否数値天秤
「人間、に…………」
私がそう呟いてからは互いにしばしの無言が続き、脳の浮かぶ水槽の中で立ち昇る泡の音だけが、ぶくぶくと無言の隙間を埋めようと鳴り響いていた。
――――人間に、なりたい。と。
幻聴なのか、私にはその泡の音が口々にこう言っているかのように聞こえた。その言葉の意味はあくまでも正しい。水槽の中に浮かんでいるのは、紛れもない脳ミソだけであって、〝彼らではなくそれら〟は誰がどう見たって人間ではないのだから。
なぜ、感情を探すのにこんな光景が必要になるというのだろうか。本当に、こんな方法で感情を得ることができるというのだろうか。
「私だって解ってはいる。この身を以てして体験するまでは、全てが御伽噺なのだという事くらいは」
院長は変わらぬ無表情のまま、同じ科学者である市長が以前口にしていた言葉と同じようなことを言った。途端に泡の声は小さくなってしまって、私はまた彼の言葉に耳を傾けざるを得なくなってしまった。
「ケンさんと同じ事言うんだな。それだけは間違ってない」
優星はその言葉をよく知っていた。物事の証明を理論だけで済ませるのは、しょせんはただの御伽噺に過ぎない、と。自身のその目に焼き付け、自ら体験することで初めて物事を知れるのだ、という一部の科学者の格言らしい。
確かに院長はその言葉に忠実に従っていた。理論だけなら彼はとうの昔に打ち立てていたことだろうし、事実それをもとにこんな規模でやっているわけで。でもやっぱり、それだけじゃまるで意味がない。今回の目的は、彼自身が心を、感情を得るためのものなのだから。
方法を導いて、それを私などの実験体に適用して、感情が生まれる過程をその目では見た。そこまでは完璧で……問題がその次。自分自身がそれをどう体験するのかということ。その方法はまだ、私達には知らされていない。
「彼らに言わせると、私は〝完璧な人間〟という種にあるそうだ。現代では本来あるべきである欠陥の存在しない、地球上で唯一無二の完璧だと。故に彼らは完璧との邂逅だけは受け入れてくれた。彼らは基本的に不具合にはあまり興味がない。不具合が生み出す技術には必ず不具合が伴うからだ。だが私は彼らとのその一点においては正反対の存在だった。彼らは不具合を本能的に受け付けず、私は不具合を本能的に求めたゆえに」
本能――――。それは生命そのものがもつ根源的チカラ。しなければ生きていくことに不具合が発生するから、どんなものよりも優先しようとする無意識下の行動。
院長は自分で自分の本能を抑えることができなかった。お腹が減ったから食べ物を求めるのと同じ。私と同じ、〝心の餓え〟が常に彼を襲っていたのだ。
「私は彼らの言う人間ではなく、人間の言う人間になりたかったのだ。不具合のない完全ではなく、不具合のある不完全だ。そうなる為に私は試行錯誤した。そして導き出した答えが感情の電気的信号化だ。得られた信号を私の脳内に様々な方法で伝送する。そうすればあるいは、私が感情表現の出来る人間になれるのではないかと考えたまで。
さて、彼らは感情の起源を生と死のサイクルに関連付けた。当たり前と言えば当たり前だが、そのサイクルの開闢と終焉にそれぞれ、感情の起源と消失があるのではないか、と。感情の起源を知るにはまず、感情がゼロの状態から観測を始めなければならない。だが私のように生まれつきゼロである人間はいくら探しても見つからなかった。いるとしてもそれは奥凪優星や古賀海斗のような部分的欠感者に過ぎなかった。
私のように、機械として生まれてきたモノはこの世に他誰一人として存在していなかった。不幸な事に、私は百億分の一の完璧だったのだ」
院長は鎖から解き放たれたこーすけのように語り続ける。けれど表情はずっと変わらず無のまま、姿勢も直立不動で、わずかに視線だけが機械的に私と優星を交互に捉えていた。
「機械……として……」
それは私がよく用いる比喩に違いなかった。あらゆる言葉の中で、それが一番的を得ていたから。
…………でも、果たして今はどうだろう? 私は未だに機械のままなのだろうか?
