酸宿り
目的の霧は、俺と空がいる場所から数百メートルはあるであろう先の空間一面を、まるでその先をひた隠しにするかのように白く濁らせていた。ちなみにその霧は街に降りる前から確認出来ていたものだが、霧の範囲や形状はその時とまるで変わっていなかった。
ほぼ確定事項に違いないのだろうけど、レーダーが長らく示していた巨大な熱源らしきものは、方向からしてその霧の向こう側にある。そして俺達が元々目指していたその場所から、例のコガ君とかいう人物は空機を操って、この場所までやって来たようだった。
「…………」
手を繋ぐ傍らの彼女――空は、先程からなにも喋らない。黙りこくったまま、けれど足元には気をつけながらしっかりと歩いている。
当たり前だろう、全てを失った原因のひとつが唐突に目の前に現れたのだから。もっともありえないカタチでの遭遇だったのだから。
さっき、彼女は震えていた。はじめはそれが、恐怖からではないものだと俺は思った。感情を失った彼女は恐怖すら感じられないのだ、と。
……だが違った。空は確実に恐れていた。あの反応は間違いなく〝感情的〟なものだ。彼女の心はさっきの体験を経て、成長したのだ――――。
空はきっと解っているだろう。それが例えマイナスな感情だとしても、自分にとってはプラスなのだと。だから俺はあえて追求はしなかった。なんだかおかしい言い方だけど、彼女にはその恐怖を、久しぶりに感じられたその感情の余韻を、少しでも長く味わってもらいたいから。
一方の俺は、様々な情報が脳内を錯綜していた。目的地は定まったが、そこに至るまでに考えをまとめなければならない。
自分を落ち着かせる為のため息が、長い尾を引きながら微風に流されていく。体は冷えていくばかりだが、頭の中は一気に流れ込んできた情報の整理に忙しく、熱がこもりっぱなし。冷却ファンが二、三枚欲しいってところだ。
俺らが〝見させられていた〟という夢の映像が、コガ君の言葉を伴いあまりにも強い鮮明さをもってして脳裏を過ぎっていく。
「そうだ、ちょっと待ってくれるか?」
俺はふとひとつの可能性に至り、地面の砂の上に関連する単語を書き並べていった。そう、連想ゲームのように。そうすれば見えてこないものも見えるようになるかもしれない。
「それは……?」
「ヒントを少し書き出すんだ。頭のなかより文字にしたほうがこういうのは繋がりやすい」
書き上げた単語の集合体を眺めながら、絡みに絡み合ってしまった言葉の釣り糸をただひたすらに解いていく。夢に現れる現象、その全てを内包するものとは…………。
数分悩んだ挙句に夢の欠片が全て組みあがると、そこにはひとつの単語が浮かび上がってきた。多少なり予想は出来ていたが、それは――――
「――――『邪機』だ、空。やっぱりあの霧の向こうにはそいつがきっとある」
俺は霧がある方向を無言でひたすら見つめていた空に、そう伝えた。彼女は空機が離れたからなのだろうか、怯えている様子もなく、もう普段どおりの姿に戻っていた。
「〝わかっているわ〟」
「え……?」
空は俺の導き出した答えをいとも簡単に、ただの一言で肯定する。
「私は夢でも見たし、この目でも見たから。空機は、邪機の中から出てきたの。それに古賀君は私と同じ種類の夢を見ていたから、間違いないわ」
「あ――そうか、君は現実に見てたのか。それに俺は邪機に収納された空機を夢で見てるときた、か」
これでほぼ確定となった現実に俺は眉根を寄せた。また一段と体が重くなる。
霧の奥には、霧の手前に広がるこの世界を生み出した悪魔がいる。栄華の極みにあった世界を、絶望の深海へと引きずり落とした悪機。
神話の世界に出てくる破壊担当者も目を瞠るだろうな……。たった一日で、これ程までの破壊を行うというのは。神々が持つような力をも、技術で再現出来てしまう時代。それはむしろ万能の神様でさえも嫉妬してしまうくらいだった。
でも今は、ありとあらゆる技術データの消失に、人間は数百年単位の技術後退を余儀なくされてしまった。幸いな事に俺達の住む都市は数年程の遅れで済んだが、仮に他の地下都市があったとすれば、そこではそれこそ原始的生活を強いられている可能性だってありうる。
思えばあの日、何億の人々が大地の上でひしめいていたのだろう。
果たして今では、何人の人々が大地の下で生きながらえているのだろう。
――――で、こうにまで破滅させる『目的』は、なんだっていうんだろうか?
