選ばれたナナ
「リンクス。新人でも名前くらいは聞いたことがあるでしょう?」
……そんなの、あったかな? ついシリスお姉様に顔を向ける。
「はぁ……」
シリスお姉様のため息が前髪を揺らした。察してくれたようだ。
「もう、ナナ。試験や、お客様に提供するときとかにお世話になってるお店よ。覚えておくように」
「は、はい……」
そうだった。先生が授業で言っていた記憶が、微かにあるような気がする。そのときはBランクなんて、シリスお姉様と同じランクになるにはまだまだ遠い未来の話で、先生の話もどこか他人事のように思えていたんだ。
……違う。まだ問題はそこじゃない。
「それは分かったんですけど……でも、なんで私、命を狙われるんですか?」
恐る恐るリアラ様へ視線を向ける。
「半分は冗談よ」
代わりにアルヴェナお姉様が答えた。でも、その顔はまったく冗談に見えない。
そんな私を気にしていないのか、それとも無責任なのか。リアラ様はカップのハーブティーをくいっと飲み干すと、青い瞳をこちらへ向けた。
「……ごめんなさい。少し大袈裟だったわね。驚いたかしら?」
さっきまで胃を潰すかのようだった不安が、だんだん苛立ちに変わってきた。
リアラ様はそっとカップを机に置き、アルヴェナお姉様を見る。
「行くわよ」
「はい、お嬢様」
その声を皮切りに、二人が立ち上がる。まだダメだ。聞きたいことは山ほどあった。でも、残りの半分がどうしても知りたい。
「残りのはん――」
「お待ちくださいませ、リアラ伯爵令嬢」
ナルメお姉様の凛とした声が、私のか細い質問をかき消した。
「今回はどうやら体調がすぐれないようなので、次回こそはどうか」
その言葉を後に、お姉様方は綺麗に一礼する。どこかその完璧な仕草には、力強く感情が乗っているように見えた。
お姉様方が顔を上げる。
リアラ様はそれを一瞥すると、
「次回は茶会を開くわ」
たった一言だった。慰めでも励ましでもない。その言葉を聞いたお姉様方の顔は、さっきよりずっと『Aランク』だった。
これがプロの世界……。私は土足で、お姉様方の世界を荒らした……。
「またね、ナナ。シリス」
えっ……。
気づいたときには、リアラ様の背中は扉の向こうへ消えていた。
ガチャン。
扉が閉まる音を最後に、客間へ静寂が戻る。残されたお姉様方の視線が痛くて、居心地が悪い。でも、やらないといけない。
私はゆっくり手をへその前で組み、お姉様方へ一礼する。頭を下げ、膝下を見るように……。
「やめなさい、下手くそ」
お姉様の声が飛んだ。
そうだ。下手くそだ。このたった一つの基礎でさえ、さっきのお姉様方の一礼の足元にも及ばない。でも……。
「ナナちゃん、顔を上げて」
「え?」
シリスお姉様の優しい声に釣られ、視線を上げる。
そこには、膝を震わせて座り込むお姉様、肩で息をするお姉様、目元に涙を浮かべるお姉様までいた。
「あなたたちは必死で分からなかったと思うけど、みんな完璧な姿をリアラ様に見せるため、ずっと姿勢も目線も顔の角度も維持し続けていたの」
シリスお姉様が、そっと耳打ちしてくれた。
これが、メイド室のAランクなんだ。
―――
お姉様方が部屋を出て数分。まだ、ちょっと頭が追いつかないでいた。
「大丈夫? ナナ?」
「…………はい」
「リアラ様、帰っちゃったわね」
「……帰った。帰った!? え、残りの半分は!?」
思わず大きな声を出してしまった。
「うわっ、うるさいよ!」
ミイスはいつの間にかミノムシ状態から復帰していた。くしゃくしゃになったエプロンを直し、乱れたポニーテールを結び直しながら、だんだんと顔がにやけていく。
「やったんだよ! ナナ!」
「どうかな。うまくいけばいいけど……」
扉をちらっと見る。バカミイスの作戦は最初からうまくいかなかったけど、目的はあの解熱剤をなんとか飲ませることだった。あとは効果を待つだけ。
「これで私たちが気に入られれば、次の作戦……ぐふふ」
作戦って……結局、ミイスは何もしてないような。
すると突然、暖かくて柔らかいものに包まれた。花と土の匂い。その奥から、布越しに果実のような甘い香りがする。
シリスお姉様の匂いだ。
張り詰めていた糸が切れたように、お姉様へ身体を預けた。
「よくやったわ、二人とも。うまくいくかは分からないけれど……ありがとう」
すぐ近くから、お姉様の声の振動が直接伝わってくる。昔も、こんなふうに――
「もごもごっ」
「ぷはっ! お姉様! 悪い癖出てるよ! 死ぬかと思った!」
ふと目を開けると、石鹸をちゃんと流していないような、バカミイスの匂いが鼻に入った。
「あら、ごめんなさい。つい」
お姉様の腕から解放されると、今度は心配そうに私たちを見る。
「リアラ様のことはいいとして……そういえば二人とも、サボったのがことの始まりよね」
「そうだよ」
ミイスが他人事みたいに返す。
「そうだよじゃないよ、バカミイス!」
思わずミイスの肩を掴んで揺さぶる。
まだ終わってなかった。
「先生に知られたら……あわわわ、お仕置き部屋……」
ミイスもようやく事の重大さに気づいたらしい。みるみる顔が青くなり、両手を頬へ当てて震え始める。
「な、ナナ……い、今すぐあのお客様に連れていってもらおう! そうしよう!」
「バカ言わないの!」
シリスお姉様が呆れたように笑った。
