心蓋生存
「ぐっ…………!」
ばちり、と弾けるような電気系統の音と院長の呻きが聞こえた。すると一転して院長を縛っていた機械の触手がほどけ、彼は力なく床に転がる。……恐らく、気絶だろう。というかそれはさておき――――
『………………?』
まったく状況の理解できない俺と空は、ひとまず一歩、下がる事にした。目の前に現れた新たな白衣の人物が敵か味方か――〝親〟か以前に、それが未知である以上はひとまず目を細める必要がある。助かったのか、より危険な状態に陥ったのかはまだ分からない。
「なに、そう怯える事はないさ、〝我が息子〟よ」
突如として現れたその人物は平然とした口ぶりでそう述べ、真っ直ぐに俺の事を見据えて笑顔を浮べる。けれどそのやや引き攣っているような笑顔が俺の知っている笑顔とは少々違った。そのぎこちなさとありえなさが相まって、俺はひとつの質問をまず投げかける。
「ひとつ訊く。あなたは誰かに似せた人造人間か何かか?」
院長に対して最初に問うた言葉をもう一度。
「おまえが三歳の時、私が床に散らかしていた新規格のナットを七個も飲み込んだ時はね、さすがに私も焦ったよ。だがまぁ似たような形のお菓子の隣に転がしといた私がいけないのだが。――こんな感じで思い出を語っていけばいいのか?」
不意に語られたのは、俺の家族しか知らないはずの、俺の幼少期のとあるエピソード。聞いた途端、思わず口元が緩み、警戒が薄れる。……あぁ、これだけでも聞ければ俺はもう充分だった。あいにくと映画や小説みたいに凝った問答で真偽を見抜くような精神力は、今の俺にはないから。
「…………あぁ、父さんだ……!」
安堵の波がどっと心に押し寄せてくる。今の今まで張り詰めていた緊張の糸が、包丁ですっぱりと断たれたかのように。
――――奥凪優二郎。目の前にいるのは他でもない、俺の父親だった。
ただし、その姿はあまりにも変わり果てていた。俺が最後に見た時から十年は経っているのだから、当たり前と言えば当たり前だが。変化は単純に老いからくるものだけではなかった。
髪と髭はやや白髪交じりの伸び放題。だけど自分で切ったのか、雑だけどある程度は整えられていた。かけている銀縁の眼鏡は以前の輝きを失っているも、その薄いレンズの向こう側の目は、まるでそこだけが生きているかのように爛々と輝いていた。
唯一変わらぬ点であったその白衣は、およそ白衣と呼べない程にまで灰色にくすんでしまっている。昔、その白衣の内側に作業服を着込んでいたのを思い出す。その作業服は今、俺が着ている。これが遺品だなんて、とんでもなかったな……。
どこでどういう暮らしを送っていたのかはまだ分からない。でも食事はちゃんと取れているのか、顔も体は痩せこけてはいなかった。だがその肌の色は不気味な程に蒼白……。やや血色の良い豆腐といったところだ。少なくとも健康体とは言えまい。
「優星の、お父さんなの……?」
「とりあえずは、かな」
痛みがまだあるのだろう。胸元を押さえながらふらふらと立ち上がる空に手を貸す。
「……ありがとう、もう大丈夫よ。あなたは大丈夫なの?」
「あぁ。親父にも蹴られた事ないのに、ってね」
「はは、まぁ今のおまえなら蹴っ飛ばしたってびくともしないだろうがね」
父さんはそう言いながら小走りに寄って来たかと思うと、突然ぎゅっと俺の事を抱き締めてきた。懐かしく、体の内側に熱源が生まれたかのような。――間違いなく、それは人の温かさ。親の、温かさ。
「んん、〝逆転〟したか……!」
耳元で父さんは嬉しそうな声をあげる。……逆転? なんの事だろうと一瞬思ったが、体を離して正面を見たらなるほどそういう事か。
「二、三十ミリってとこだな」