それは世界をこうにも出来る技術を持ちながらも、果たせないものなのだろうか。
それともこうでもしなければ、果たせないものなのだろうか。
あるいは、最初から明確な目的なんてものはなくて、自分の持つ技術を誇示したかっただけなのか。もっともこれは暴走気味の技術者がよくやる類の事だから、あながちありえないとは言い切れないが。
ともかくコガ君の話からするに、話に大きく関連しているのは〝先生〟という人物らしい。しかも俺達がよく知っている人ときたものだが、あえて今は置いておく。なんせ、これでひとまずウチュウジン説は消えたから。
機械に目的を与えたのは恐らく先生という人間。人間ならば少なくとも話は通じる。空機に対して直感的に話しかけた俺はどうやら正しかったようだ。やっぱり会って話をしてみるしかない、のか……。
なにはともあれ俺達の今後の選択肢は限られていた。――二択。もっとも質素にして、もっとも難易度の高い数だ。
前進――霧の向こう側、未知の危険へ。
後退――自分達の都市、既知の安全へ。
コガ君は〝双方に利益〟をもたらすと言ったし、こちらに危害を加える意味がないと豪語した。なら俺と空がこの先に行ったとしても、恐れるような問題が発生するとは考えにくい。
他にひとつの可能性が上がると言えば単純に、罠だ。彼が、そして先生とやらが人間であるならば、その可能性は拭いきれない。嘘は人間の特権だから。嘘をプログラミングするくらいなら、嘘吐き一人雇った方が何倍もの人件費削減になるってのは技術者の常套句だ。
罠だとすればいったい何をされるか解ったものじゃない。相手はこの世界を沈めたものだっていうのだから、とてつもないスケールの事をされるのは間違いないだろうし。
かといって都市に戻って大人を引き連れてくるっていうのにも抵抗がある。逆にその判断が全てを狂わす可能性も充分にある。
「…………空は、どう考える? 本当に行くべきか、戻るべきか」
結局、俺一人では答えが出せず、空の意見も参考にしつつ考えなければという名目で、逃げるように彼女に問いかけた。
「もしここで戻ってしまったら、結局なんの手がかりもえられないままになってしまうわ」
どちらでも、とでも言ってくるのかと構えていたら、この即答。
「そいつは……うん、そうだな。戻ったら本末転倒、か」
不意を突かれた俺は思わずどもる。
「ええ。それに優星、覚えてる? 古賀君は、私達が夢を見させられてるって」
覚えているよ、と返したところで、脳内にひた伸びる答えへと繋がる導火線の一本に火が着く。
「どんな手口か不明だけど、見させられてる。ん、そうすると夢は――夢は〝誘導〟なのか?」
映像を他人に夢として見させる――。俺はそんな技術を聞いた事がないが、視力を失った人の脳に直接映像を見せるといったような、視覚映像関連の技術は前からあったのは確かだ。その応用や発展と考えればありえない話じゃない。そもそもあのような機械を扱えるレベルの知識なら余裕だろう。
「多分、そう。だから私達が戻ったとしても、きっと夢は見続けることになるわ。私達をここに呼び寄せるためだけに作った映像なのかもしれない」
空は焦り悩む俺をよそに、コガ君の言動を冷静に分析していた。焦りという感情がない以上は、多感な人より相当優れた分析力があるに違いない。そういう点においては、やっぱり彼女がいなければ俺は駄目だな……。
「見たくなきゃ来いってか……。つくづく何を企んでいるのか解らないな、先生とやらは」
「そうね。どちらにせよ会ってみなくちゃいけないわ」
謎が謎を呼び、疑問が疑問を招く。
ヒントは小出しに、小出しを続ける。
答えは出ているようで、まるで出てこない。
俺達が求めている真実は、幽霊のように不確かで、不明瞭で、近くにあるというのに掴めさえしない。網を投げて引き上げてみたって、網の間をすり抜け逃げるだけ。
もはやこれ以上この場で悩むのには限界がある――――。そう決めた俺達は、もう一度確かに意を決して霧の向こうへ向かう事にした。
見たところ、霧は自分達が歩く地面よりも一段上がった地面の上にある。つまり霧の向こうへ行くにはもう少し進んで、上の大地に上がらなくてはいけない。上がれる場所をまず探さなくては。
