ泣いた。
むせび泣くしかなかった。
数年後、集落に再び立てられた、神を祀る社。
そこにいるのは幼い姿をした一人の神。
その名を、鈴李姫神といった。




