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第15話:路上生活者と残した向日葵

 ——日曜日午後一時。


 見慣れた街角の昼下がり。記念日だけの柔らかな喧騒が、太陽から溢れる日差しの中で陽炎のように揺れていた。


 目の前の楽しげな親子。首から小さな鞄を下げた女の子は、おぼつかない足取りで父親に手をひかれていた。

 幼気な手には、黄色い折り紙で作られたチューリップが握られ、混じりけのない微笑みを振りまいている。

 折り目はたどたどしかったが、彼女は精一杯の愛情を宿したその花を、父親の顔の前に差し出しながら得意げに笑ってみせた。


「きょうはパパの日だね。はい、あげる」

「はは、ありがとう。綺麗だね」

「がんばって作ったよ」


 すれ違う無垢な光景に、清水は張り詰めた心を緩めると同時に、その眩しさを受け止めきれず、音もなく視線を足元へ逸らした。


「……父の日か」


 そう小さく口にした言葉が、忘れていた幼き日の記憶を呼び起こす。


 母親に『なぜ父親が居ないのか』と問い詰めたことが何度かあった。そのたびに母は伏し目がちに言葉を濁していた。

 妹の美穂は、生まれた頃には父の影はなく、存在自体にどこか冷めていたような気がする。

 それは母親に対する気遣いだったのか、それとも母と娘にしかわからない何かがあったのか。

 ——ただ一つ言えることは、兄妹にとって、父親の笑顔とは“絵本”の中にしか存在しないもので、いつしか、その不在に触れることもなくなっていた。


 清水は遥か頭上の太陽と、並んで歩く親子の同じ長さに伸びた二つの影を背に、bar DESCEND(ディセンド)へと繋がる交差点で立ち尽くしていた。

 見上げた信号機は歩くことを促すように灯っていたが、清水は一歩も踏み出すことなく、ただ路地の先を見据えていた。


 *


 ——月曜日午後一時半


 定休日の合間にメモを携えて酒屋に向かった清水は、帰り道、偶然通りかかった公園の入り口で足が止まった。

 砂場には小さな足跡が無邪気に散らばり、手入れがなされた花壇には膝に満たない向日葵《ひまわり》が日の光を目指して息づいていた。

 子供たちの声が響く中、片隅にテントが立てられ、色褪せたテーブルが並べられている。

 内側では、商店街で惣菜屋を営む店主が、寸胴の鍋を目当てに並ぶ人混みを前に額に汗を滲ませていた。

 清水は、潰れた紙コップが浮かぶ黒ずんだ水たまりを避け、テントを目指して自然と足を向けていた。


「おつかれさまです」

「あ、清水さん」


 テーブルの上に、ラップに包まれた海苔のないおむすびと、香ばしい味噌の匂いを漂わせながら湯気が立つ豚汁が整然と並べられている。


「何か手伝うことはありますか」

「大丈夫。清水さんも食べていくかい」


「いや」と言いかけたが、清水の返事も聞かずに、店主は豚汁と割り箸を手渡してきた。

 頭を下げ、白いペンキの剥げかけたベンチに座ると、隣り合うベンチに腰掛ける年配の男が目に留まった。

 灰色の上着は色が抜け、袖口が擦り切れ綻んでいる。靴のかかとは皺が刻まれ、片方の紐だけ結ばれずに泥を引きずっていた。

 落ち窪んだ目をした男は、今日を凌ごうとする人波を虚ろな眼差しで眺めていたが、そこに交わる気配は感じられない。

 清水は、手にしていた湯気を揺らす発泡スチロールの器を、男の視界に合わせて声をかけた。


「よろしければ、いかがですか」


 年配の男は、清水の方を向く素振りもなく、ただ真っすぐに列を正して並ぶ人々の背中を見つめたまま無言を続けた。

 おぼつかない沈黙が続く中、男は突然、清水の方向に顔を向けると同時に、ビニール袋に入っていた四角いウィスキーの瓶を見定めて、おもむろに声を出した。


「兄さん、いいもの持ってるな」

「飲みますか?」

「ああ」


 清水は、炊き出しのテントから紙コップをもらい、ウィスキーの硬い封を開けて、温い飴色の液体を注いでいく。

 梅雨入りを予感させるような、生暖かく吹き抜けていく風に、甘いバニラの香りと木香が煽られてどこかへ流れていく。


「どうぞ」

「ありがとう」


 男はそう一言つぶやいて、紙コップを薄汚れた掌で支えながら常温から沸き立つウィスキーの匂いを確認し、ゆっくりと口に含んだ。

 不意に目に留まった男の手は、あかぎれのような赤い筋が、油の黒ずんだ汚れで赤茶けた色へと変わり、痩せた拳を覆っていた。


「並ばなくていいんですか?」

「腹が減ってない訳じゃないがな」