そして俺達はまたしても瓦礫の世界を、代わり映えのない一様の世界を突き進んでいく。
「………………怖かった」
ぽつり、と。思い出したのか、空は歩きながら消え入るような声でそうこぼした。もちろん俺はそんな言葉を彼女自身の口から聞いたのは初めてだった。
「え?」
「こう言えばよいのかしら?」
「……ああ、それで合ってると思う。どうだった? 久しぶりの怖いは」
「どこが苦しくなるのかわからない。嫌な、感情ね。でもそれもなきゃ、結局私は私になれないから」
歩きながら見た空の横顔が、心なしかわずかに陰ったような気がした。感情を受け入れる事で、徐々にこうして彼女の不変の表情にも変化が表れていくのだろう。
そう、美しい透明の花瓶に、ついさっき一輪の花が添えられたのだ。でも今回はまだまだ色の暗い花。いずれもっと華やかな花が咲き乱れ、暗い色も明るい色も合わさって、立派な心の持主になってくれるに違いない。
「優星は、怖くなかったの?」
空は表情をまた一転させていつもの透明花瓶の表情で尋ねてきた。
「いや、そりゃ怖かったさ。君が怖がっていたからね」
事実だった。俺は空機を見た瞬間、まず第一にあの場をどう逃げるかを考えたのだから。一人ならまだしも、最悪空を抱えて逃げる事さえ、あの一瞬の中で考えていた。
でも結局あれはこっちを襲うような気配を見せなかった。だから俺はそこに賭けてみる事にしたのだ。やや挑戦的な掛け金に、それにあるひとつの仮定を上乗せしての。
空は夢の中での自分はモニターを見ながら空機を操っていたと言った。ならさっきの状態において、コガ君が彼女と同じ立場にあるなら、彼はモニターを通して俺達を見ていたはずだった。だから俺はひとまず、空機が映像だけでなく音声も拾うという事を予想して、声をかけてみたのだ。
……まぁ結果的にはこっちから話しかけなくとも、いずれ向こうから話しかけてきただろうけれど。その後に空とコガ君が知り合いだったという事を知ってから、ようやく落ち着いた俺ではあったが。
「私が怖がっていたから、あなたも怖がったの?」
「そう、なんていうか、共感ってやつかな」
「共感?」
「誰かが一種の感情をあらわにすると、周りの人もそれに感化されて自然と同じ感情を抱くようになる事があるんだ」
さっきのはまさにそれだった。ある程度の覚悟は出来ていたものの、いざあの空が怯えている姿を見てしまっては、さすがに俺も身構えざるをえなかった。
「それはひとりが笑ったら、まわりのみんなも笑い出してしまうような?」
「ああ、そういう事。何かが起こって、たとえ自分にとってそれがおもしろくもなんともないものでも、他の人がおもしろいと感じたら、いつの間にか自分もおもしろくなって笑っちゃうってやつ」
「…………そう、それは私の目標のひとつかもしれない。でも優星のように、私が怖がってあなたも怖がってしまったら、それは悪いことではないの?」
空は多分、純粋に負の連鎖の害についてを俺に尋ねているのだろう。確かに恐怖や悲しみが周囲に伝播してしまえば、いずれはマイナスにまみれた世界になってしまうから。
「いいや、それもあるけど共感には軽減の一面もあるんだ。例えで話せば恐怖の共感は、恐怖の増幅と同時に軽減にもなりうる。なんて言えばいいのかな……」
感情の限られた人に感情云々の説明をするのはなかなか難易度が高い。
「そうだ、例えばこれ。これが恐怖、これを持っていると恐怖を感じているものとするよ」
俺は足元に転がっていた綺麗に丸くなったコンクリートを拾い上げる。物理的に説明するのが手っ取り早いと判断したのだ。
「……?」
「俺は今、恐怖の塊を目の前にして、恐怖を感じてるとする。だけど――」
俺は手にしたコンクリートを近くの角張った瓦礫に叩きつける。強度の低下していたコンクリートは大きな音を反響させて、うまい事半分に割れてくれた。
「ほら、持ってみて」
そう言って、俺は片方の欠片を空に手渡した。受け取った彼女は、その欠片を未知のものでも見るかのような仕草でまじまじと見つめる。
「こうするとほら、確かに君が言ったように、恐怖を感じてしまう人数は増えてしまった。俺と空は恐怖を感じてしまってる。――でもこう考えるとどうかな? 今俺と空が感じているのは、最初に俺が感じていた恐怖の〝半分〟なんだ」
