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「うわぁ、ホットっと……」

 地下一階のフロアに着いた途端、強い湿気を含んだ温風が私達一行を取り巻いた。夏の植物が放つあの独特の自然の香りが鼻をつき、呼吸をすれば他の階層よりも爽やかな風味の空気が肺を満たす。空気がおいしいとはよく言ったものだ。

 目の前に広がっていたのは黄緑色の若草が生い茂る畑。その間をからからと流れる水の音が耳に懐かしい響きを残す。周囲に漂う空気は地下都市と感じさせないくらいに〝自然な自然〟。本当にここは地下都市なのだろうか、と強い疑問を抱く場所。それがこの地下一階のフロアだ。

「ここはおいらが一番落ち着く場所だなぁ」

 鼻の穴を大きく開いて息を吸うハタケ。彼は学校が終わるとここで畑の手伝いごとをしているのだ。

 地下一階には食料を提供するための超巨大農場や各階層の人工灯制御装置、地下都市全ての電力をまかなう発電所、それから地下水を濾過する施設などと、主に地下での生活を支える為の重要な施設が設置されている。

 未だにここが元々病院の地下シェルターだったということが信じられない。けれど生き延びようという努力は折られることなくこうも反映され、現に今、私達は生きているのだ。

「多分あの一番奥だ。発電所のとこ」

 歩きながらハタケが指差す方向には巨大な発電所がある。院長の姿が見当たらないから、きっと私達より先に着いているかあとから追いついてくるのだろう。

 発電所の近くまで行くと、タービンの回る低い稼動音がわずかに聞こえてくる。規模は大きいものの、発電所の防音設備は非常に整っていて、周囲には全くストレスを感じさせない程度の音しか流れていない。振動も同じ。大掛かりな発電施設なのに、人々が不安がる要素が全くない。

「地熱発電だな。古い方法だけど、地下(ここ)だと意外と有用なんだ」

 優星が分厚いコンクリートに囲まれた発電所を横目にこーすけに語り掛ける。

「それがメインとサブにバイオマスですね。まぁ地下ならそれくらいしか発電方法がありませんから……」

 地熱発電とバイオマス発電。その二種でしか地下都市の電力を補えなかった。なにせ地下では太陽光も風力もまるで使えないから……。

「そうだ! この前のどっかに温泉作ろうとか意見でてたよなぁ?」

 ハタケが突然目を光らせて言う。……そういえば、定期的に行われる大集会で年配の人が意見を言ってたっけ。

「あ、そんなコト言ってたね! 入りたいなぁ温泉んんんー……。ねぇ優星、作れるでしょー?」

「温泉か! そりゃぁいいね。さすがに本物が湧いたらここ水没しちゃうから、発電所で発生した熱を使うってのが理想的だな。帰ってきたらケンさんに検討してもらうか……」

 ――などとそんな事を勝手に企みながら私達は長い発電所の壁際を進む。……温泉は、いいかもしれない。私は約十年間もお風呂に入っていないから。そういうとなんだかとてつもなく汚く聞こえるけど、私が入っていないというのはあくまでも湯船の話。部屋にバスタブはないのだ。

「お! 来たね」

 少し入り組んだ発電所の奥の角を曲がった途端、院長の姿が現れる。そしてその背後には、天井まで続く銀色で細長い円柱状のパイプのようなものが建っていた。なんだろう? これは。私はこんな所までは来たことがなかった気がする。

「うっわぁ、なんだこれ!」

「へぇ、おいらこんなとこ初めて見たよ。こんな所あったんだなぁ」

 みんなも驚いているところを見ると、やっぱりここには誰も来たことがなかったらしい。

「なになに? なにがあるのー?」

「〝エレベーター〟だよ、スズちゃん。いつもはここまで来れないような通路の仕組になってるというわけだ。長年の君達〝地下都市探索隊〟にも気付かれなかったような、ね」

 ほら鍵だ、と言って院長は手に持っていた小さな鍵をちらつかせる。その様子にこーすけとハタケの体が一瞬ビクリと反応した。

「んー? お二人さん何か心当たりでも?」

 その様子を見て院長は両手を腰に当て、二人の方を見ながらニヤリと白い歯をたっぷり覗かせる。

「あ、いやちょっと鍵恐怖症でして……」

「そ、そうだよう」

 珍しい病名を口にする二人。もちろん院長は知っているだろう。彼らがどのような経緯で鍵恐怖症になったのかを。

「ははぁ、しっかり反省してるじゃないか。まぁこういう所〝も〟ね、電子的な施錠より物理的な施錠の方が効果的なんだよ。プログラムの突破と、鋼鉄の鍵を破壊するのとではどっちが大変かな? お二人さん」

