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観客のいない世界  作者: 亀


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第284章 知らない名前

その日の午前、主人公は診察を終えて病院を出た。


右手の回復は、少しずつ進んでいた。医師からは、動かせる範囲を広げてもよいが、痛みが強くなる動作は避けるように言われている。


以前なら、診察が終わればすぐに次の予定へ向かっていた。


今は、病院の前にあるベンチで少し休んでから、歩き始めた。


帰り道には、何度か通ったことのある商店街がある。


その入口で、彼は見覚えのない張り紙に気づいた。


小さな運送会社が、短期の補助作業員を募集していた。


荷物の仕分けと、配送先ごとの確認。勤務時間は午前中が中心で、経験は問わない。ただし、重量物の運搬を含むため、作業内容を確認してから応募するよう記されていた。


彼は、募集条件を最後まで読んだ。


右手が完全に回復していない以上、今すぐ応募する理由はない。


以前の自分なら、働けるかどうかを確かめるため、先に連絡していたかもしれない。


彼は、張り紙の写真を撮り、あとで仕事内容を確認することにした。


そのまま歩き続けると、商店街の奥で、数人の作業員が荷物を運び込んでいるのが見えた。


入口には、配送先ごとの荷物が並んでいた。


一人の作業員が、箱に貼られた伝票を確認し、別の作業員へ声をかけている。


「これ、届け先が変わっている。前の一覧と違うぞ」


もう一人が端末を確認した。


「更新された一覧では、こっちになってる」


「いつ変わったんだ?」


「今朝だと思う。変更時刻は残っているけど、誰が依頼したのかは、ここからじゃ分からない」


二人は、荷物をいったん脇へ移した。


作業を止めたままにするわけにはいかないが、届け先が確認できない状態で発送することもできない。


責任者らしい人物が呼ばれ、伝票と端末の情報を照合し始めた。


主人公は、その様子を少し離れた場所から見ていた。


自分が口を出す理由はない。


それでも、荷物の置き場所と作業員の動きを見ているうちに、問題がどこにあるのかは何となく分かった。


一覧が更新されたこと自体は、異常ではない。


問題は、現場の作業員が、変更された届け先を確認できる状態になっていないことだった。


彼は、近くにいた作業員に声をかけた。


「すみません。今の一覧は、現場の人も変更内容を確認できるんですか」


作業員は、少し驚いた顔をした。


「変更後の一覧は見られる。ただ、前の一覧と何が変わったのかは、別の画面を開かないと分からないんだ」


「変更の理由も、そこにありますか」


「理由は、依頼元に聞かないと分からない。こっちは、どこへ運ぶかが確認できれば作業できるんだけどな」


主人公は、うなずいた。


「届け先が変わったことは分かっても、現場で確認できる情報が足りないんですね」


「そういうこと。まあ、今は責任者が確認しているから、俺たちは待つしかない」


主人公は、それ以上質問しなかった。


自分が関わるべき仕事ではない。


それでも、伝票の変更が誰の判断で行われたのか分からないまま、現場だけが作業を進めることになる状況には、少し覚えがあった。


以前、彼自身も、情報が足りない状態で判断を求められたことがある。


そのときは、分からないことを無理に埋めようとせず、確認できる相手を探すしかなかった。


彼は、商店街を離れた。


帰宅してから、撮影した求人の写真を見直した。


仕事内容には、荷物の仕分けだけでなく、伝票の照合も含まれていた。重量物の運搬については、補助器具の使用が可能かどうか記載されていない。


彼は、応募先に確認する項目を簡単にまとめた。


勤務時間。


右手に負担がかかる作業の範囲。


補助器具を使えるかどうか。


それらを確認してから、応募するかどうかを決めるつもりだった。


夜になり、彼はいつもの相手にメッセージを送った。


『今日、仕事の募集を見つけた。まだ応募するかは決めていないけど、条件を確認してから考えるつもり』


相手から返事が届いた。


『いいと思う。条件を確認するのは、働きたくないからじゃなくて、続けられるかを判断するためだものね』


彼は、その文章を読んでから返信した。


『そう。今すぐ働けるかどうかだけじゃなくて、無理なく続けられるかも考えたい』


二人は、しばらく仕事の話を続けた。


彼女は、具体的な応募先を尋ねなかった。


彼も、彼女の仕事について尋ねなかった。


その後、彼は別の話題を送った。


『ところで、今日は商店街で少し変わったことがあった』


彼は、荷物の届け先が変更されていた現場のことを簡単に説明した。


相手は、すぐに返事をした。


『現場の人が変更の理由を確認できないと、結局、作業を止めるしかなくなるんだね』


『そうだと思う。変更そのものが悪いわけじゃない。必要な変更もある。でも、変更した人と、実際に動く人の間で情報が途切れると、現場は困る』


彼女は、その言葉を読んだ。


仕事で扱っている情報も、現場の人々が日々使っている情報も、形式は違っていても、実際に行動する人が判断できる状態でなければ意味がない。


彼女は、そう考えた。


ただ、相手が見た現場の事情を、自分の仕事にそのまま当てはめることはしなかった。


『誰が判断するかだけじゃなくて、判断するために何が必要かも大事なんだね』


彼は、短く返事を送った。


『うん。分からないことを、現場の人だけに考えさせても仕方ないから』


それから、二人は別の話をした。


翌朝、主人公は求人の問い合わせ先へ連絡した。


担当者は、現在の右手の状態を伝えたうえで仕事内容を確認したいという申し出を受け、面談の時間を提案した。


面談では、実際の作業を見たうえで、対応できる仕事があるかを相談することになった。


主人公は、日時を確認して電話を切った。


まだ採用が決まったわけではない。


働けるかどうかも、実際に仕事内容を確認してみなければ分からない。


それでも、条件を確かめるための一歩は進んだ。


彼は、次の予定を手帳に書き込み、右手の様子を確かめながら、いつもの訓練へ向かった。


知らない仕事の募集も、商店街で見かけた荷物の問題も、その日には解決していなかった。


ただ、自分にできることと、まだ確認が必要なことを分ける。


彼は、そのやり方を、少しずつ日常の中で使えるようになっていた。

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