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観客のいない世界  作者: 亀


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第143章 仕事の境界

三日後、男は再び市場の東側へ向かった。


昨日までの記録を見直した結果、荷車の流れには一定の変化があることが分かった。ただし、それが何かの組織によるものなのか、商人たちの都合によるものなのかは、まだ判断できない。


そこで、男は荷車そのものではなく、荷物を受け取る側を調べることにした。


運ぶ人間が変わっても、受け取る場所が同じなら、そこから流れをたどれる可能性がある。


反対に、受け取り先まで頻繁に変わっているなら、別の方法を考えなければならない。


男は通りの端に立ち、荷物を降ろす人間の動きを観察した。


最初の荷車は、金属部品を小さな工房へ運んでいた。


二台目は、布で覆われた荷物を倉庫へ運んだ。


三台目は途中で止まり、積み荷の一部を別の荷車へ移してから、元の道を戻っていった。


どれも、それだけなら不自然ではない。


男は記録を取りながら、共通点がないか探した。


やがて、一人の商人が荷車から降り、倉庫の入口で待っていた男と話し始めた。


二人は短く言葉を交わしたあと、倉庫の中へ入っていった。


男はすぐには追わなかった。


入口の近くには、ほかの荷物も置かれている。倉庫の出入りは一度きりではなく、複数の人間が別々の用事で訪れているようだった。


誰か一人を追いかけても、必要な情報が得られるとは限らない。


男はしばらく待ち、別の荷車が到着したところで、倉庫の入口から離れた。


そのとき、背後から声がした。


「ずいぶん熱心だな」


振り返ると、青年が立っていた。


「お前もか」


「今日は別の用事で来たんだ。何を調べている?」


「荷物の流れだ」


青年は、男の視線の先にある倉庫を見た。


「何か分かったか?」


「まだ何も。少なくとも、今の段階では、普通の商取引と区別できない」


「なら、普通の商取引ではないと判断できる条件は何だ?」


男は少し考えた。


「荷物の種類や量に対して、受け取り先が不自然に変わること。運ぶ人間が頻繁に入れ替わること。あるいは、受け取り側が荷物の内容を確認せず、別の場所へ移すこと」


「それがあれば、必ず何かあるのか?」


「いや。理由は別にあるかもしれない」


青年はうなずいた。


「なら、今はその条件を確かめる段階だな」


男は記録をしまった。


昨日から考えていたことが、少しずつ整理されていく。


何かを疑うことと、疑いを証拠に変えることは違う。


調査を進めるには、何が分かれば次の判断ができるのかを先に決めておく必要がある。


「お前は、これからどうする?」


青年が尋ねた。


「倉庫を直接調べるのは、今はやめておく。まずは数日、荷物の流れを記録する」


「慎重だな」


「一度中へ入ってしまえば、相手に顔を覚えられるかもしれない。それに、正当な理由もないのに他人の倉庫を調べるわけにはいかない」


青年は笑った。


「その判断は悪くないと思う」


「お前の評価は必要ない」


「そうか」


青年は気にした様子もなく、通りの反対側へ歩いていった。


男はその背中を見送り、再び調査に戻った。


⸻


同じ日の午後、再会した男は、所属する組織の事務所に呼び出されていた。


部屋には、上司と数人の担当者が集まっていた。


机の上には、今後の活動予定が並べられている。


「対象となる事業への参加は、来週からだ」


上司が説明した。


「お前には現地での活動を任せる。具体的な内容は、担当者から順次伝える」


「分かりました」


「なお、現地では独断で行動しないこと。与えられた役割を優先し、必要な報告は規定の手順で行うように」


男は書類に目を通した。


そこには、活動期間、使用できる資源、連絡方法などが記載されていた。


しかし、なぜ自分が選ばれたのか、計画全体が何を目指しているのかについては、詳しい説明がなかった。


「一つ質問してもいいですか」


「何だ?」


「今回の活動は、対象事業の何を変えることが目的なのでしょうか」


上司はすぐには答えなかった。


「競争上の優位を確保するためだ」


「具体的には?」


「現地で判断できることもある。すべてを事前に説明する必要はない」


男は口を閉じた。


その説明で納得したわけではない。


だが、組織がすべての情報を共有しないこと自体は、特別なことではなかった。


彼もまた、これまで自分の判断で動いてきた。組織に所属する以上、一定の制約を受けることは理解している。


ただし、知らされていないことが多いほど、自分の行動が何につながるのかを把握するのは難しくなる。


「分かりました」


男は書類を閉じた。


「任された範囲で行動します。ただ、現地で判断できないことがあれば、確認を求めます」


「それでいい」


会議はそのまま終わった。


部屋を出た男は、廊下で足を止めた。


手元の書類には、自分が行うべき仕事が書かれている。


だが、その仕事の先に何があるのかは、まだ見えない。


彼は書類をしまい、歩き出した。


今の自分には、力も仕事もある。


以前なら手が届かなかったことにも、挑戦できるようになった。


それでも、知らないことがなくなったわけではない。


むしろ、力と役割を得たことで、以前よりも多くの選択を迫られるようになっていた。


⸻


夕方、男は直人のもとへ戻った。


机の上では、直人が新しい記録用紙を用意していた。


「今日はどうだった?」


「倉庫の出入りを見てきた。今のところ、普通の商取引と区別できない」


「それでも続けるのか?」


「数日だけ記録する。その結果を見てから決める」


男は、今日確認した荷物の種類と移動先を整理した。


同じ場所へ運ばれる荷物。


途中で積み替えられた荷物。


受け取り先が確認できなかった荷物。


それぞれを分けて記録し、確かな情報と推測を混同しないようにした。


直人は記録を見ながら尋ねた。


「もし、何も分からなかったら?」


「調査を続ける理由があるかどうか、改めて考える」


「それでいいのか?」


「何も分からないことも、結果の一つだ。少なくとも、今の調べ方では判断できないと分かる」


直人はうなずいた。


男は記録を閉じた。


調査を始めると、何かを見つけなければならないような気持ちになることがある。


だが、何も見つからなかったからといって、必ずしも失敗とは限らない。


限られた時間と資源を、どこへ使うべきか。


それを判断するためにも、調査を終える条件を決めておく必要があった。


男は、明日の予定を紙に書き留めた。


明日は同じ倉庫を調べるのではなく、別の通りにある受け取り先を確認する。


そこで異なる結果が出れば、比較する材料が増える。


何も変わらなければ、荷物の流れそのものが問題ではない可能性もある。


すべてがつながるとは限らない。


それでも、一つずつ確かめていくしかなかった。

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