『鍵を壊す方が大変です!』

「ハイ、ご名答」

 院長は小さく縮こまる二人を笑いながら、エレベーターの横に設置されている小さな箱に体を向ける。その箱の蓋にはしっかりと、南京錠と呼ばれる古いタイプの施錠が施されていた。

 カチリ、と鍵の回る懐かしい音。蓋が開くと中には大きな丸いボタンがひとつだけ堂々と設置されているのが見えた。赤く塗られたそのボタンはどこか危険な香りがぷんぷんする。

「いつも思うけどさ、赤いボタンって怖いよなぁ。それにひとつだけってのも」

「そう思ってくれるようにと、こういうのはデザインされているからね。心理的なものさ。これは特に意味は無いよ。ひとつだけというのはこのエレベーターはここから上に行くしかないからだよ。余裕があればここから地下五階まで繋げてもいいんだが……」

 それから院長はボタンを押した。すぐにブゥゥン、というお腹に響く音と共にエレベーターが起動する。すぐさま扉が左右に開き、空っぽの空間に私達一同を受け入れてくれた。

「うっわ、意外と広い」

 こーすけが我先にと先陣を切り内部を見渡す。それに続いて私はスズの手を引きながら中へと入る。それから最後に院長がボタンの箱に鍵をかけてから乗り込む。

「この地下都市初期に造られたものだな、こいつは。俺は運搬作業を何度か手伝ったから見た事があるよ」

 と、どうやら優星はこのエレベーターの存在を知っていたらしい。彼は私達の知らないことを沢山しっている。

 エレベーターの内部はかなりの大型だった。奥にはお約束の鏡が設置されていて、中に入ろうとする私達六人を反転した世界に映し出す。


 ブォォォォン――――…………


 小さな振動と内蔵がフワリと踊る感覚。久しぶりで慣れない感覚を味わっているのか、あるいは耐えているのか、誰も喋ろうとはしない。

「うぇえ、変な感じぃ……」

 くぐもって聞こえる苦々しい声で、スズまずが沈黙を打ち破った。そこそこの速度で上昇しているようで、私もあまり気分がいいものではない。

 上昇中、私はふと鏡の方を振り返った。途端、鏡の中の虚ろな視線と交差する。一瞬目を逸らし、再び自分の目を見つめる。何度見ても変わらない、見つめ返してくる感情のない、色のない、瞳――。

 私はその視線が嫌で、すぐに扉がある方に向き直った。鏡はいつだって自分自身を見つめ直す機会をくれるもの。……まぁ、何度見つめ直しても、鏡に映る自分は不変なのだけれど。……だから、私は鏡が嫌いだ。でもいつの日きっと、大好きになる、と信じている。

 やがて、軽い衝撃と共にエレベーターは止まった。上昇したのはおよそ一分ほど。いったいどれほど上昇したのか、またこの地下都市が地上からどれくらい下にあるのかは、私にはわからなかった。

「さぁ、着いたよ」

 静かに扉が開くと、エレベーターの内部にいきなり肌の表面を冷ややかに撫でる風が入り込む。久しぶりの冷気に全員が思わず身を縮こまらせる。……自然の、冷たさ。この肌の上を走る鳥肌の感覚が懐かしい。

「これは温度差が凄いな……」

 暖かな地下一階とは正反対の気温。夏場から冬場にテレポートしたみたいで、既にみんなの吐く息は薄っすらと白みを帯びていた。見慣れてはいたものの、いざ十年ぶりに目にすると、思わずふぅーと細長い息をしてみてしまう――のは院長以外の全員だった。

 一行がエレベーターを出ると、その向こうには薄暗い電灯が寂しく光る小部屋のような空間があった。両側の壁には太い管のようなものが何本も通っていて、院長が言うにはこれは換気用のパイプだという。