――――いえ、今の私はそんな過去に縛られてはいない。今の私は人間だ。充分だとはとても言えないけれど、心と感情のあるひとりの人間のほかならない。ゼロとイチでは全く違うのだ。
「私は私のような状態を人工的に造る方法を考えた。そして知り得た事は、感情の消失が必要とするものは死であるという事だ。死の瞬間が必要だと、とある文献に記録してあった。その文献が示していたのは、感情の消失は多くの場合、当事者の身内や友人の死を目撃する事によって誘発されたというのだ。
それを知った私はすぐさま複数の人間にあらゆる死を見せ続けた。それは今も継続中だ。例えばあの水槽内の脳には死の映像を見せ続けている。あれらの感情を一度ゼロにし、異なる様々な映像を見せ信号の回復を観測するという実験だ」
言って、院長は部屋内に並ぶ脳の浮いた水槽を片手で仰ぐ。
「なんて、実験――」
……あぁ、あれらは夢なんかじゃなくって、死を延々と見せ続けられていたんだ――――。
自由な身体がないというのが唯一の救いなのだろうか。もしも体があったとしたら、その手で自分の脳を叩き潰してしまうかもしれないから。見たくもないものを延々と見せ続けられるなら、いっそ死んでしまったほうがいい、と。
……いえ、どうしたって結局は救いにならないのだろう。実験の対象に選ばれてしまったのなら、私や優星のように放し飼いの実験項目に選ばれない限りは、実験が終わるまで脳のまま生かされ続けてしまうのだから。
見せ付けられる死に目を閉じれるわけもなく、耳を塞げるわけもなく、声をあげることすらできない。それは、技術あるからこそ生まれた新しい――生き地獄。こんなにも、相応しい言葉がこの世にあっただなんて。
「死の瞬間……やっぱあの日、世界を変えたのは、あなたの実験のせいということで間違いないんだな」
優星は改めて真相を問う。けれど私達はそう、さっきから理解していた。改めて尋ねる必要はなかったのだ。
空の災。
まぎれもなく、私がすべてを失った日だ。
私も薄っすらと、思考のどこかで漂っていたけれど。きっと認めようとはしないチカラが働いていたのだろう。けれど優星がその核心に迫ろうとすることで、私のそのチカラが徐々に薄れていくのがわかる。
きっとこの先に語られるであろう真実に対し、私には耳を塞ぐことができる。嘘だ、と認めないことも今の私にならできるだろう。
でも、それがなにになるっていうのだろうか。真実を否定したところで、救いがあるわけでもなく、真実が嘘になるわけもない。それくらい、十七歳ごときの私の頭でも理解できる。
ここは、巻き戻しも、早送りも、停止も、一時停止すらもできない定常世界。過ぎ去った出来事は記憶と記録にのみ保管されて、以後はその中でしか各種の操作が行えない。
「――――正確なデータの収集には数が必要だった。国内のみならず諸外国、多様な人種、思想、男女、死因等のあらゆる状況のデータを収集する必要があった。多ければ多い程に、感情の消失を観測出来る可能性があった。
よって私は、〝人類の半数に人類の半数の死〟を見せるという実験を試みた。約五十億の死と五十億の生。それを極めて短期間かつ高効率で収集する為に、この研究所に破壊兵器を搭載し、更に遠隔操作が可能な小型の実験機を使用した。
結果、それは多大なる成果を収めた。得られたデータは有余るほどに莫大だった。それから十年もすれば全てのデータを纏め関連付ける事が可能だと計算し、十年経った今、事実最終段階へと差し掛かっている。
あらゆる死、そしてその上で生き残った内のいくらかの者がきたす感情の消失や異常、その者達がのちに見せる行動の観測。そこから発現する感情信号。全てのデータが揃いつつある今、感情は目前だ」
言い切って、院長は私と優星の背後にあるスクリーンを指差した。
私達が振り返ると、同時に今まで映っていた英語や数字の羅列が消え、スクリーンの各所で私達に理解できる複数の映像が流れ始めた。
『……………………』
無音で流れる映像そのどれもが、同じような内容と色に染まっていた。
迸る閃光。崩れる建物。燃え盛る木々。逃げ惑う人々。負の表情。飛び散るなにか。赤い飛沫。赤い池。赤い海。赤い、ドレス――――。
もちろん、モザイクの類はかかっていない。惨いとか、生々しいとか、痛々しいとか。その程度の言葉じゃ表現できない光景。それはもはやある種の芸術的な映像。どんなに有名な小説家でも映画監督でも表現できないものに間違いなかった。
ずしん、ずしん、と私の体が見えない重みに潰されそうになる。異なる映像に目をやるたびに、強い衝撃が胸の奥で飛び交う。
