5.ノスタルジックな風に乗って -Last-
「さて…ちょっとスイマセン、いいっすかね?」
レンはそういって手帳を取り出して見せた。
レンに話しかけられた初老の男は、疑うこともなくその手帳を見ると、一瞬だけこの世から引きはがされる。
私がそうなっている彼の首元に注射器を射し込んで、中の液体をすべて彼に注ぎ込んだ。
その後で、針を抜いて…さっと針先を拭う。
「あ、もう大丈夫です。どうも……」
私が処置をしたのを見ていたレンが、手帳をしまいながらそう言うと、さっきまで威張り散らしてた男は、随分としおらしくなって頷いた。
レコードが…今後の彼の人生が様変わりしたのを見届けた私は、注射器の押し棒を引いて、中に液体を充填させる。
「20年前に親友を裏切って乗っ取った会社で良い夢は十分に見たんでしょうね」
私は注射器をケースに仕舞いながら言った。
「偏見だけど、昭和ならよくあった話じゃないの?色々と緩い時代だし」
レンも、レコードを見て彼の顛末を見ながらそう言った。
注射器を仕舞ったケースを上着のポケットに入れた私は、そのまま普段の定位置…レンの左隣に寄り添うように立つ。
彼も、何にも気にする素振りもなくレコードを閉じてポケットに仕舞うと、そのまま歩き出した。
ここは、建て替わる前の古い駅舎。
そろそろ、私達が見覚えのある形へ建て替えられる頃合いだ。
そんな場所の、夏の昼下がり。
日曜日の午後。
自宅で駄弁っていたらレコードが違反者を通達してきたから、駅まで出てきて処置しただけのこと。
銃を片手に持たない処置は数か月ぶりだったが、私とレンは何も特筆することもないくらい順調に物事を終えて…
「さーて…暇になったな」
暇になった。
今は夏休みも、もう終盤。
私もレンも…別にやる必要もない夏休みの宿題を終えて…ふとドライブにでも行こうと言った傍からの処置だったから、出鼻を挫かれた気分になっていた。
2人で駅の外に出て…客待ちのタクシーの列の後ろ…一般の人がよく路駐している街路樹脇に止めてある車の元まで戻る。
黄色く背の低いランボルギーニは、ピカピカに磨き上げられた様子で佇んでいた。
普通だったら、20行くかどうかの子供が、こんな車を乗ってるのだから大注目を浴びそうなものだが…そこはレコードキーパー…周囲の人間は一切合切、この車と私達のことを認識しない。
「どっかいくか?」
「……近場で、オマカセ」
車まで来て、ようやく短く言葉を交わした私達は、車に乗り込む。
派手なエンジン音が背後から鳴り響き、ギアが入って車がゆっくりと動き出す。
駅前の赤信号で車を止めたレンは、何かを思いついた顔をして私を見た。
「何?」
「峠まで出るか」
「ああ……いいかも、それ」
「たしか…ダムまで行こうにも、この時代って道違うよな?」
「確かね…部長がそう言ってた」
私はそう言って首を縦に振る。
レンは小さく口元を笑わせると、ニュートラルに入っていたギアを1速にいれる。
信号が青になって、車はゆっくりと動き出した。
街を抜けて、国道から脇道にそれる。
もう半年以上も前…レンの初めての大仕事の時に駆け抜けた峠道を上がっていった。
「ここは変わらねぇのな」
「この先…確か…右に直角に折れるでしょ?平成だと。それが、今は左に直角みたい」
レンがボソッと言った言葉に、私は地図を見ながら言った。
車に積んである分厚い本だ。
あの時と変わらぬ道を駆け抜けて行き、私が言うように、平成の時代には右に折れる道は、左に折れていた。
タイミングよくギアを落としていき、ちゃんと減速してから左に曲がる。
再び車は加速して、登り坂が続く道を上がっていった。
「この先にポツリと茶屋みたいなのがあって…その先はダムの裏手側に出るみたい」
「昼食う前に違反者出たんだし、なんか食うか」
「そうだね。そうしよう」
車は快調に進んでいき、カーブを曲がるたびに背後の巨大なエンジンが唸りを上げる。
何度も右に左にカーブして…いくつかの短いトンネルを超え…眼下を見るのが怖いくらい高い場所に架けられた橋を越えて…そして、かなり高い所まで来たところで、少し大きめの建物が見えてきた。
今日の目的地だ。
レンは車を減速させてウィンカーを右に出すと、駐車場に入っていく。
「……フェラーリだ。珍しい」
レンはそう言って、入り口から一番遠いところに置かれた赤い車の隣に車を止めた。
今日はまだ夏休み…それも日曜日とあって、そこそこ駐車場は込み合っている様子だった。
「フェラーリ?」
「ああ、この前さ、榎田さんが言ってたやつだ。512BB」
エンジンを切って、静かになった車内。
私はレン越しに見える、赤く背の低い車をじっと見つめた。
「榎田さん……ああ、ってことはこれ、カレンのかもね」
そう言って、ドアを開けて外に出る。
「まさか…と思いたいけど、北海道でこんな車乗ってんのはそういないだろうしなぁ…」
レンはそう言って、少しだけ苦笑いを浮かべて赤い車を見下ろす。
そのまま私の横に来ると、建物の方を指さした。
「ま、行こうぜ。カレンさんだとしても、レコードキーパーの方じゃないはずさ」
「ええ…親戚ってわけでもないし、近くにいても意識しなければ問題ない」
広い駐車場を歩いて、建物の入り口までやってきた。
