◆番外編◆鏡の独り言 ―side鏡?―
「ちっ……あの野郎、まんまと出し抜きやがって」
彼女と長い時間過ごした『鏡の部屋』で、俺は思わず悪態をついていた。
それこそ、あの愛しい人には見せられない程の下品さで。
部屋には誰もおらず、俺一人。
普段ならこの部屋の、そう……あの古ぼけた椅子に、愛しい彼女が座っている筈だった。
けれど、彼女はもうここにはいない。
恐らく二度とここで過ごす事は無いだろう。
親友であった『俺』を、迎えに来る事はあるかもしれないけれど。
いや、きっと彼女なら、そうしてくれる事だろう。
俺の事を、友だと思ってくれている彼女なら。
それは嬉しい事の筈なのに、素直に喜べないのは俺が―――彼女を愛しているからだ。
ずっとずっと、長い刻を彼女と過ごした。
それこそ数えきれない程の刻を。
ガラクタ同然に放置されていた俺を、磨いて綺麗にして、そして自分だけの部屋に飾ってくれたのは彼女だ。
それが例え物語に必要だったからでも、数多ある鏡の中から俺を選んでくれたのは彼女だった。
焦がれて焦がれて、自分の性別を告げることすら躊躇われる程、愛している女性。
彼女は抜けがらとなったかつての『俺』を見て、泣くだろうか。
やっと彼女が幸せになれる世界になったのだから、悲しませる事はしたくない。
けれど、これは仕方の無い事でもある。俺が彼女と同じになるには、こうするしかなかったのだ。
慣れない足が、冷たい石畳を踏んで居心地悪げにふるりと揺れる。足の親指にぐっと力を入れて、俺は固まった身体を伸び解す。人間の身体はどうにも安定感が悪い。これなら壁に掛かっていた時のがよっぽど楽だ。
「にしてもなー。せっかく俺のナカに、連れていこうと思ってたのによ。あともう少しってところで、これだもんな」
目を閉じて、今の彼女を視る。魔法の鏡であった自分には、彼女を見つける事など至極容易だった。
彼女を見るのはとても好きだ。彼女が物語に登場している時ですら、片時も目を離したくないほどに。
綺麗で可愛くて、繊細な彼女の姿は朝露に濡れた薔薇の花よりも俺を惹き付ける。
彼女を視るこの時間が、俺はとても好きだった。
「……今は、余計な奴がいるけどな」
ただ歓喜の涙を流す彼女の身体を、抱く男の姿も目に入ってしまうのは癪だった。
美しいお妃様―――俺の愛しい人が泣きながら、この物語の王子である男の胸に抱かれている。
「あれは、俺の役目だったのに」
彼女を解放し、彼女を胸に抱くのはこの俺の筈だったのに。
何を間違ったか、あんな優男にまんまと出し抜かれてしまったのだから、俺もつくづく間抜けな男だ。
目の前にある元身体を叩き割ってやりたい衝動に駆られるが、そうすると彼女が悲しむので行動には移さなかった。
全くもって腹立たしい。
あの男も、出遅れた自分も。
俺が支配する鏡の世界でなら、あんな奴の傍に居るよりもずっと、彼女を誰よりも幸福な姫にしてやれたのに。
今よりもっと人に愛され、求められる彼女以外のヒロインがいない世界ならば、きっと。
鏡の世界は逆さの世界だ。
皆に愛され慈しまれる俺の世界で生涯、彼女を閉じ込めようと思っていたのに―――
数え切れぬほどの物語が繰り返される中で、少しづつ蓄積した魔力は、この世界を変える事が出来る程、巨大な物になっていた。
しかしそれは、あの王子も同じだったのだろう。
奴の想いには気付いていた。
恐らくそれは、俺だからこそ知り得たのだ。
鏡の中である『俺の世界』で唯一、彼女に酷い悪態をついた奴。
それがあの金色の王子だった。
憎悪が愛に変わる世界で、奴は憎々し気に、狂った様に、彼女を追いかけ回していた。
愛しても、憎んでも、彼女を追いかけ回すのだから、本当にあいつは腹立たしいったらない。
「ま、狂ってんのは鏡の中でも、こっちでも一緒みたいだけどよ」
見た目とは想像つかないほど腸が真っ黒な王子の隣で、幸せそうに微笑む愛しい人を眺める。
本当ならあの顔をさせたかったのは自分だけれど、それでも彼女がああやって笑ってくれるなら、今はまだいいかと思った。
「そうだな。今はまだ……」
ぎこちなく動く手足を何度も伸ばしながら、人間の身体というのはこんなにも窮屈だったんだなと毒づいた。
けれど今の俺には彼女と同じ。
人間の身体も声も、耳もある。
あの可哀想な人魚のように声を失ったわけでもない。
「これからゆっくり……狙っていくとするさ。なんたって、彼女と一番長く居たのは、この俺なんだから」
彼女の心を捕らえた王子とは正反対の黒い髪を指先でいじりつつ、俺はにやりとかつての『自分の身体』の前で笑って見せた。
俺の名はシュピーゲル。
『白雪姫』という物語の中で、お妃様である彼女と幾千幾万の刻を過ごし、共に在った者。
「お妃様の傍に居るのは『鏡』だって、相場が決まってんだよ―――そうだろう?」
くっと笑いかければ、数えきれぬ日々を彼女と過ごした俺の『元身体』が、水面のような顔をきらりと閃かせ、黒髪に黒い瞳の、新たな自分の姿を映し出していた。
<完結>