ぐらり、ぐらり、と私の視界が荒波のように揺れてくる。あの日に目にした光景が、頭の中で再生と巻き戻しを交互に繰り返している。
「――――空の災は、人為的なものだったのね」
映像から目を離し、ようやく吐き出した私の声は、明らかに震えていた。
始めに思っていた通り。機械は、機械だけで行動を起こすことはできないから、必ず人間が起動のきっかけを与えなくちゃいけない、って。
五十億の死――――もう、まるで見当がつかない。それを引き起こしたのはすさまじい自然災害でも、天文学的災害でもなかった。単なる人災だったのだ。
「左様。『空の災』などではない。あの日は他ならぬ私の『実験日』だった」
『………………』
あぁ、と吐息がこぼれて。ぐるぐると、視界が回り始めた。
あらためて言われて、すべてが、繋がってしまったのだ。ばらばらに散っていたパーツがやっと、ひとつに合わさって、真実という名の現実が私の意識をがりがりと削り取っていく。
がくん、と膝が折れて。私は膝小僧を床に打ちつけた。けれど、痛みなんかは感じなかった。それはきっと、今胸の奥で疼いている痛みのほうが強いから。
「空…………」
優星の声にも、呆然とした私は応えることができない。そんな私の背に、彼はその温かい手を添えてくれる。
その温かみが唯一、私の意識を保たせてくれる。けれどその心に触れる温かみは、私にとある確定事項をも約束させる。
――――お別れは、本当のお話だったんだ。
こうして、私の背中に手を添えてくれたり。私の体をいつも抱き締めてくれて、手をぎゅっと握ってくれた父親と母親。その感覚を私の体は今も覚えているし、これからも忘れることはないだろう。
もう二度と、両親の温かみに触れることはできないけれど。どうしてかな。私には優星の温かさが、両親の温かさとまったく同じ性質をもっているような気がしてしまう。前に優星の手を握った時に同じ感覚を感じたのは、気のせいじゃなかったのかもしれない。
そんな事実を悟った私は、優星がそばにいてくれる時だけは両親の死を忘れることができるのかもしれないと思った。それがいいことなのか、悪いことなのかは、私にはわからない。ただわかるのは、この温かみすら失ってしまった時に、今度こそ私は死んでしまうかもしれないということだ。
私のセカイを。あんなにも簡単に。別れの挨拶すら、許されぬままに。すべて、みんな、たくさん――――。
その原因が今、私の目の前にいるというのに。私は怒れない。非難できない。罵倒だってできない。でもそれは私の感情が薄っぺらいからだけじゃない。
…………だって、私も彼と同じことをしていたかもしれないのだから。
幸いなことに、私には知識も技術もなかった。もともと学者肌だったわけじゃないから、当たり前かもしれないけれど。でも私に少しでもその方面のチカラがあったのならば、私は院長と同じようなことをしていたに違いない。
食べることや眠ることと同じように、感情を得るための方法を本能的に探し求める。心の餓えが彼をここまで動かしたということについては、私には充分に理解できてしまう話なのだ。
「今、十年分のデータが記録されたチップが、私の目の前に二つある。君達には特に私が知りたい情報が詰まっている。そうとも、次の段階は君達で始まりとなるのだ」
院長のその言葉が、私の揺らぐ視界と思考をばっさりと寸断する。
「…………データ」
そこではっと気が付いた。床に膝を着いたまま、顔だけを上げて私は院長を見る。そうだ、この人はただ勘違いしているだけなのだ。それならば――――
――――私が、教えてあげればいいんだ。
そうすれば、もしかしたらだけど。院長はこんな無駄な実験を止めてくれるかもしれない。失われたものが戻るわけではないけれど、これから失われるものがなくなってくれるのというのであれば。
「データって、数値でしょう? あなたは、そんなもので心をつくろうとしているの?」
「否、私は感情を探しているだけだ。心などという存在しないものは求めていない。人間にあるモノは感情だけであり、心などという不確かなものは存在しな――」
「――心は、あるわ」
私は言葉で遮った。けれど院長は首を横に振ることもなく、否、と答える。
「そんなものは無い。観測出来ぬというのに何故そう断言出来る」
院長の表情と声色は変わらないものの、私にはそれが自身の犯した矛盾を屁理屈で否定するこーすけと重なって見えた。