 男は沈黙を選ばざるを得ないように、それ以上語らず、少し歪に皺が寄った紙コップを再び口に近づけた。

 寸胴の底が透けはじめ、目的を遂げた人々が本来の場所へ各々散っていく光景に、男が視線を変えずに語りかけてきた。


「兄さん、家族は」

「いません」

「そうか。地元はここかい」

「そうです」

「ここもずいぶん、見ないうちに風景が変わった」

「はい」

「……」


 男は、公園の隅に置かれた、長い月日で錆びつき色を失った遊具で遊ぶ子供たちを見つめ、小さな喧騒へ重ねるように短くつぶやいた。

 ただ、最後の一言は子供たちの声に埋もれ、清水には聞き取れぬまま、男の口は噤まれていた。


 昼間の日差しが薄く傾きだしたころ、年配の男は公園脇の道の細さを確かめるように、再び語りだした。


「俺も昔、この近くに住んでいたんだ。三十年も前の話だけどな」


 清水は風に乗る湿気で霞むその独白を、声の響きと頬の震えを重ねるように、男の横顔には視線を向けず、黙って聞き続けた。


「昨日、昔に住んでいた場所に行ってみたが、俺の知っている風景とは違った。時間って言うのは残酷だよ」


 男はそう言うと、手垢が滲む紙コップに口をつけたが、咳き込むような苦みと一緒に生唾を飲み込んだように、渋い顔を一瞬だけ浮かべた。

 震えていたのか、カップを脇に置こうとした瞬間、手から滑り落ち、ウィスキーが太ももとベンチに沁み込んでいく。

 男は、胸ポケットから紙切れを取り出して、零れた液体を無造作に拭き取った。

 不意に清水の目に留まった紙切れには、「区役所 支援窓口の案内」と書かれていたが、雨や汗でふやけたのか文字が滲んでいる。

 男は躊躇することなく、飴色に染まった紙切れを畳み直し、再び胸ポケットに押し込んだ。


 視線の上の空はまだ青かったが、時折吹く風の中の砂ぼこりが、空の色を覆うように舞い上がっていた。

 清水は、男が置いた黒く汚れ、皺が寄った紙コップに、再度、ウィスキーを注ぐ。

 流れ落ちる液体は、一本の線にならずに空白を刻みながら滴り落ち、白かったコップを満たしていく。


 *


 ——十四年前のある夜


 駅裏の細い通りには、少しばかり雨の匂いが残っていた。

 暖簾を下ろした居酒屋の赤提灯が、黒く濡れたアスファルトに歪んだ赤色を滲ませていた。

 信雄《のぶお》は、工具袋を肩にかけたまま、前方から歩いてくる男に鋭く尖らせた視線を向けていた。

 目線の先の男は、昔より腹を突き出し、髪には白い筋がいくつも混じっていたが、緩んだ口元だけは変わっていなかった。


「……信雄さん?」


 その声に懐かしんだ響きはなく、面倒なものに見つかった時のくすんだ声色だけが届いた。


「お前のおかげで、全てを失ったよ」

「まだ……そんなこと……言ってるんですか……」


 男は、最初だけ困惑した表情を露わにしたが、すぐに卑屈な笑みを作り、緩めた目線をこちらに向けたまま歩きだした。

 信雄は男の腕を無意識に掴んだが、強く振り払われた勢いで、道具袋から赤く錆びたドライバーと刃のこぼれた小刀が転がった。


 店先で点滅する卑猥な電飾看板の眩しさに視線を落とすと、泥にまみれた自分の靴紐と、苦痛と笑みを同時に浮かべ青く染まった男の顔が目に留まった。

 そして男の傍らには、分厚く膨れ上がった見慣れない財布が転がっていた。信雄は財布を拾い上げ、急ぐでもなくゆっくりと歩き出す。

 背中から聞こえてきたのは、呼び止める悲鳴と遠くから響く擦れたサイレンの音だった。

 ざわつく通りに並ぶ居酒屋の提灯が、倒れ込んだ男の白いシャツを赤く染めるように照らしていた。


 *


 清水が不意に俯くと、年配の男は泥にまみれた右足の靴紐を直そうと手を伸ばしていた。ただ、紐は擦り切れて短く、どうやっても結び目が作れない。

 何度か指先を動かしたあと、諦めたように短くため息をつき、結ぶのをやめて、靴の中に紐の端をただ押し込んだ。


「戻るには——時間が経ちすぎた」

「行かなくていいんですか」

「勝手に出ていった男を待つ奴なんていないさ。ムショ出なんて——厄介者でしかない」


 静かにそう語る男の作業パンツは膝が抜け、小さく空いた穴から覗いていたのは、瘡蓋が剥がれ、黒ずんだ古い傷跡だった。

 清水が上げた視線の先に、西日で影を伸ばす向日葵が均等に植えられていた。その中に、数本だけ背丈の違う向日葵が力なく首をもたげ、微かに震えていた。


 どことなく声が聞こえてきた方向に視線を移すと、髪を整え、背筋が立つ背広を着た青年が公園の入り口に立ち、誰かに声を上げている。


「信雄さーん、清水信雄さーん」