俺は得意げに十年間の成長と今の差を告げる。それに父さんは満足げににっこりと、さっきより自然な笑顔で笑った。多分、さっきの笑顔がぎこちなかったのは、しばらく笑顔という表情をしていなかったからなのかもしれない。
「――――とにかくだ、彼が目覚めてしまう前に一旦部屋の外へ出よう」
予想だにしない奇跡の再会劇もそこそこに、俺と空は父さんに促され部屋の外へ出て、それからエレベーターのすぐ前まで移動した。
「…………さて、まずは私が何故ここにいるかを説明した方がいいか。優星、見ての通りどういう訳か私はあの日を越えてこうして生きている。両足もばっちり地面に着いてる。そうだな、まずこれを見ておくれ」
そう言って父さんは薄汚れた白衣の袖をまくり、その右腕を俺と空に見せ付ける。その腕の内側にはどす黒くなっている大きな痣のようなものがはっきりと見えた。
「うぉ……その痣は何だ?」
「週に一回、私は慈雄に注射を打たれていた。いわゆる薬物による〝洗脳〟というやつだよ。とびきり強烈なヤツをね。洗脳が続いている限り、私は慈雄の指令を受け付けなければならない。ともかくそうして私は約十年間ここに捕らわれ続けていた。
だが人間の体は不思議なものでね、やはり十年も同じ薬を打たれ続けると耐性というものが付くみたいなんだ。そのせいか最近の私は突発的にだが、ふと自我を取り戻す時が多々あった。だが取り戻しても私はここで何をしているのだろう、と記憶の空白を悩むだけだった。しかしついさっきだ、優星。まさかのおまえの姿を見て、声を聞いて、私はようやく完全な意識を取り戻す事が出来たんだよ」
洗脳――――。しかしまたどうして…………とにかく、疑問が尽きる事はない。しばらくは耳だけオンラインにしておく方がよさそうだ。
「どんなチカラが私に作用したのかは分からない。だがとにかく私は私となり、今に至るわけだ。そうとも、君達二人がああやって慈雄と話を続けてくれたから、私は間に合った。君が紡いだ言葉が彼に想定外の時間ロスを与えた。それから優星、おまえが慈雄を突き飛ばしたあの隙に、私はあの機械の動作を妨害し、標的を慈雄に向けさせる事が出来たんだ」
「私が、時間稼ぎを……?」
「そうだとも。当然意図していなかった事だろうけど、君の紡いだ言葉は機械の思考回路を幾重にも短絡させ、頭脳をフリーズさせたんだ。面白いだろう? 感情が機械に勝ったんだ」
言われて、そう、と空は小さく頷く。確かに院長は彼女の言葉に一時固まった。父さんは機械の回路と表現したが、逆にあの時ばかりは感情のある人間のようにも見えた。あの時はきっと……本当の、彼の人間としての部分が出てきてくれたのかもしれない。
「まぁ……私のここに至る経緯を更に説明するなら、彼の事を話しておかなければいけないね」
そう前置きしながら父さんは二回ほど咳払いをして喉を整えた。しばらく喋るのだろう。
「――彼は昔、『鉄学者』とまで呼ばれていた有名な科学者だった。漢字は『Fe』の方だね。彼には少々不思議な部分があってだ、普通なら各分野のどれかに絞り日々研究に明け暮れるのだけど、彼はあらゆる分野に手を出していたんだ。例えばその分野の専門家が一ヶ月かけて辿り着くところを一週間あまりで成し遂げ、すぐ次の分野へ。そんな風に次から次へと他の分野に手を出すという極めて謎の深い人物だったんだ。私に打っていた薬物の知識も恐らくその仮定で得たものだろう。
そしてもちろん、各分野の人達は彼を引き抜きにかかった。だが彼は断り続けた。毎日のようにしつこく来る誘いを表情ひとつ歪ませる事なく、ね」
表情を変えずにではなくて、変える事が出来なかった時代の話。つまり、院長が自身の表情や声色を自動的に変える機械を作り出す前の事だろう。
「彼はあらゆる分野を回っていたから、もちろん私の所にも来た」
「人工知能の研究を?」
