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ゴッドチャイルド  作者: 桂木直
第三部 運命の子
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第四章 芽生えたもの 5

 ユーシスは咄嗟に走り出していた。

 どうして走るのか、走ってどこに向かうのかは、まだ考えていない。考えなければ、というところまで至らなかった。とにかく今はこの場――モレナのそば――を離れたいとの願望に、従う事が先決だった。ただ逃げたかったのだ。本能的に察した危険がつき動かすままに。

 モレナの手を振りはらって窓際から離れたユーシスは、モレナに背を向ける。駆け出した先にある扉を、乱暴に開いた。

 廊下に飛び出すと、左右に続く通路と、いくつかの扉が目に付く。それが自分の世界のすべてだと気付いた時、ユーシスは愕然とした。

 一体どこに逃げられるというのだろう。屋敷の外に出る事すら恐れている自分が。

 ユーシスは廊下の中心に立ちつくし、呼吸をいくつか繰り返す間、こみ上げる絶望に震えた。しかし、その間にも恐怖は少しずつ近付いてきているのだと思い出すと、震える拳で震える膝を叩き付け、なんとか勇気を奮い起こし、再度走り出した。

 表の入り口はモレナのほうが近い。ならば、勝手口か、どこかの部屋の窓から出るしかないだろう――いくつかの選択肢を並べたユーシスは、一瞬だけ思考し、勝手口を選んだ。床を蹴り、食堂に入ると、長い事モレナの場所となっていた台所に駆け寄り、その向こうにある扉に飛びつく。

 開こうとした瞬間、扉は外側から突き破られた。突然の事に悲鳴を上げる事もできないまま、ユーシスは身を引いた。勢い余って戸棚の角に背をぶつけ、咳き込む。

 扉を蹴破って現れたものは、黒光りする長い毛並みを持つ魔物だった。低く唸る様子や、鋭い歯の隙間から涎をたら酢様は獰猛に見えたが、体はユーシスよりもいくらか小さいかった。

 大抵の魔物は人を軽く凌駕するほど大きいのだと、いつだったかアストが言っていた事を思いだす。それから、ただの動物に魔獣が放つ魔の気が宿り、魔物になる事もあるのだと。ならば、今ユーシスの目の前にいる魔物は、野犬の類が最近になって魔物化したものと考えるべきなのだろう。

 なんにせよ、この出口が使えなくなったのは明らかだった。魔物は大小に係わらず、ユーシスのようなひ弱な子供が太刀打ちできる相手ではない。早急に別の逃げ道を探さなければ――新たな危機が迫り、恐怖に恐怖が重なる事で、ユーシスの思考は不思議と落ち着きはじめていた。

 魔物を警戒しながら、魔物とは反対側にある脱出口である、食堂の入り口に目を配る。走り出そうとした瞬間、入り口に人影が現れた。

 もちろんモレナだった。ユーシスは落胆しながらも、魔物とモレナ、どちらのほうが突破しやすいか、考えなければならなかった。見た目の印象から心は勝手にモレナを選んだが、モレナの言が正しいならば、今の彼女は魔獣の力を得て魔物と化しているはずである。ただの老女だと侮っては、痛い目を見るだけだろう。

 どちらにしても、素手でどうにかできる相手ではない。ユーシスは身近にあるものから、自身の身を守れるものを、素早く探りあてなければならなかった。

 この点においてのみ言えば、台所に逃げ込んだ事は正しかったのだろう。一応は刃物である包丁を容易に見つけたユーシスは、刃を構えて魔物へ向ける。

「近寄るな」

 ユーシスは精一杯睨み付け、精一杯の低い声で、魔物に対して言い捨てる。すると、魔物の唸り声が静まった。

 少しだけ緊張が解れると、ユーシスは肩を上下させながら、ゆっくりと呼吸をする。短い距離だが全力疾走したために、息は激しく乱れていた。

「さすがです。ユーシス様」

 乾いた拍手が小さな食堂内に響き渡ると、ユーシスはモレナをきつく睨む。

 入り口近くの壁にもたれかかり、唇の端を吊り上げて笑う彼女の姿は、妖艶な悪女にも見え、どこからどう見ても気のいい、気品に満ちた老婆であったいつもの彼女とは、明らかに違っていた。

「小さきものとは言え、魔物を従える事が可能とは。現状でこれならば、真に目覚めた時には、どれほどの力を」

「なっ……何を言ってるんだ。こいつは、刃物に怯えているだけだろう」

 乾いた声で怒鳴り付けると、モレナはまず無言で笑い、静かに否定した。

「まさか。いかに弱き魔物でも、貴方のように戦いを知らない少年を恐れる事はありません。たとえ貴方が、そうして武器を手にしていたとしてもです。本気で貴方を喰らうつもりがあるならば、今すぐにでも飛びかかり、貴方の腕を、足を、喉笛を、食い千切る事ができるのですから」