「二人とも。こういう時こそ堂々としていなさい」
「でも……」
「おそらくだけど……大丈夫よ」
シリスお姉様は、どこか楽しそうに微笑んだ。
―――
朝の出来事が嘘だったみたいに、授業は何事もなく終わった。けれど、夕方を過ぎた頃には噂が広がり始めていた。
廊下を歩いていると、すれ違うお姉様や同じCランクの子たちが、振り返りざまにひそひそと何かを話している。
「あれがラトラ・ロザリー」
「何それ……」
私はそっと耳栓を強く押し込んだ。
「噂広がるの早いよねー」
「なんでそんな他人事なの、問題児!」
楽しそうに笑うバカミイス。通称、問題児。
このメイド室では、不名誉なことをするとすぐに噂が広がって、いつの間にか変な名前までつけられる。
「ラトラ・ロザリーかぁ。ずるいなぁ。シリスお姉様は魅惑の……なんだっけ?」
「違うよ。確か、なんとかガーデナー? 『問題児』よりはマシだけど……」
悪い名前だけじゃない。お姉様たちには名誉な呼び名もたくさんある。
多すぎて、もう何が何だか分からないけど。
夜。
私とミイスは、だだっ広い食堂の扉を開けた。
さっきまで扉越しでも騒がしかった食堂が、静まり返る。
お姉様方の香水。年季の入ったオーク材や石壁の匂い。いろんな料理の匂い。その中でも、今夜のシチューと焼いたパンの香りが強く鼻に入ってくる。
配膳をする子も、受け取る子も、席に座っているお姉様方もCランクの子たちも、みんなこちらを見ていた。
端まで届きそうなほど長い木製の机。その一番端の椅子へ目を向ける。
「ミイス、場所取りお願い」
しなくてもいいとは分かっている。でも、今はあそこだけが唯一の安全地帯に思えた。
ミイスもさすがに居心地が悪いのか、すぐに歩き始める。食堂の中に、場所を取りに向かうミイスと、配膳を受け取りに向かう私の足音だけがコツコツと響いた。
すると、食堂の入口近く。お姉様方の席から、朝の出来事を思い出させる声が聞こえた。
「ロザリー。貴方はこっちだ」
一瞬、誰のことか分からなかった。
振り向くと、金色の長い髪に整った顔立ちのお姉様が、こちらをじっと見つめている。
ナルメお姉様だ。
その隣の空いた椅子には、すでにシチューとパン、それからデザートの果実まで用意されていた。
……そこに座れってこと?
思わずミイスを見る。
ちゃっかり、もうお姉様方の方へ向かっていた。
私も踵を返し、ミイスと真ん中で合流するように歩調を合わせる。
「お姉様、これはどういうことなのですか」
一人のBランクのお姉様が立ち上がった。
ナルメお姉様は何も言わない。ただ視線だけを、そのお姉様へ向ける。
すると、お姉様は顔を赤くして、腰が抜けたように椅子へ座り込んだ。
「これ何? どゆこと?」
ミイスと合流すると、少しだけ不安が和らいだ。
「分からないよ。とりあえず言うこと聞こ」
ナルメお姉様の横まで来ると、無言のまま椅子へ座るよう手を差し出される。
それに従い、静かに腰を下ろした。
少しの沈黙のあと、どこからか鐘の音が鳴る。
食事の合図だ。
目の前のシチューから湯気が立ち上り、湿った熱と美味しそうな匂いが鼻先に当たった。
「食べないのかい? ロザリー?」
今朝とは違う、優しくも艶のある声。
ナルメお姉様は綺麗な所作で食事を続けている。
「あ、はい。食べます」
「お隣の問題児ちゃんは、ものすごい勢いで食べてるよ」
左を見る。
お姉様とは真逆だった。
ミイスはパンをちぎっては破片を撒き散らし、音を立ててシチューを飲んでいる。
「早く寮の部屋に帰るよ。食べ終わったあと、絶対やばい。はむっ」
口いっぱいにパンを詰めながら、シチューで無理やり流し込んでいる。
私もすぐにパンをちぎり、シチューにつけた。
「何してるの! ほら!」
ミイスが私のパンを掴み、そのまま思いきり口へ突っ込んでくる。
「ふごっ!」
その瞬間だった。
「食事中失礼します。お姉様方、書状のお渡しになります」
Cランクのメイドが、たくさんの手紙を荷車に積んで食堂へ入ってきた。
食堂が、一瞬で静まり返る。
「Aランクのお姉様から失礼します。ルイラお姉様。カイナお姉様」
次々と名前を呼ばれたお姉様方が、豪華な装飾と朱印のついた手紙を受け取っていく。
「あれは確か……」
「スカウトレターだよ。私たちが喉から手が出るほど欲しい物だ。……もちろん、リアラお嬢……伯爵令嬢のものだが」
ナルメお姉様だけじゃない。
食堂にいるほとんどのメイドが、書状係のメイドを見ていた。
「Bランクのシリスお姉様」
Bランクのお姉様方の列から、シリスお姉様が立ち上がる。
差し出されたたくさんの手紙。その中から、一際目立つ豪華な一通だけを取ると、残りはそのまま書状係へ返した。
「えっ……嘘」
書状係のメイドが手元の羊皮紙を見つめる。
「もう一回……」
指で文字を追いながら、何度も確認している。
そして、驚いた顔のまま口を開いた。
「Cランクの……な、ナナ」
この日一番の騒ぎが、食堂に響いた。
「嘘でしょ、Cランクが!?」
「ありえない、あの手紙……」
「ラトラ……盗人め」
口からパンが離れ、ぽちゃん、とシチューの中へ落ちた。
騒ぎの中、食堂中の視線が私へ集まる。
「さあ、行きなさい。私のロザリー」
どこからか、シリスお姉様の声が聞こえたような気がした。