「基本的にはね。まだ目に焼き付いているよ、時の人が私の研究所の前で構えていたあの光景を。もちろん私は受け入れた。性格がどうであれ、彼が来てデメリットになるような事はなかっただろうからね。噂の通り彼は私や職員とは必要最低限の会話しか交わさなかった。その一方で彼はよく食べ、よく眠った。徹夜飯抜きがデフォルトの我々とはまるで違ったな、はははっ」
そう声に出して笑う父さんは本当に楽しそうに見える。それが一緒に笑える内容ならいいのだが……。
「彼は優秀だった。仲間内にはまるで研究する為だけに造られた機械だと比喩された。それで、慈雄は私の研究所に他の分野とは異なり半年間弱も所属し、ある日突然お世話になりました、とどこかへ去っていったんだ。以来彼の噂は聞く事なく、彼が今どこにいてどんな研究をしているのを知る者はどこにもいなかった。
――さて、話が動くのはここからだ。彼は謎の失踪から一年後になんと再び私の前に現れた。そして自分の研究を見て欲しいと言われ、私は疑いもせず興味津々のまま彼の研究所とやらに向かった。あぁ、驚いたね、彼の研究所はなんと太平洋のとある海底にあったんだよ」
院長の経歴さておき、俺は太平洋、という言葉にぴんと来た。
「ん……空、確かこーすけが見せてくれた衛星写真に変な雲があったよな? あれがあったのは太平洋上じゃなかったっけ?」
「ええ、台風みたいな雲が写ってたわね」
「ほお、やはり写真は撮られていたか。それはこの研究所の問題点のひとつだよ。この研究所は一部の衛星から電力を受け取っている。詳細は省くがどうもこの地球外テクノロジーの類を稼動させると、異常な性質を持つ雲を発生させるんだ。今この研究所が纏っている霧はその雲の成長前だと思ってくれればいい。
まぁその分厚い雲が原因で衛星からの電力が受け取り辛くなり、今では施設内の電力をまかなうだけで精一杯だ。こればかりは慈雄も予想だにしない出来事だったようで対処のしようもなかった。不自由だと感じた彼は自ら院長という立場で地下都市で役割と担いつつ、恐らく隠された部屋のような場所で研究を続けていたのだろう。一方の私はここで機器の管理をする役目がほぼだった。一応ここにはトイレや浴室もあるし、食事も固形食が多かったが慈雄が持ってきてくれたから、私は生きるのには困らなかったよ。幸いな事に生きる最低限は保証されていたからね」
「…………そりゃ、よかったな」
生きるのには困っていなかったかもしれないが、決して健康的とは言えないだろうという事は、父さんの肌の色からしてうかがえた。今日は十年間の栄養不足を補えるような食事を料理長に作ってもらうしかないな、うん。
「この移動する研究所は水面下にあった慈雄の研究所で造られていた。そこでの労働者は全て機械だった。今でこそは信じられるが、当時は彼が人外の技術を用いているなんて思いもしなかったよ。だが彼は確かに〝彼ら〟と出会い、技術を得ていた。……でだ、その謎の研究所に呼ばれた私は、そこで初めて彼の真の状態を知った」
「感情が、ないってことを?」
空が尋ね、父さんがああ、と答える。その時に苦々しげな瞳でちらと俺の方を見たところ、彼女の状態に関して何かしらの負い目を感じているのだろう、と俺は直感した。話の流れからするに、父さんは院長の実験にどんな形であれども関わっていたからだ。
「薄々分かっていたようなものだったが、それを本人から伝えられてようやく。当時の私はそんな彼にどんな反応をしていいのか分からなかった。私の専門外だったし、どの分野の専門家が彼に必要なのかも分からなかった。だから、何故私だけが彼に呼ばれたのかも分からなかった。彼は矢継ぎ早の私の質問には答えず、ただ、私にひとつの質問を投げかけてきた。私の研究を手伝ってくれないか、とね。感情を探すのを手伝って欲しい、と」
