19話 話をして
なかなか寝付けなかったジルは、昼前にようやく目を覚ました。
診察を終え、お腹は空いていないか、欲しいものはないか、様々なことを尋ねてくる彼等から離れて、今は自室で休んでいる。たった一週間しか経っていないというのに、チリ一つ溜まっていない自室がひどく懐かしい。
フェルツたちに何があったのか事あるごとに尋ねられたが、ジルは口を割かないでいた。
もちろん、部屋で見た光景は今でも鮮明に焼きついて離れない。しかし、ベルトルトたちと過ごした時間が、すべて嘘だったとは思えなかったのだ。
彼に助けられたこと、ソフィアを筆頭とした使用人たちに温かく迎えられたこと、普通で明るい町の人々、ありがとうと言われたこと。どれもが、ジルの胸に温かいものを残している。
また、ベルトルトがジルを助けた理由も、選んだ理由も聞けていない。
自分を殺さずに、そう言い残して森に帰した理由も。
「ベルトルトだったのね」
持ち帰ってしまった日記帳を、鍵をかけた棚の中から取り出す。見つからないように、念のために隠しておいたのだ。
日記帳の表紙には、消えかかった拙い文字でベロールと書かれていた。
忘れてしまっていた、初恋の人の名前である。
◆◆◆
ジルの両親は、困っている人を放っておけない、いわゆる大のお人好しであった。温かくて、優しくて、明るい。そんな二人のことが大好きだった。おかげで、ジルはのびのびと育っていっていた。
ある日のこと。母とお花摘みに出かけていたジルは、帰り際、傷だらけで道に倒れていた少年を見つけた。野犬に襲われてしまったらしく、彼はボロボロで、立ち上がることすら困難であった。
それが、ベロールことベルトルトである。
人を疑うことを知らなかったジルは、優しい母と共に彼を連れて帰った。父もまた、よくなるまでずっといてもいいと彼を歓迎した。家がないのなら、ずっとここにいてもいいとまで言って。
いい遊び相手が家にできたことが嬉しかったジルは、ベロールにひたすら話しかけた。お気に入りのおもちゃを見せ、花を渡し、本を読み聞かせ、毎日のように遊んでいた。
しかし、彼は歩けるようにはなったが、すぐに倒れてしまうほど弱っていた。
そして、息も凍るような寒い日のこと。
洗濯ものを取り入れに行った母の帰りが遅くて、ジルは外へ出て行った。そして、見てしまったのだ。
先に出て行ったベロールが、倒れている母の首に噛み付いているところを。
目が覚めるほど真っ白な雪が、母を飲み込む勢いで赤く染まっていく姿を目にしたジルは、足がすくんでただ震えることしかできなかった。目も逸らせず、固まった肺を一生懸命に動かそうとして、かえって呼吸困難にもなった。
ここに来てようやく気付いたのか、ベロールはジルへと振り向き、そして、走り去っていった。
豪雪のせいで、周りに人はいなかった。父が仕事から帰ってきた時には、ジルは熱を出して倒れていたらしい。母も事切れていた。
後から聞いた話だったが、検死によると、ジルが駆けつけた時には死の直前だったようだ。
父はちょっとした富豪だった。そのため、母の葬式は小さな村にしては大々的に執り行われることとなった。経営を学ぶために村の外へ出ていたペーターも、戻ってきて泣いていた。泣かない者などいなかった。それほどまでに、母はみんなの太陽だったのだ。
枯れ木のようにしわがれた母の姿は、今でも覚えている。全身が雪のように白く、まるで幽霊を眺めているような気分だった。
以来、ジルは彼を見つけたことを後悔していた。裏切られたショックも大きく、自室に何日も引きこもった。
父も同じで、二人して明かりの灯らない家に村人たちに心配されたものだ。
落ち込み具合は父の方がひどく、ジルが流石に心配し始めた頃、彼は対ヴァパイア組織を立ち上げると宣言したのだった。
父の性格は厳格なものへと変化した。かつて吸血鬼と人間の共存を説いていた友人とも手を切り、代わりに、各地域の対吸血鬼組織の長たちと交流するようになった。
趣味の読書をやめ、本棚にはいつしか銃が並ぶようになった。十字架、木の杭、ニンニク。各部屋の隅に配置された花瓶には、花の代わりに聖水がたっぷりと注ぎ込まれた。
もともと、人を治める能力はあった父のことだ。組織のメンバーはみるみるうちに増えていった。気付けばジルのことを『嬢』とつけて呼ぶ者まで現れるように。
それからというもの、成長したジルは武器を取り、彼等に混ざって鍛錬を重ねる日々を送り始めた。