そう説明すると空はそこで初めて、あ、と小さく口を開く。言い方は悪いかもしれないけど、原始人に算数を教える時とかはこんな感じなのだろう。
「その考えでこれをもっと、もっと小さくしたらどうなってしまうの?」
「そのうち誰にとっても恐るるに足りないものになって、最後にはみんなで撥ね退けてしまうのさ。こんなもの、もう怖くないから大丈夫だって。そうやって人は成長していくんだ」
言って、半分になったコンクリート片を俺は遠くに放り投げた。音が様々なところに反響したが、さっきのように身構える事はなく、それにならって空も足元に放り捨てる。
事実、こうやって人間は進化してきたのだろうと思う。マイナスの感情に関してはだけど。
一人では抗いきれない感情の元を、二人、三人、四人――いずれ無限に分割していく。人ひとりが受け持つ感情を限りなくゼロに近づける、感情の微分こそが共感とも言えるか。違うか。
分けて、分けて、分けて。どこまでも分割して、誰もが乗り越えられるような敷居に下げて、皆で乗り越えていく。それが共感の在り方であり、人間の強さだ。
「なら私が思っていることは間違っていないのね。人は、ひとりじゃ成長できないって」
「合ってるよ。それに補足だけど、さっきのには喜びを分かち合うって意味合いも勿論ある。まぁ一人でなんでもこなせるのなら、この世にこんなにたくさんの人間はいらないってお話さ」
そう締めくくってふと上空に目をやった途端、妙な違和感が背中の産毛を波立たせて足が止まる。
「ん、暗い……?」
時間帯としては、恐らくまだ昼を回っていないはずだが……。目が慣れてきたせいもあるのだろうが、さっきよりも上空がどんよりとしているのが見て取れる。
――と、そうこうしているうちに凪いでいた風が急に騒ぎ出す。一陣の疾風が、周囲の砂をさらさらと巻き上げ駆け抜けていく。
「まさか――空っ!」
俺は慌てて上空を見上げようとする空の頭を下げさせた。
――――ジュッ…………――
『……っ!?』
案の定、この場から少し離れた所で肉が焼けるような音が鳴る。そしてその音を皮切りに、俺達の周囲に次々と雨粒ならぬ〝酸粒〟が――――
空一面の黒雲海――その中でもひときわ異質を放つ、より突出した黒さを誇る一塊の雲。その雲を例えるとすれば、無数の悪役の中でも一層強力なオーラを放つボスキャラクター。そんなボスから、ここにきて攻撃が放たれ始めたのだ。おいおいゲリラ酸雨だけは勘弁……っ!
俺達はすぐさまフードを持ち上げ、袖を限界まで伸ばし、生身の部分がなるべく外に出ないようにする。そして周囲に雨をしのげるような場所を探し出す。
「――よし、走れっ!」
俺は空の手を引き、咄嗟に見つけた大きな四角い瓦礫の下へ向って走り出す。あの分厚いコンクリートの塊の下なら大丈夫であろう、と。むしろそうであってほしいところだが。
地面に転がる様々な障害物を越えて走る。けれどその間にも俺達の体には容赦なく酸の雨が降り注ぐ。幸いにも羽織っている耐酸性強化のコートは予定通りに働いてくれているようだった。今のところコートを浸透する気配もなし。
もし仮にこのコートを羽織っていなければ、酸は衣服など眼中にあらずと融解させて、生身となった俺達の肌を焦がすか溶かすかどうかしていた事だろうな……。
上空からの奇襲に耐え切り、俺達はようやく四角い瓦礫の下へと辿り着き、その空いている地面との隙間に滑り込む。幸いそこは二人の人間が入り込めるサイズの洞窟のような空間だった。
俺達は空間の突き当たりに背を預け、隣り合って座って呼吸を整えた。規則的な形で継ぎ目の見当たらないところから、この瓦礫はひとつの部品のようなものらしかった。動いたって崩れる心配はないだろうが、なるべくじっとするよう心がけはしておく。
三メートル程ある奥行きと、幅と高さが二メートル程あるこの四角い空間は、さながら男の子定番の秘密基地といった感じ。この絶妙な空間は閉塞感を感じるどころか逆に安心感すら与えてくれる。秘密基地界の黄金比だ。
ただし、今この場にいるのは十八歳の青年と、十七歳のいわゆる女子高生。多少なりとも狭く感じるのは仕方がない。
「……長く吸ってるとまずいかもな」