「それを、承諾したのか?」
すぐにな、と父さんは頷く。ごもっともだった。実験方法が伝えられてなかったとはいえ、未知のテクノロジーで溢れる場所なんか、父さんが落ち着いていられるわけがない。腹を空かせた人の目の前に極上のステーキをぷらぷらさせておくようなものだ。
「…………あれ? ちょっと待ってくれ、それって今から何年前の話だ?」
「十一、二年前だったかな。そうだとも、おまえと母さんと暮らしていたあの時には既に、私と慈雄は知り合いだったのだよ」
「そうだったのか…………」
「まぁどっちにしろおまえはあまり気にしなかったと思うが。一時期は特に酷かったよ。なんせ彼の研究の手伝いも始めた時、私は自分の研究所と慈雄の研究所を行ったり来たりしていたものだからね」
当時の俺は幼いながらも、父さんがどのような仕事に就いていて、俺が寝た後に家に帰ってきているという事はよく知っていた。忙しい時期は研究所で寝泊まりもしていたし、そういうのは母さんもきちんと理解してくれていた。むしろそれ前提での結婚だったから当たり前だけど。だから父さんが一週間かそこらは一度も家に戻ってこれないなんて事はよくあったわけで。
「でも他人の研究を手伝っている、なんて一度も聞いた覚えがないけど」
一通り記憶を遡るも、父さんが自分の研究以外の事をしているという事は、一度も耳にした覚えがなかった。もちろん小学校低学年くらいの頃だから単に記憶がないだけかもしれないけど。
「他言無用、と。つまりはね、最初に言った私の洗脳は既に始まっていたんだよ。私も記憶が定かじゃないが、恐らく初めて研究所に呼ばれたその日から」
なるほど、と口にしつつ絶句する。週に一度は家族三人集まって楽しく幸せに過ごしていたあの頃。いつもと変わらなかった父さんが、既に世界の破滅に加担させられていただなんて…………。
「ちなみに、父さんは何をやってたんだ?」
聞くのは恐ろしかった。だが自然と口に出たこの質問では、答えによってはちょっと罪の意識というものが薄れるかもしれない。
「基本的にはプログラミングだけだよ。慈雄は私の専門である人口知能に関するプログラミング技術が欲しかったのだろう。この研究に関わる機械達それ本体は人外の技術を以てして造られていたが、回路系統はプログラミング含め人間が扱える技術で動いていたからね。恐らく彼らが使うプログラムの理解には時間を割きたくなかったのだろう。私も少し見させてもらったが、まぁ全く話にならなかったよ」
そう聞いて俺がややほっとした表情になったのも束の間、逆に父さんは歯を食いしばるように表情を険しくさせた。それから一度深く息を吸って、長くうなだれるように吐く。
「……だが残念ながらね、私のプログラムは例の無人機にも使われた。皮肉にもそれはうまく動作し、あの日に多くの人達を殺害してしまった。当然――当然、私が望んだ事ではない。言い訳になるかもしれないが、洗脳中の私の心には薬という第三者によって〝蓋がされてしまっていた〟からね。善も悪も常識の介入も許されず、ただ機械のように仕事に従事せざるを得なかったんだ」
父さんは悔しそうに胸元の白衣を力強く掴んだ。その白衣の皺のように、父さんの目元にも強く皺が寄っていた。
「心に……蓋を……」
その言葉に反応を示したのは空だった。彼女は呟いて、片手をそっと胸元に置いた。
「――あぁ……君も、だったね。すまない、本当に。私に慈雄を止める事が出来ていれば…………」
俯いて謝る父さんに、空はなぜ? とただ首を傾げた。それから驚いて顔を上げる父さんに、彼女は首を横に振る。
「〝悪い人〟はどこにもいなかったわ」
空はただそう告げた。その瞳には今やしっかりとした――色がある。確固たる意思の色だ。