 年配の男は、その青年の方に手を挙げながら立ち上がり、眉間の皺を緩め、清水の方に向けて口を開く。


「ありがとうな兄さん」

「あの、これ、いりませんか?」


 清水がそう言いながら、半分まで減った黄色いラベルの角瓶を差し出した。

 男は、「ありがとう」と言いながら、まるで壊れ物を扱うように両手でしっかりとその瓶を受け取り、そのまま背を向けて、右足を引きずるように去っていった。

 男が立ち去ったベンチからは、作業靴の底の跡が左だけ綺麗に砂地に残って連なっていた。

 清水は、固まった白い油が浮かぶ豚汁をそのまま飲み込み、空になった器を片手に立ち上がる。


 片付けられたテントに近寄ると、炊き出しを終え、空になった寸胴の縁を布で拭く惣菜屋の店主が座っていた。


「清水さん、酒、渡してた人、知り合い?」

「いいえ、ここで会ったばかりです」

「……あんまり人前で渡さない方が。誰が見てるかわからないし、この界隈は揉め事多いからさ」


 惣菜屋の店主はそこまで言って、少し顔をしかめながら、濡れた布巾を畳み直し、湯気が消えた鍋の底を拭いていた。

 清水は何も返さず、頭を下げ、年配の男の足跡が残る道とは逆の方へと歩き出していく。


 風が真っすぐ通り抜ける商店街を進むと、人影のない花屋にひっそりと明かりが灯されていた。

 店先の片隅に、黄色いチューリップや小さな向日葵が並び、油性マジックで“半額”と書かれた札が立てられていた。

 清水は向日葵を一本抜き取り、レジに向かおうとしたが、一歩だけ足を進めた後、立ち止まり、もとの場所に戻す。


 アーケードの端にたどり着いた頃には、斑に濁った空から温い雨が落ち始め、アスファルトに冷たい染みを滲ませていた。

 足早に駆け込んだ路地の奥。暗がりの中、ドアを開けていつもの場所に立つ清水。

 同じころ、商店街の奥では色のない雨粒が向日葵の葉を静かに伝っていた。


 bar DESCEND(ディセンド)の夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。


 ──Tonight’s Tune: Wayne Shorter / Footprints

この物語はフィクションです。

登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、

現実のものとは一切関係ありません。

実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を

批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。



筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)

音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。

貴方の誰にも言えない「沈めたい」思いをそっと教えてください。


noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレシピなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。

https://note.com/owari_ebinaga


短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト

■Spotify

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■Youtube

https://music.youtube.com/playlist?list=PLG61IYnktsjSGSkIzavao5ncwhen83mr9&si=kdO9a4mBjSJXfm_k


【著作権に関する注意事項】

本作品『bar DESCEND』の著作権は、著者(えびなが おわり)に帰属します。

本文・画像・あらすじ等を含め、無断での転載、複製、改変、朗読、再配布、および生成AIの学習データとしての利用を固く禁じます。

著作権法上の「引用」の範囲を超える無断使用が発覚した場合、法的措置を検討する場合がございます。


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©蛯永終 ©Owari Ebinaga

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