「あなたはさっき言っていたわ。〝人間ごとき〟には観測できない物質、って。それはあなたが人間じゃないからこそ言えることでしょう? なら、〝あなたごとき〟には観測できない心というものがあったっておかしくはないわ」
院長の矛盾を私はそう説明した。数値で感情をはかろうだなんてことは、定規だけで重さを測るようなもの。まったくもって、意味がない。
「心という器がなければ、感情が動くことはないし、感情が生まれることもないの。たとえるのならプールみたいなものよ。器が心で、水が感情なの」
そう、心と感情が別ものだということを、まずは知ってもらわなくちゃいけない。
「……………………」
院長は視線をずっと宙に泳がせたままで、すぐに反論をしてこなかった。きっと、自らが犯した矛盾についての解法を、一生懸命考えているに違いない。
だから、私はもっと続けることにした。スズやこーすけがいつもしている方法で、相手が考えて口ごもっているうちに、どんどんと押し入っていくのだ。そして、最終的に打ち負かす。
「あなたは初めから矛盾していたのよ。自分では絶対に観測できないものを観測しようだなんて。あなたは観測じゃなくて、〝体験〟すべきだった」
「…………何」
「身をもって体験するまではすべておとぎ話、でしょう? あなたは外側から観測するのじゃなくて、内側に入って、みんなの輪に入るだけでよかったのよ」
言葉を紡いでいると、私の感情が波打つのがわかる。プールに張られた平たい水面が、風に吹かれてさざなむように。そしてそれは静まるどころかどんどん強くなっていく。
「確かに私は十年前のあの日に、あなたの実験で器を失った。でも、今はあるわ。小さな小さな器だけれど、その中に入るだけの感情が静かに渦巻いているの。この意味があなたにはわかる?」
「無論、理解出来る。感情が発現しているという事だ。つい先程古賀海斗を通じて行った、過去に負った精神的外傷の再現による感情の発現が成功した事からも言える」
「ええ、でもそれは私のお話。私にはよくわからないけれど、仮にその状況を数値化できたって、それをあなたに当てはめてもあなたが恐怖を感じることはないわ。空機は私にとっては怖いものでも、あなたにとってはなんでもないものなのだから」
なにをどう感じるかだなんて、そんなものは人それぞれ。百億の人がいたら、百億の感じ方があるのだから。
「あなたはデータなんかじゃなくて私自身を見るべきだった。私の研究を見ているだけで、どうすれば感情が手に入るのかわかったはずよ」
私と同じようにして、ひとりじゃなくて誰かと毎日を過ごすだけでよかったのに。こんな所にひとりこもって研究なんてしなくったって、機械なんかに頼らずに、地下都市でみんなと変わらぬ日々を過ごすだけでよかったのに。
「この全身で誰かと触れ合って、温かみを感じて。なんでもないことを一緒に喋って、一緒にご飯を食べて、一緒に眠って。たったそれだけよ。こんな大掛かりな施設も、あなたの頭のなかにある機械も、人の死も全部いらなかった。ただ誰かと一緒に生きているだけで、それだけで、心が広がって、感情が生まれていくの」
言い切って、立ち上がって、私は院長を見つめた。もう、嫌な感覚はない。震えも止まった。
院長の虚無の瞳を、虚無〝だった〟私の瞳が捉える。火花こそ散らないものの、私は彼に伝えるだけのことを伝えた。
過去を今くつがえすことはできない。でも、今をくつがえすことは今ならできる。今を変えることができれば、未来は変わる。そして変えるのなら、今しか、ない。
「――――心など、存在しない」
ややあって、院長は私を見つめたままもう一度そう断言した。でもその言葉はただただ機械的に決められた否定を行っているだけ。機械が示す〝ノー〟と同じ。答えがそうでなければ破綻してしまうから、と無理矢理に答えを決め付けているかのよう。
「数値を取らなくては。空論なぞでは正確な考察が出来ない。実験体そのものを見たところで何ら得られるものは無い。変わるのは見た目のカタチのみ。必要なのはその脳の内部で交錯する情報だけだ」
「いいえ。心も感情も数値じゃはかれないわ。だから、あなたの実験は成功しない。こんな方法では無理よ。永遠に」
私は断言できた。この十年間の、私の研究体験が示した答え。それはきっと世界中にあるどんな文献よりも正しいことを説明しているはずだ。
心なしか、院長の不変の表情が消える。テンプレートの表情に、ほんのわずかな歪みが生じたのだ。つまり、もしかしたらそれは――――。
「あぁ、空の言う通りだ。心は心っていう秤でしかはかれない。人間の感情をはかるのは宇宙の果てを知るよりも難しい事なんだ。百五十億光年彼方の光よりも多く複雑な光が俺達にはある。その無限の光をどうやって観測するつもりなんだ?」