「…………! それは――確かにそうかもしれないが……しかし、しかし君は許してくれるのかい? 我々は君の両親や友達、その家族、その生活、この世界を奪ってしまったんだよ?」
罪を並べ立てるも、またしても空は首を横に振った。
「許すも許さないも、今の私にはわからないことですから。本当は許されないことなのだろうけれど、でも……でもそれは〝正常なこと〟なんだって、私は知っています。あの人がしたことを悪いことと決め付けるのなら、それは私がご飯を食べたり眠ったりすることを悪いことだって決め付けるのと同じことです。――――生きることに、必要なことなの」
『………………』
俺と父さんには、理解しがたい話だった。それは感情なき者にしか理解し得ない正しい行い。他人が悪だと言おうが、本人にとっては死活問題なのだ。
――本能。院長はそれに従って感情を求めた。すなわち生きる事に必要だからと。例えば、遭難し極限に陥った人間が、生きる為にどんな手段を使ってでも食べ物を得ようとするそれと同じ。その行為を悪い事だと決め付け止めようとするのは、その人を殺そうとする事の他ならないのだ。
院長や空の語る言葉の意味は、一般人にはなかなか理解が出来ない。理解出来なくて当然なのだ。だからこそ彼の実験には、一般人にも〝同じ体験〟をさせるという意味合いがどこかに含まれていたのかもしれない。自分が感情を得る為ではなく、感情がないとはどういう状況なのかという事を、人々に知らしめる為に、と。
「心にフタを、と言ったけれど、それはどういうことなのですか?」
まだその回答が得られていなかったからか、空は再び父さんに問う。
「あぁ、私は君が陥った状態をその一言で説明出来る。〝科学で証明出来る範囲〟だが。それでもいいなら話すとも。君の心が自ら蓋をした理由を」
空は少し目を見開いて、それこそ驚いたらしいような表情を浮べる。それは俺が初めて目にした表情だった。
「理由があるのなら、私は知りたい。ずっと、知りたかったから」
自分の瞳をじっと見つめられる空のその瞳に悟ったのか、父さんは分かった、と深く頷く。
「『最愛のモノが失われた時、人は自らの心を閉ざし、その苦痛から逃れようとする。それは者であれ、物であれ。注ぎ、注がれるものが真である限り、愛に隔たりは無く、愛とは神をも計り知れぬモノである』。よく覚えているよ。これはもう千年以上も前の、ある哲学者の言葉なんだけどね。数学的計測機器がある今の時代でも通用する話なんだ」
「あぁそれ…………」
どこか懐かしい格言だった。遠い昔、よく言い聞かせられたような記憶が薄々と。だがもちろん当時の俺にそれが理解出来るはずもなく、それは今でこそ理解に値する言葉だった。
「引きこもってしまったり、酷い精神的疾患の類を患ってしまったり、最悪のケースが死だ。だがそれらは感情に起因するものであるから故に、心を閉ざす事で防げる事でもある。最低限生きる事は可能となる。つまり人間は自分で自分を守る為に自らの持つ機能を停止させる事があるんだ」
それは科学的に証明されている部分だ、と父さんは言う。
「……それなら、私は感情を失ってしまったわけではないのですね」
気のせいか、どこか嬉しそうな響きで空は胸元を両手で押さえる。
「そうとも、決して、失ったわけではない」
「私は、私を守るために、自分で自分の心に蓋をしただけなのですね」
気のせいか、ほっとしたように空は念を押す。
「その通り。君は自分自身で内側から蓋を閉めた。生きる事を優先させた。そして心は厄介な事に自ら閉じると自ら開く事が出来なくなるというのだよ」
「ええ、自分ひとりだけでは開けない。誰かに開けてもらわなくちゃいけない。誰かに広げてもらわなくちゃいけない」
そう言って空は俺の方を見つめてきた。あぁ、と頷いて、しっかり微笑んでやった。それはこの先ずっと、俺達がしてあげなくちゃいけない事なんだ。