俺達は酸の付着したコートを脱いでから、効果があるかどうかは別にして都市制服の裾を鼻と口に当てた。俺は科学には心得があったが、化学ともなると樹脂系統を除くとお手上げだった。
辺りに充満してきた鼻の奥を針で突くような異臭は金属類が溶ける臭いだろう。こうして発生する有害なガスも、地上で生活が出来ない理由のひとつでもある、と聞いた事がある。
「不思議な音ね」
空はそう直感的な感想を口にした。
「やっぱり音も普通じゃない、か」
恒例である、ざぁぁ、という音はまるでしなかった。代わりに巨大生物の鼻息のような、しゅーしゅー、とひとつひとつが長い音が続く。静かといえば、静かな雨。物音立てず、着実に事をこなしていく暗殺者のそれだ。
「久しぶりね、雨を見るのも」
空は俺のすぐ隣で膝を抱えて座り、膝小僧の間に顎をちょこんと乗っけながら、しかもちょっと首を斜めに傾げながらそう言った。
「地下で降ったら降ったで大変な事になるなぁ」
空の愛くるしい自然な姿勢を横目に、俺は思わず上の空で答えてしまう。無意識な女性的仕草はやっぱりこう、鼻の下が伸びるって言ったらおかしいけど、目がいってしまうな……。空じゃなかったら間違いなく睨まれるか何かされただろう。
……いやまぁそれはそれとして、実際に狭い地下で雨が降り続きでもしたら、たとえノアの箱舟があったって逃げられはしなくなるだろうな。
「空は雨宿りってした事あるか?」
などと俺は自然、世間話を始めてしまう。複雑な話ばかりしていたって、胸の内に降る雨が止むわけでもないし、時間を潰しつつ心を落ち着かせるのにはこれが一番いいのかもしれないし。
「いいえ。言葉は知っているけれど、実際にしたことはないわ」
「まぁそうなるよなぁ。あのご時世じゃ濡れずに家まで帰る方法なんていくらでもあったからな」
事実、どんなに不意打ちの雨雲が生まれようとも、その雲が雨を降らす前に警告がでたものだから。生身用の即撥水スプレーでも持ってればそれで事足りたし。
「優星はしたことがあるの?」
「俺は正直ないな。どっちかって言うと雨が降ったら外に遊びに行く子だったよ。ははっ、今思えば変な奴だったか?」
「なぜ外へ?」
「どうかな。雨が好きだったからかもしれない。普通の人は雨が降ると嫌だなぁとか言うけどさ。あんなに綺麗な水が降るのも地球くらいだって聞いてたから。そのありがたみを全身で受けなきゃなとでも思ってたんだろうな」
今じゃこの有様だけど、と付け足して、俺も降り頻る常識外の雨を黙視する。ただこうも暗いと、雨粒が何色かすらも判らない。
こんな雨が何億年でも続けば、地球はいつか溶けて無くなっちまうんじゃないか、なんて思ってもみたり。それかそのうち溶けるもの全部溶けてガス惑星みたいになったりして……などどいう幼い珍発想が溢れてくるのも、この黄金比の仕業であるに違いない。
「前にこーすけが言ってたわ。地球には自浄作用っていうものがあって、この雲を作ってしまっている原因さえ消えてしまえば、すぐに元の空に戻るかもしれないって」
「原因……か。専門家が言うにはあの日に世界中で発生した火災の煙が原因だ、って言ってたけど、それならもう原因はなくなってるはずなんだけどな。十年も経ちゃ燃やすものもないだろうに」
「綺麗な雨が降るようになるにはまだまだかかりそうね」
「原因が解らない限りは――お、通り雨か? もう止んだみたいだ」
いつの間にか一風変わった雨音が消えていたから、是非そうであってほしいとばかりに空間の入り口に出て外の様子を窺う。
確かに雨は止んでいた。物凄く突発的かつ短期的な現象だ。なにか複雑な要素が合致した瞬間にだけ降る特殊なものなのかもしれない。そう考えると危険は別として、体験談としてはラッキーな部類だ。
外には白い靄が漂っていた。その場に停滞するような霧とは微妙に違う、ゆらゆらと魂が天に昇っていくかのような揺らぎをもった靄だ。恐らく地上に残る酸が物体を溶かしている途中なのだろう。
すぐ蒸発でもしてしまうのか、足元に水溜り――というか酸溜り? みたいなものは近くに見られなかった。地面は雨が降る前とさして変わらない。うん、気をつけて歩く必要はなさそうだ。
大丈夫そうだと空に伝え、俺達はのそのそと避難場所から這い出て無事生還。