優星は院長の歪みを見逃さず、私のあとに続いてそう伝えてくれた。
それは、どこまでも不思議でどこまでもおかしな話。数値化出来ないものは宇宙にすら存在しないって言われていたのに。なのに私達は手の届く範囲のこと、ましてや自分自身のことをまるで、これっぽっちもわかっていないのだ。
いつの時代でも、最も強いものは言葉だと優星は言っていた。だから暗に、私達は言葉を紡ぐ。そうすることで院長の実験を止めなければいけないのだと。
私達はいつしか、言葉を介す必要なく、心で通じ合っていた。それこそ本当に、数字じゃ説明できないものを、私達は扱うことができるのだ。
「感情とは無限なものではない。感情とは脳内で交錯する有限で値の与えられるモノだ。君達の言う心があるとするならば、それは単に脳を言い換えただけの事。それを証明する為に私はこれから次の段階に移る。――手始めとして、君達から脳を取り出しチップを回収し、そこに記録されたデータを抽出する。その後に引き続き世界中から肉体を伴った実験体を収集し、データを回収する」
院長は私達の背後にあるスクリーンの一端に示された時刻に視線を一瞬移し、それから私達に目を向けた。
「時間だ。計画を実行する」
垣間見えていた人間としての揺らぎが完全に消え失せ、今度こそ院長は無機質な機械そのものに戻った。その次の瞬間、院長がすっと手を胸ポケットに入れる。再び出したその手には小さなリモコンのような装置が握られていて、彼は素早くそれを操作した。
――直後、小型の空機のような黒く丸い機械が一機、部屋の入り口から音もなく入り込んできた。
『…………!?』
それは宙に浮いたまま真っ直ぐに私と優星の方へ向かってくる。そして機械はある程度の距離で静止したかと思うと、機体から腕ほどの太さの触手のようなものが素早く数本伸びてきて、逃げる間もなくそれが私のみぞおちや首あたりに強く巻きつく。
「あ――――っ……っ……――」
あまりにもきつく縛り上げられてしまい抜け出そうともがくも、機械の触手は微塵たりとも動こうとしない。むしろ、ぎりぎりぎり、という硬い機械音と共により強く締め付けられていき、あまりの苦しさに涙が溢れ出す。
「――――――!」
わかりきったこと。機械に容赦はない。外部からの指令を受けて、ただそれを淡々と実行するだけ。
骨が軋みをあげて、息ができなくて。完全に、私の体を絞め潰そうとしている。きっと脳以外はいらないと思っているのかもしれない。
でも、そんなのじゃ、そんなのじゃ。脳だけじゃ、感情なんて――――
「空――っく!」
急速にぼやけていく視界の中、機械から触手がもう一本伸びて優星を絡めとろうとするのが見えた。けれど彼はそれをうまく屈んでかわして、一目散に院長目掛けて走っていく。
「それが操作元だな!」
「ぐ――」
不意をつかれた院長は、優星の捨て身の体当たりをもろに受けて体勢を崩し、手にしていたリモコンを落とす。それを優星が拾った途端に機械の触手は緩まり、私は床にぐしゃりと崩れ落ち、呼吸の再開にぜぇぜぇと喉を鳴らすことができた。
「うっ……!」
けれど呼吸を整える間もなく鈍い音と優星の呻き声が聞こえ、リモコンが床に落ちて滑っていく音がした。
全身を襲う痛みを堪えて体を持ち上げ、涙で滲む視界で周囲を見渡す。すると脇腹を押さえて地面に横たわる優星と、部屋の入り口付近にまで転がっていたリモコンを取りに行く院長の姿が見える。
――――もう、終わりだった。
「……優、星……!」
知らず、私は力の限り声をあげていた。〝新たな感情〟の波が心の中で荒れ狂っている。
「っ……逃げろ! 空!」
優星が叫ぶ。けれど既に院長はリモコンを拾い上げていて、次の瞬間には機械の触手が再び唸りあげる。そしてそれは私に向かって――――
「な――――に?」
再び私がやられる代わりに、院長の声がした。
体を縮ませ目を閉じていた私に、触手は襲ってこなかった。不思議さが勝り、そろりと顔をあげてみると、そこにはリモコンを片手に、けれどなぜか〝自身が触手に巻き付けられて〟動けないでいる院長の姿があった。
「――――残念ながらだ、慈雄。その辺の設計を私に任せたのは君だ。まさか自分で造った装置を自分でジャミングするとは……夢にも思わなかったよ」
突如、私の耳にしたことのない声が部屋に響く。この場にいる誰のでもない声。無数の水槽の間から聞こえてきた第四の声に、優星だけが反応を示した。
「父……さん――!?」