「――まぁそのように、人間の感情についてはある一定のラインまでは科学っぽく証明出来る。だから慈雄の研究が完全に間違っていたとは私は言えない。しかしやはり心というものにはね、正直誰も手がつけられないんだよ。どんなに優秀な人間でもね。人間が観測出来るのはせいぜい宇宙の彼方と素粒子の世界まで。どんなに高性能な望遠鏡でも顕微鏡でも〝見えないけれど存在する〟ものなんて、そんな反則じみたものに挑む者など始めからいやしない」
そう、反則なのだ。科学で心を捉えようとする場合は。人間からすればどうって事はないのに。そして院長は、その不可能を可能にしようとした人類初の挑戦者だったというわけだ。
「観測はできない。でも、感じることはできる。不思議ね」
「先人達はまっこと便利な言葉を生み出したものだね。――納得はいったかな?」
父さんの問いに空は無言で何度も頷いた。彼女は感情を失った原因は知っていたものの、失われた理由は分からないと言っていた。でもたった今、決して失われたわけではないと知れて、嬉しかったのかもしれない。……まさか、俺の父さんから解説があるとは思いもしなかったが。
「いやはや脳も顎も疲れるな。こんなに動かしたのは何年振りだったか……」
「あ……脳でひとつ気になってたんだけど、俺達の脳に埋め込まれたチップってのは……」
ふと院長が言っていた事を思い出す。もし実験が続行されてしまったのなら取り出されるはずだった、俺達の感情やらを記録するというチップの話だ。残ったままになるというのなら、何かしらの悪影響がないとも限らないし……。
「いや、それは放っておいて問題無いよ。影響の無い部位に、かつ極小。脳が呼吸をしている限りは錆びない、外装は古典的だがチタン製だ。しかし唯一、空港の金属探知機にひっかかるかもしれないな……」
大真面目な顔で危惧する父親に俺は吹き出した。だって空港なんかそんなもの……。
「ライト兄弟から始めないとな」
「ん…………ああ、そうだったな。いやなに、良い機会じゃないか。一から生み出すその苦労を知らない世代だからね。私達が持つ今の基本技術は、所詮は過去の焼き増しに過ぎないのだから。…………さて――――」
からからと笑ってから、父親はおもむろにエレベーターのボタンを押した。するとこの階で止まっていたのだろう、扉がすぐに開く。
「ん、移動するのか?」
「もっとお話をしたかったけどね、そろそろ慈雄の意識も戻る頃だろう。そうなってしまってはもう脱出の機会はないかもしれない。だから――さぁ、行きなさい、〝二人共〟」
父はきっぱりとそう言って、その青白くなった白い指先でエレベーターの内部を指し示した。
「え……?」
よく、意味が解らなかった。二人というのは恐らく俺と空の事。でも院長が目覚めたらまずいのは俺達だけじゃないはずだ。妨害した父さんだって何をされるか……。
「私はここに残らなければならない。私は研究所をこれから爆破解体するつもりでいる。でなければ再びあの悲劇を引き起こす事になるかもしれないからね。なんせ地球外テクノロジーが噛んでる事案だ。ほんの僅かでも可能性があるならば念には念を」
「あぁ……なんだ、それなら遠隔操作か何かでも――」
父さんは片手をあげて俺の提案を制する。
「慈雄はね、本当に頭の良い人間だ。なにせ〝こうなる事〟も微量ながらも予測していたのだからね」
「…………?」
「それは〝失敗〟だよ、優星。実験の失敗だ。私がいつかこのように自我を取り戻しこの研究施設そのものを破壊してしまうのではないか、とね。構造的に破壊するのは案外容易な話だからだ。だから彼はそうならないようにある仕掛けを施していた。その仕掛けっていうのはね、研究所を破壊するには〝私の死をもってしてしなければならない〟という事。私が内部にいなければ、破壊は出来ない仕組みになっているんだよ」