木でできた…足腰の悪い人のことなどまるで考えてなさそうな、幅の大きな階段を上って…これまた大きな自動ドアをくぐる。
中は木の香りと…カレーやラーメンなどの香りが混ざっていた。
「へぇ……ここ、平成にはもうないんだよね」
「ああ…壊したって言ってたけど、勿体ないよな」
入ってすぐ、広いエントランスホールのような空間に来た私達は、そう言って周囲を見回す。
ホールの中央は、何かが飾れるように大きなターンテーブルが置かれていて…そこには私達の乗る車みたいな背の低くい車と…人がいないのに音楽を奏でている真っ赤なグランドピアノが鎮座していた。
「あれは?」
「さぁ?……分かんねーわ…」
「珍しい。レンが分からないだなんて」
「そんな時もあるってもんさ…ところであのピアノ…あれだよな、平成じゃ、別の方にできた店の…食堂前に置いてるやつ」
「そうだっけ…覚えてないな」
私とレンは会話しながらホールの奥まで歩いていく。
右側には…修学旅行とかで意味もなく買ってしまいそうなものが並ぶ売店…左には広々とした食堂くらいだ。
「人いる割に食堂空いてるね」
私はそう言って、レンの腕を引っ張る。
「ああ…まぁ、時間も時間だしな」
そういうレンと共に、食堂へと入っていった。
普段通り、レコードキーパーだから一切相手にされない私達は、適当に空いている席に座る。
店の一番奥。
大きく、分厚い窓の外にはダムが見えた。
「ほい、メニュー」
「ありがと」
レンが開いたメニューを見て、すぐに顔を上げる。
「俺は決まってる…って早いな」
「私も、店の前のショーケース見て決めてたの」
2人で、メニューをほぼ見ずに決め終えると、私は偶々近くにいたウェイトレスを呼び出した。
「はい…お決まりでしょうか?」
「ええ…天ざるそばのセット…おそばは冷たいので…」
「あと、ロースカツ定食で」
彼女は、私達が言ったメニューをササっと書き込むと、一礼をして立ち去っていった。
私は去っていくウェイターの後ろ姿をじっと見つめてから、レンに向き直った。
今のウェイターは茶髪のハミルカットで、眼鏡をかけた、長身細身のボーイッシュな女性。
ウェイターの制服の胸元には"広田 湊"の表記。
カレンで間違いなかった。
「カレンって、まるで男装の麗人だけど、化粧すれば女の子っぽくなるんだね」
そう言った私の言葉を聞いたレンは思わず吹き出す。
「まぁ、この前化粧とか面倒って言ってたからな。でも、OLとか言ってなかったっけ?」
「榎田さんだね。確かにそう言ってた」
私はそう言いながら、ポケットを探る。
普段は入っているレコードがない…地図と一緒に車の中に置きっぱなしだった。
「ま、帰って覚えてたら本人に聞いてみよう…」
私はポケットに入れた手を出してそう言った。
それから、少しの間駄弁っていると、カレンが料理を載せたワゴンを運んできた。
無愛想ながらも、丁寧な所作で料理が並べられ、彼女は一礼をして去っていく。
並べられた料理を見て、箸を取る。
出来立ての天ぷらを掴んで、塩だけつけて口に運んだ。
サクッとした音と共に、味が口に広がる。
私はほんの少しだけ目を細めて小さく頷いた。
「んー…来てよかった味」
「だな。カツも大当たり。高いだけあるな」
私もレンも、基本的に何を食べても美味しいとしか言わない…舌は肥えていないが…
それでも、ここの料理は美味しかった。
滅多にない、また来たいといえる美味しさ。
「高いって…幾らだっけ?」
「あー…忘れた。けど、そこらの食堂なんかよりも高かったはず」
「へぇ…ま、いいんだけどさ」
私はそう言いながら、蕎麦に手を付ける…
御膳のように並べられた料理は、思ったよりもあっという間に片づけられた。
「結構、量多かったのに、よく食えたな」
残った天ぷらの、最後の1つを口に入れた私は、少し驚いた様子のレンを見てコクリと頷いた。
少し噛んで、飲み込む。
ふーっと息を吐くと、小さく手を合わせた。
「なんかあっさり」
私はそう言って、お冷を一口飲む。
「その様子じゃ夜はいらないって言いだす感じだな」
「そうだね。これだけ食べたから…夜は軽くでいいかな」
そう言って立ち上がり、伝票を取った。
レンも私の後に立ち上がって、2人で会計まで歩いていった。
「少しは食えよ?成長しないぜ?」
「いいの。19歳までに8cm伸びるんだから」
私はそう言いながら、カードを取り出して会計の店員に渡す。
この時代にカードで済ませるのも不思議な気分になったが…すぐに支払いが済み、外に出てきた。
「じゃ、何もないなら帰るか?」
「そうしよう。家に戻って4時前くらいでしょう?」
広い駐車場を歩いて行って、背の低い、黄色い車の助手席に乗り込む。
「なんかようやく落ち着いたって感じだな」
「ええ…本来のレコードキーパーって感じ。偶にレコード違反に注射器を打つだけ…それでいいの。本当は」
そう言って、シートベルトを締めて窓を開ける。
レンは、キーを差し込んで、何時ものようにクイッと捻った。
背後からエンジン音が鳴り響き、やがて車は動き出す。
駐車場を出て、速度が落ち着いた頃。
ふと、ギアレバーを握ったままのレンの右手の上に、そっと左手を置いてみる。
「?」
不思議そうな顔をしたレンを見て、私は小さく笑って見せる。
そんな私の表情が見えたのか、レンは一瞬肩を竦めると、小さく笑った。




