第86話 悪役貴族、はじめての死闘 ②
短い剣戟の最中、ブリジットは決して振り返らなかった。振り返ってしまえば足が止まる。心の悲鳴を無視して、ひたすらセーフゾーンを目指した。
エリシアは抱えられたまま、必死に後ろを見ようとする。
視界の端に、床に倒れるリサの血。緋々色の甲冑の赤。そして、エリマルくんを構えるマルスの背中。それらを、セーフゾーンの扉が隠した。
扉が閉まる音を背中越しに聞き、マルスは胸を撫で下ろす。
フォローカムが高速で旋回する。視聴者のコメントが爆発した。
《やっべぇっ! なんだよこいつ!》
《バリかっこええやん! 強いし!》
《騎士のモンスターとか見たことないよね? 本当にモンスターなの?》
《マルス様! そんな小汚いナイトなんて、ぱっぱとやっつけちゃってくださいまし!》
リスナーは暢気なものだ。安全なところから野次を飛ばす連中に、珍しく苛立ちが湧く。
マルスはコメント読み上げを聞き流しつつ、リサの位置を一瞥する。
「リサ! 動けるか!」
薄い唇が震えた。声は出ない。琥珀色の目がわずかに動き、マルスを見た。
まだ意識はある。だが出血が多い。処置を施さなけばじきに失血死する。
(ブリジットがハイポーションを持ってたよな。今はとにかく、時間を稼ぐ)
エリシアをセーフゾーンに送ったら、すぐ戻ってくるはずだ。
「こいよ! お前の相手は俺だッ!」
緋々色の騎士は、返答の代わりに大剣を持ち上げた。
発する闘気が、広大な空間を震わせる。
巨大なだけの機械系モンスターとは比べ物にならない圧倒的存在感。底知れぬ覇気。
既に切っ先を喉元に突き立てられているような錯覚さえ覚える。
(こいつ、攻撃の予備動作が薄いんだよな)
ゲームでもそうだった。見てから対応するのは不可能に近い。だからこそ『鍔競り』や『ジャストガード』のフレームを理解してないと、何もできずに死ぬ。
(いつ動く? そろそろか? まだか……?)
マルスの額に脂汗が浮く。
その時、面頬の暗闇がゆっくりとリサへ傾いた。
緋々色の騎士が一歩踏み込む。
その一歩が、常識を踏み潰していた。床を滑るような加速。重い鎧が風を切る音が遅れて届く。
その軌道は、マルスではない。リサへ向かっていた。
「おいおいッ!」
ここでリサを狙うのは予想外だ。
『聖愛のレガリア』の敵AIは、常に脅威度の高い者を狙うようプログラムされている。この状況なら、標的はマルスになるはずだった。
(死んでもらっちゃ困る! リサはメインキャラクターだぞ!)
もしここでリサが退場すれば、この世界の未来に大きな影響を及ぼしかねない。いくら推しキャラでなくても、永久離脱だけは阻止すべきだ。
マルスは咄嗟にエリマルくんを投擲。だが、兜に直撃したそれを、騎士は意にも介さない。
「待てッ!」
叫びも虚しく、騎士は瀕死のリサに大剣を振り下ろす。
今のリサには避ける余力がない。抵抗しらできずに首を斬り落とされ、無残な骸を晒すだけ。
死は目前。
マルスは必死に足を動かすが、妨害の手は届きそうもなかった。
(まじかよッ。間に合わ――)
その時だった。
マルスの耳に触れたのは、軽やかな鈴の声。
そして、鳴り響く金属音。
「すまぬ。待たせた」
舞い踊る黒髪。
騎士の一撃を止めたのは、剣を抜いたブリジットであった。