芽生えた悲しみと絶望は、敵意と憎しみへ変わり、銃弾を的に撃ち込む度に増えていく。
(そんな私が吸血鬼の花嫁になりかけていたなんて……笑えるわね)
ジルは窓際に腰掛け、ため息混じりに苦笑した。
窓の外では、武装した仲間達が忙しなく動いている。
『もう来ないでくれ。結婚のことも忘れてほしい』
ふと、彼が言い残した言葉が思い起こされた。
勝手な話である。吸血鬼に襲われて、森の奥へ突き進んでいたのはジルの判断によるものだ。
しかし、そんな自分を助けたのも、勝手に連れ去り結婚するなどと言い出したのも、すべてベルトルトである。
命が惜しければ静かにしろだの、部屋に入れば殺すだの。初日にさんざん脅しておきながら、こうもあっさりと引き離すとは。
思い出しているうちに、ジルの中にふつふつと怒りが湧き上がってきた。
対吸血鬼組織の長の娘なだけあって、ただ悲しみに打ちひしがれて終わるような人間ではないのである。
彼から、肝心なことを何一つ聞けていない。
このまま終わってなるものか。
(そのためには……)
年月の割には保存状態のいい日記帳へと視線を落とす。
その時、誰かが扉をノックした。慌てて枕の下へ日記帳を隠す。
「誰?」
「僕だよ、ジル」
扉越しに聞こえてきたのは、控えめなペーターの声だった。ジルは、何故か気落ちしたことに首を傾げつつ、扉の鍵を開ける。
「調子はどうだい? って、そんなすぐ落ち着けるはずないよね」
彼は人のよさそうに笑って、頭をかいた。
「でも、心配だったんだ。また引きこもってしまいそうに見えたから……」
「心配してくれてありがとう。でも、流石に何日も引きこもることはないとうわ」
「少しは引きこもるつもりだったんだね」
ジルは言葉を詰まらせた。その姿を見て、ペーターが面白そうに笑みをこぼす。
「テラスに紅茶とお菓子を用意したんだ。気分転換にどうだい?」
「えぇと……」
「いやかい?」
「いいえ、行くわ。でも、少し用があるから先に行っていて」
「ふふ、よかった。じゃあ待っているね」
「ええ。またね」
ペーターに手を振り、ジルは扉を閉めた。急いで日記帳を棚の中に隠し、何をしていたのか怪しまれないようにするため、椅子にかけていたローブを羽織る。
日記帳に後ろ髪を引かれながら、ジルは部屋の鍵をかけた。
◇◇◇
隠し味に蜂蜜を入れた、ペーターお得意のバターたっぷりマドレーヌ。それらを前に、ジルは魂を抜かれたように紅茶の水面を眺める。
「それで、何があったのか聞かせてもらえるかな? それとも、僕に話すのは嫌?」
「……嫌とかではなくて、話そうと思うまでには少し時間がかかることなの」
もし、ジルがすべて話してしまえば、彼らはベルトルトたちを殺しに行くだろう。それはしたくない。せめて、もう一度ベルトルトと話し合ってから出ないと。
(でも、本当のことを彼の口から聞いてしまったら……)
グッと自分の唇を噛む。その時、ペーターがジルの手を包み込んだ。
顔を上げると、彼は眉を下げ、慈悲深くも咎めるような表情を浮かべていた。
「いいかい。みんなジルのことが大切で、守りたいんだ」
「わかっているけど――」
「吸血鬼に襲われたんだろう?」
「えっ? あっ!」
動揺のあまり、手からカップが滑り落ちた。
幸いペーターがキャッチしたことで割れることはなかったが、ジルの服が上から下まで紅茶色に染まってしまっている。
「ごめんなさい! 着替えて……お父様?」
後ろを振り向くと、眉間に深い皺を刻んだフェルツが、威圧感を放ちながら隣を横切った。
再び身体の向きを変えて見えたのは、彼がペーターに耳打ちをする姿だった。入り口を見てみれば、武装した仲間たちが空気をピリつかせてズラリと並んでいる。
「ジル」
ふと、フェルツがジルを引き寄せた。カサつき、ひび割れた大きな手が頬を撫でる。
「今から出かけてくる。お前は家で待っていなさい」
「待って、いつもより動員数が多いのは……お父様!」
呼び止めようとするも、相当急いでいるのか、彼は部下たちを引き連れて外へ出て行った。
ふと、ペーターがすれ違いざまに頭を撫でる。
「心配はいらないからね」
そう微笑んで、ペーターは扉を閉めてしまった。窓の外から聞こえてくる足音とは反対に、部屋には紅茶の雫が床に垂れる音がやけに大きく響くだけで。
忙しなく変化した状況にため息をつき、ジルはひとまず着替えることにした。