「な…………!?」
「え……?」
乾いた笑いをこぼす父に、俺は断固とした拒絶を表した。
「そんな、駄目だ……! それじゃ、それじゃ――――父さんは…………」
死ぬじゃないか。
「思っている通りだろうね。だけどその点については慈雄は浅はかだった。……いや、不幸な事に感情無き故なのだろうが、彼は犠牲という概念をきちんと理解していない。人間は生き物だ。つまり本来死は避けるべきであり自ら進んで行う行為ではない。生きるという根本的目的をなげうってまで、他の誰かの為に死ぬなどという愚かな事はしない生物だと、ね。彼にとって犠牲や自殺という言葉はね、辞書という大海で泳いでる一匹の小魚でしかないんだ。けれど今回は残念だったなあ。私は誰かの為に死ねるぞ? 慈雄よ」
父さんは部屋の方を振り返って、未だ気絶しているであろう院長に対して言い放つ。それから俺達の方へ向き直って、深呼吸を一度した。
「……いいかい? 例え今、君達に何が欠けていようとも、君達は紛れもない人間だ。君達は幸せに生きていく事の出来る人間だ。機械ではない君達には誰かを愛し、愛される権利があるのだから。まだ始まったばかりだろう? 未来があるだろう? こんな所で足止めを食らっていていい訳が無い」
『…………………………』
「もう私は聞く耳を持たないぞ。さぁ――――さぁ行って! 〝生きなさい〟!」
そう力強く言って、押し倒すような強い視線だけで父さんは俺と空をエレベーターの中に押し込んだ。当たり前、扉は無常にもすぐ閉まる。もう二度と、こちらから開ける事は出来ないだろう。
こうなってしまえばもう、父さんを説得する事は不可能だった。それは息子である自分が一番よく分かっていた。覆す事が出来ぬのならせめて、明るくいこう――――。
「…………失敗するなよ……!」
扉の向こうへ向かって、腹の底から搾り出した言葉に、父さんはあぁもちろんだ、と朗らかに笑ってみせる。それは昔の俺の父さんに対する口癖だった。
「俺は……俺はなんっにも息子らしい事は出来なかったけど……!」
親はこんなにも親らしい事をしてくれるっていうのに、俺にいたっては息子らしい事は何ひとつとして出来やしなかった。今更ながら、そんな事を謝っておかなければいけない気がした。
「ははは、ならこれからする事だな! これからは精一杯、幸せに生きなさい! それが私の夢であり、これからでもおまえに出来る親孝行だ!」
叫ぶように、互いは金属の扉を隔てて別れを交わす。声がくぐもっているのは、べつに涙ぐんでいるからとかじゃない。本当に、扉が音を遮断しているだけだ。
十年前、泣いて別れを告げれなかったからこそ。今こうして再会する事が出来たのかもしれない。だから、今も別れの言葉を述べないでおく。次に会えるとしたら、それは夢の中だけになるというのは解っているけど――――
「…………ありがとう!」
別れではなく、お礼を言って。普段なら、気恥ずかしくて絶対に言えない言葉なのに。
するりと口から出たその気持ちが父親の耳に、母親の心に届いたかどうかは分からない。だけど心配はいらない。思いはぶつける場所がどこにあっても瞬時に届くものだから。光の速さで捉えられないからこそ、それらは数値じゃ証明出来ないのだ。
――――そして、エレベーターが動き出す。恐らく父さんが行き先を指定したのだろう。
途端に、大丈夫だと思っていたのに、俺の体がゆらゆらと崩れそうになる。
「…………!」
そんな情けない俺を、背後からぎゅっと抱き締めて、支えてくれる人がいた。
「……ありがとう」
情けないほどに掠れた声で。
空は無言のまま、ただただその腕に力と温かみをこめてくれた。




