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何の変哲もない昼下がりだった。
普段通りの時間に起き、日課の自己鍛錬をこなし、規定の時間に運ばれてくる食事を終えた後は、昨日の続きの範囲から歴史書を講師に勉学に励む。
代わり映えのしない毎日。五つ違いの異母兄も、三つ違いの異母姉も、最近はすっかり訪ねてくることもなくなって、孤独を唯一の友とした幼少期に戻ったみたいだと喉の奥で笑う。二人してあれだけ嫌がっていた婚約の話でも上手くいったのだろうか。それなら祝ってやらなくちゃな、と寂しさに蓋をして、フォレス――ルッツ・フォレス=エルヴァンシエルが再び本に視線を落とした時だった。
「フォレス。私だ、ロムルスだ。少しいいか」
「ソミュアよ。私もいるわ」
見計らったかのように、扉が叩かれた。
エルヴァンシエル王国。
北スフィアに位置するノーザリア大陸の三割ほどを領土とし、約二千年ものあいだ直系のみで血を繋いできた世界最古の歴史を誇る絶対君主国家である。その興りには、一大宗教であるエリシアール教の誕生にも密接に関わっているため、両者間で軍事や教育、医療など全てを連携した宗教国家としての面も持ち合わせている。国土は小さいながらエリシアール教の絶対的な後ろ盾もあり、女神の御言葉の代行者として、現代に至るまで常に世界を導く神聖不可侵の地と定められている。
現当主のカタリナ・ランドルト=エルヴァンシエルは、ニ十年前の貿易都市シエル=ザヴァールにおける貧富格差是正改革を始めとした搾取構造に風穴を開ける政策の数々で『貧民の父』の名で民に愛されている。次期王位継承者と呼び声高い第一王子メリル・ロムルス=エルヴァンシエルも、執務補佐官として国の統治に携わるなかで既にその手腕は父王を凌ぐとの噂が絶えず、エルヴァンシエルは、ひいてはルデルミーユは今世も安泰が約束されていると誰もが信じて疑っていない。
そう、言われていたはずだ。
「……何か、あったのか?」
とりあえずメイド達の目につかぬよう挨拶も手短に自室に招き入れ、めっきり棚の肥やしになっていた来客用(とは名ばかりの実質兄姉専用)のティーカップに、最近のお気に入りである発酵茶を注ぎそれぞれの前に供すると、フォレスはさっそく話を切り出した。
普段優しげな微笑みをたたえるその顔が、沈痛な色に染まる兄姉に、嫌な予感が胸をかすめる。
「そうだね。でもまずは、最近顔を出せなくて本当にすまなかった。寂しい思いをさせただろう」
しかし、最初に兄ロムルスの口から出たのは謝罪だった。その横で姉のソミュアも申し訳なさそうにごめんなさいと言葉をこぼした。
この二人の兄姉は、父ランドルトと第一夫人メリルの間に生まれた生粋のきょうだいだ。こうして並ぶとその表情がよく似ているのを再認識させられる。父譲りの金髪はフォレスと同じだが、奥方からの遺伝の菫の瞳と柔らかい目尻が印象的で、それが今は後悔の念に揺れている。
既に父の右腕として国政を補佐する兄と、国を離れられない父兄に代わり各地の慰問に奔走する姉。何もできない自分と違って、人類のあまねく安寧な生活のために身を捧げる敬愛する二人にそんな顔をさせていると思うと、むしろ自分が悪者のような気がして慌ててフォレスも口を挟んだ。
「謝るなよ。別に、元々兄さん達が忙しいのは理解してる……とうとう結婚したのかな、とは思ったけど」
言っておいて、最後のほうはかなり小さな声になっていた。これでは拗ねていると思われかねない。ただこの重い空気を吹き飛ばそうと、冗談のつもりだったのだ。二人にはもう十分すぎるほどの優しさをもらったから、会えなかった半年程度、どうってことないのだから。
一瞬時が止まり、兄のため息が響いた。それはフォレスに対してのものか、それとも、今から起こる事態に関してか。
「んもぅ!また貴方はそんなことを考えていたのね!」
勢いよくソミュアが立ち上がった。
清楚で、おしとやかな、慈愛の姫――国民からの賛辞をほしいままにする王女も、素顔はどこにでもいるような一人の女性(姉属性持ち)だった。
「この半年、不可抗力とは言え顔を見せなかったのは確かに私たちです。どんな文句だって受け止めます、フォレスにはそれだけの権利があります」
「いや、姉上、誤解」
「でも以前お兄様が伝えましたね、私たちの婚姻はお父様への切り札なのです。世継ぎを求める国民の声がそのままお父様への圧力になるのです」
「存じています、だから」
「それなのにフォレスは、私やお兄様があなたを見捨てたと思っていたのですね、私たちの絆はその程度だったのですね」
「あの、話を、ちょっと」
「ねぇお兄様、やっぱりフォレスを私たちから離してはおけないわ。こんなに卑屈な寂しがり屋ほおっておいてはダメよ」
「だから冗談なんだってば!あと姉上それはただの悪口です!」
止まないお説教に堪らずフォレスも声量を上げる。あまり騒ぐと監視のメイドが様子を見に来るから避けたい行為なのだが、一度走り出したソミュアを止める方法は自分にはこれしかないのをフォレスは理解していた。
「どちらも落ち着いたかい?ソミュアはすぐ熱くなるが、フォレスも言っていい冗談と悪い冗談があるからね」
そしてロムルスの締めの一声でようやく場は一応の収まりをみせた。
最中にもフォレスが横目で助けを求めた時は、聞いときなさいと言わんばかりに我関せずの姿勢でおいしそうにお茶を飲んでいたのだから敵わない。
すっかり冷めてしまったお茶で喉を潤す妹弟から話を引き継いで、ロムルスが語り出した。
――本当に、お前の顔を見られなかった今日まで、私たちは胸が裂けるような気持ちだった。この部屋で、ひとり過ごすお前を思うと、何もしてやれない自分が腹立たしかった。これまでも公務で月単位で会えなかった時はあったが、今回ほど間が空いたことはなかった。公務で忙しいだけなら、無理矢理理屈をこじつけて会うことも可能だったから。
――お前は一番に何かあったのかと問うたね。私とソミュアが揃って会いに来るときは、あまり楽しくない話題のことが多かったせいだ。ああ、これも反省しなければならない。きょうだいが集まることを素直に喜べないのは悲しいことだ。
――端的に言ってしまえば、この半年、世界は何事もなく回っていたよ。父上の施策は万全で、全て世はこともなし。まだまだ改善点は山積みだけどね。
――問題は、別にあるんだ。
菫の花が空を見上げるように。
ロムルスの瞳はフォレスを見据えた。
「お前に、伝えなければいけないことがある」
空を知らない青の瞳が、その色を識る時が近づいていた。