 モレナの言う通りだった。ユーシスはただでさえひ弱な上、今日は少し熱があって動きが鈍い。戦いになれば、包丁を振るう間もなく、簡単に負けてしまうだろう。たとえ相手の魔物が、ただの凶暴な犬程度の力しか持ってなかったとしても。

 しかしユーシスは、どうしても、モレナの言葉を認めるわけにはいかなかった。

「妙な事を言うな」

「何が妙なのです? 貴方がユベール様とレイシェル様の間に産まれた事は、誰もが認める真実。それ自体は、貴方自身も受け入れているのでしょう?」

「そうだ。僕は母上の子だ。そして父上の子でもある。けれど、ただの人間だ。エイドルードの、神の、誕生の祝福を受けた――」

「忌々しい」

 モレナは吐き捨てるように言った。いつもの彼女が見せる、目じりに深い皺をいくつも刻んだ穏やかな眼差しはどこにもなく、強い眼差しには憎悪が秘められていた。

「エイドルードの子めが。やつが余計な事をしなければ、ユーシス様も私も、もっと早く目覚める事ができただろうに」

 心臓に走る冷たい痛み。

 呼吸するたび、氷でできた鋭い針に刺されるような気がして、ユーシスは息を止めてみたが、何も変わらなかった。ならばこの痛みに耐えるしかないのだと、胸元を押さえてみたが、痛みは緩和されない。

 もどかしさのあまり、自身の胸倉を掴むユーシスの瞳に、迷いが浮かぶ。

 知っていたのだろうか。神の御子と呼ばれる男は。知っていて、魔物の子の誕生を祝福したのだろうか。ユーシスはただの人だと世間に嘘を吐いて。魔物として目覚める日が来ないように願いながら。

 もし、もしも、本当に、そうなのだとすれば。

「馬鹿な人だな……」

 ユーシスは素直な感想を口にしていた。ごく稀にアストと共に現れる、アストの父親を思い出しながら。

「ええ、本当に、愚かな者たち。ユーシス様の中に眠る魔物の因子に気付かぬまま、今日まで守り続けていたなんて。気付いていたとすればもっと愚か。エイドルードの後継者や、人が生きるための大地を守りたければ、早急に始末するべきだったでしょうに」

 概ね言う通りだと思ったので、ユーシスは肯き、モレナの言葉を受け入れた。

 だが、受け入れられない点がひとつだけある。愚かだと言い捨てたモレナの心だ。馬鹿だと呟いた自分の心とは、対極にあるとユーシスは思う。

 かつてのユーシスならば違っただろう。モレナと同じ意味で馬鹿だと言い、早く殺しておけばよかったのにと、虚しい言葉を吐いただろう。

 だが、今は。

 ユーシスは包丁を握りしめる両手に力を込める。律儀にユーシスの意志に従い、近寄る様子を見せない魔物を無視すると、手にした刃をモレナに向けた。

 窓の向こうで素振りをしていたアストの姿を思い出す。彼が振るっていたものは、ユーシスが今手にしているものとは用途からして違うものだったが、他に見習うべき者を思い出せなかった。

「お願いだ。僕に……」

 掠れた、しかし力強い声で、ユーシスは語りかける。この場にはいないが、記憶の糸を手繰るだけで充分に頼もしい、友に向けて。

「戦う勇気を」

 以前の自分が何を考え、どう生きていたか、ユーシスははっきりと覚えている。自分はただのひ弱な人間だと信じ、同時に魔物の子として処分された方が楽だとも信じていた。

 だが、ユーシスは変わっていた。モレナの言う通り、自分の中に魔物の部分があるのだとしても、その部分を今までのように眠らせ続けたいと願っていた。たとえ、この脆弱な体で戦う事になっても。

 自分が魔物になる事によって、いくらかの優しい人たちと、多くの他人を傷付けるというのも、理由の一部だ。だが、ユーシスを突き動かす大部分は、自身の願望だった。ただの人のふりをして生きていきたいとい言う、浅ましい望み。

 いつの間にか、滑稽なほど貪欲になっているた自分自身に、ユーシスは驚かなかった。原因は判りきっていて、驚く必要などなかったのだ。

「力を貸して」

 たったひとりの世界に、乱暴に踏み込んできた人がいる。真っ暗な世界に、光を差し込んできた人が。

 当時の彼はそれを意図してやったわけではなかっただろうし、当時のユーシスにとってはすべてが望ましい事ではなかったけれど――今なら胸を張って、陳腐な言葉を口にできる。「あの出会いは、僕にとって最も幸福な運命だった」と。

 そうだよ、アスト。

 僕は、君に出会ったから、変わる事ができたんだ。

「アスト――」

 友の名を呼び、ユーシスは床を強く蹴る。両手で握りしめた包丁を振り上げ、ユーシスにできる限りの素早い足取りで、モレナの元へ駆け寄った。

 よく砥がれた刃が、橙色の光を反射して輝く。

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