……しっかし雨宿り初体験がこんなにもスリリングな〝酸宿り〟になるとは……。いつかまた美しい雨を全身に浴びてみたいと思う俺は、まだまだ若いのか、あるいは幼いのか。
外に出た俺達は、目的の場所が近付いてきたという事に気が付いた。さっきは走るのに必死であまり周囲を見ていなかったからだろう。
「――――これ、登れるかな……」
複数の瓦礫が少しずつずれて積み重なるその上に、霧が渦巻く目的の平面な大地がある。他を見回しても登るのが不可能なレベルの垂直な瓦礫ばかり。ともなれば瓦礫がうまく交互に積み重なってくれているここが、登るにしては唯一であり絶好のポイントだった。
まず俺がひとつめの瓦礫をよじ登り、下にいる空に手を伸ばす。か細い指をしっかりと絡み取り、引き上げる。その繰り返しで俺達は次々に上へと登っていった。
ものの数分で、俺達は目的の大地へと辿り着いた。振り返ると軽く十メートル以上は登ってきた事がわかる。日頃の仕事で体を鍛えていなかったら無理だったかもしれないな……。あと空がハタケみたいな人でもアウトだった。
「ふぅっ……よし、着いたな」
辿り着いたものの……目の前に現れた霧はまさに壁だった。幅はざっと見て裕に百メートル走のそれだ。暗くて確定は出来ないけど高さは幅以上にある。ずっと形の崩れないこれは、やっぱり意図的にこの先を隠しているかのようにさえ見えてしまう。
もしやこの先は湖やら落とし穴やらの類があるのではないかと、恐る恐る霧の向こうに片足を入れて探ってみると、足は霧を柔らかく突き抜けて、以外に平坦な大地に爪先が着く。臭いも特になく、もぞもぞと何度か動かしてみても、すぐ向こう側には障害になるようなものはなさそうだった。
「迷いはないか?」
傍らの空に問うと、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、ないわ。この向こうにあるものがもうわかっているから。ただ見たことのあるものを見に行くだけだから」
そう言って空は霧の向こうを見据えるかのように視線を飛ばした。彼女はあの日、実際に稼動している邪機を見た。だからこの先にあるものこそが、世界を破滅に至らしめた元凶だという事は、俺よりも遥かに彼女の方が理解している。
だからそんなに軽々しく、行こう、だなんて俺が言えるはずもなく――――
「……?」
――と、不意に俺の右手に何かが触れた。見ると俺の腰元にふわりと、まるで何かを求めるかのように、手のひらを上にして浮かぶ空の手があった。
「空…………?」
空が今どんな気持ちで手を伸ばしてきたのかはわからない。けどひとつだけ言える事は今の彼女は〝能動的〟だ。
「行きましょう」
俺はまさか空に誘われるとは思いもせずに驚いたが、同時に嬉しくもあった。彼女がこうして能動的になる理由。それは彼女の心に芽生えたものがあるからこその他ならないからだ。
しばらく驚きと喜びに足止めを頂戴していた俺に空は、まだ? と言わんばかりに俺の目をじっと見つめてきた。その瞳は相変わらずの虚無を徹底してはいるものの、俺はその虚空の奥にほんのわずかばかりの、生まれたばかりの矮小な星の煌きが見えた気がした。小さな小さな――けれど、彼女にとってのそれはビックバンだ。
そう、今はたったそれだけの光でもいい。米粒よりも微生物よりも原子よりも小さくたっていい。いつの日にかその一点の光が宇宙の誕生を、無限の始まりを告げるのを、俺は心待ちにしていなければいけないんだ。
「あぁ、行こう」
俺は頷いて空の手に手を添える。途端に例えようのない温かみが手先を通じ、心の隅々までをも包み込む。今ばかりは、彼女の手先の方がずっとずっと温かいような気がした。
答えを、見つけに。
そんな空の想いが光の速度を超えて俺の思考に伝播する。
たとえこの先に何が待ち受けていようとも、この手は決して離してはならないものだと俺は直感した。離してしまえば何もかもを失ってしまいそうで、手を繋ぐ行為そのものが命がけのようにも思えてしまう。
それは向こうも同じなのか、俺達は互いの手を、爪が食い込むほど強く握り締めた。今やこの痛みこそが、俺達をこの先へと進ませる原動力になる。
――――そして俺達は足並みを揃え、未知にまみれた元凶が隠れる霧の中へと、吸い込まれるようにして紛れていった。