 部屋の一番右奥には白く点灯している四角いボタンが二つあった。『開』と『閉』。この空間と〝外〟を隔てる扉かなにかを作動させるものだろう。

「あのシャッターの向こうはもう地上だ。正確にはこの空間も既に地上だけどね」

 ぽつりとこぼす院長。確かにこの空間が位置する場所は地表。地球全体で考えれば地上も地下都市のある場所も、一括してリンゴの皮のようなレベルなのだろうけれど……。

 だけど私達にとっては違う。このわずかな距離の差があってこそ、私達の命は助かっているのだ。

「そうだ空、コートを」

 優星は思い出し、鞄から小さく折りたたんでいたコート取り出して私の背に羽織らせてくれた。

「ありがとう」

 私と優星はコートを羽織り、袖を通す。それを確認した院長は、準備はいいかな? と私達に問いかける。

 問いかけに一同がこくりと頷くと、院長は『開』ボタンを長押しした。すぐにギギ、ギギ、と悲鳴のような騒々しい音を立てながらシャッターが上がっていく。少しだけ開いた瞬間、かまいたちのようなひゅるりと甲高い音と共に、冷たい風が我先にと中に入ってくる。

 やかましい音をたててシャッターが開いていく。風は徐々に強くなる。けれど強くなっていくのはそれと、〝早く先を見たいという気持ち〟だけ。どうしてか明るさは薄暗いまま一向に強まらない。今の時間帯はまぎれもなく朝だというのに。

 みんなは上がるシャッターを見つめながら体に腕を回して震えていた。当然だ。地下都市は年中快適に過ごせる気温に設定されているから、震えるような寒さなんてものはまず体験できない。体が驚くのも無理はないだろう。

 いつもは思わず野生の熊かなにかと勘違いしてしまうほどのハタケの体も、今は寒さに縮こまっていてぬいぐるみ程度の大きさにしか見えない。それでもあのお店のショーウィンドーに飾ってあるような巨大なタイプのものだけれど。

 一方の私はコートを着ているからかもしれないけど、寒いとはいえ震えるほどではなかった。もともと四季の中で一番好きで生き生きとしていたのが冬だったから。だから私にとって、この寒さは懐かしく好ましいものですらあった。

「そ、空ちゃんは今どんな気分?」

 こーすけが歯をカチカチと鳴らしながら聞いてくる。どんな気分――と聞かれれば……。

「私は……悪い気分ではないわ」

 と、答えるほかはない。

「さぁ、もう見えるよ」

 シャッターが全て開く――――途端、風の音に混じって息を呑む声が聞こえてくる。

『――――…………!?』

 まず、目の前に現れたのはただの闇だった。ぽっかりと、まるでシャッターの向こう側は落とし穴のように。ただ、完全なる暗闇ではないところが、ここが地獄ではなく今の地上なのだとかろうじて理解させてくれる。一応、大地と空の区別がつくからだ。

 誰もが予想していた景色と遥かに違う、曇天という言葉では言い表せないほどに、空一面に重々しく広がる黒い雲。黒雲なら嵐の時とかによく見た記憶はある。けれどそれはどんなに黒かろうと、しょせんは灰色の域を超えない程度の黒っぽさだ。

 だけど今の空をうねっているものは、まるでわた菓子に墨汁をぶちまけたかのような雲。恐らくこの分厚い雲が、射し込むはずの太陽光を極限まで薄めてしまっているのだろう。そして、太陽の光が届かないゆえに、生き物にとっては死の世界となってしまった。

 今は冬の早朝のはず。だから季節からすれば――もっとも四季という概念がまだ地上に残っているなら、今の時間帯のこの暗さには納得がいく。ただそれでも暗さの度合いはどこまでも異常だった。

 そして、地表。完全に元の姿を失った地表。果てしなく見晴らしのいい、視界を遮る木々や建物が存在しない大地。建物だらけで地平線がまるで見渡せなかったあの頃の光景はどこにもない。今や視力の限界まで遠くを見通せる。

 裸の大地は起伏の輪郭だけがはっきりしていて、例えるならば夜の砂漠。無限に広がる黒い砂丘。

 低く大きく、お腹の底を揺らすような音を響かせて、悠々と大地を撫でていく姿の見えない風。風は遮る物がなにもないと、こうも巨大な自然現象として堂々と私達の目の前に現れるのか。建物だらけのあの街を駆ける風は、いったいどれほど窮屈だったことだろうか。

 …………とにかく――


 ――――『上』と『下』の差は歴然だった。


 久しぶりに目にする〝上〟には、暖かな太陽の陽射し、穏かな微風、人々の喧騒と温もり、輝かしい街並みがあるものだという希望を抱いていた私。あわよくばその世界に再び住んでみたいと願ってみた私。

 狭苦しく人工物ばかりの地下都市という名の箱庭に縛られることは、もう二度とない、って。あの日はただの冗談だったんだ、って。きっと世界的なエイプリルフールの企画かなにかだったんだ、って。

 …………けれど――――今ばかりは、〝下〟の方が何百倍もマシだと思えてくる。なんて、こと――――。

「……暗い……ねぇ」

 私達にはどう見えているかはわからないけれど、視力のないスズでさえその異常な光景にそれ以上は喋ろうとしない。いつもなら楽観的に明るく振舞うはずの彼女が今はこうだ。景色よりも雰囲気その時点で既に異常だからだ。

「気味悪い暗さだなぁ……」

「これが――地上……? 僕、信じられないな……ちょっと……」

 災後初めて見る地上の様子にみんなは息を呑む。十年前、自分達がここに住んでいたという確証がまったく持てない。もはや今の私達は未知の惑星に初めて降り立った宇宙飛行士のようなものだった。

「信じられないかもしれないけど、確かにこの景色は私達が十年前に住んでいた地上そのものだよ。さぁ――これでも、君達は行くかい?」

 院長の問いに私は一瞬だけためらった。この地上を自分の足で踏みしめるということは、すなわち視覚だけじゃなくて身をもってして受け入れなければいけない。そうなってしまえばもう、淡い希望を抱くことすら無理になる。

「あぁもちろん。ここまで来て戻る方が俺はよっぽど堪えるさ」

 優星はそれがどうしたと言わんばかりに肩をすくめる。……そう、私だって彼が着せてくれたこのコートを脱ぐ気はない。地下に逃げることだって今はしたくない。

 あの夢が現実になるくらいなら、荒廃した故郷を練り歩く方がずっとずっとマシ。なんとしてでも謎の手がかりを見つけなくちゃ。

「私も、もう決めたことだから」

「……よし、分かった。しばらくは探索隊が作った道を辿れる筈だ。その道は一応の安全が確認されてはいるけど……残念ながら他の地下都市の入り口らしき痕跡はまだ見つかってはいない。限られた範囲で君達が何かしらを見つけてくれるのを期待するよ」

 言って、院長は私と優星の肩に手をがっしりと乗せた。その力強さにもういっそ、このまま院長も着いてきてくれればと思ってしまいそうになる。

 暗地もとい地上に向かう理由の〝表向き〟は、別の地下都市を探してみる、という設定だった。大人達に夢の話をしたところでまともに受けあってくれるわけがないし、夢の内容が内容なだけに周囲にあまり知られるのもよくはない。

 よって、優星がぱっと思いつきで答えた理由が、別の地下都市に行ってみたいということだった。そしてその理由も市長と院長しか知らないはずだ。

 私達が暗地へ向かうことを決意した本当の理由。それは夢が『空の災』に関していたことから、夢の謎を解くためにはそれに関連する事柄を徹底的に調べる必要があると踏んだからだ。

 残されていた資料を調べた。夢を見るという人を探した。夢を見る人がいた。夢の差異も確認した。地下都市内で調べられることはおおかたやり終えた。あとは――〝根本〟を調べることだけだ。

「まぁちょっと冒険してくるよ。どれくらいで帰ってくるか分からないけど、そんな長い時間はいるつもりないし、危なかったらすぐ戻るさっ」

 近所に遊びに行ってくる、といった感じの軽い口調で優星は白い息と共に笑顔を振りまいた。そんな彼の傍らに立って、私も暗黒の世界にいったん背を向け、みんなのいる明るい世界を目前にする。

「それじゃみんな、またあとで」

 またすぐに会えるというのに、背後に構える風景と空気のせいで、まるで最後の別れのような光景に仕立て上げられてしまっている。

『いってらっしゃい!』

 温かく力強く揃った声に背を向けて、私と優星は『暗地』という名の『故郷』(ちじょう)へ帰ることにした――――

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