掌の記憶
チャイムに応答して出向いた玄関先では、二人の少女が俺を見上げていた。
「やっほー優星!」
「お、来たね」
聞き慣れてきた声に片手を挙げ、待ってましたと俺はオセロの風貌であるその二人組を歓迎する。
一人は白を基調とした制服に身を包み、染めているらしい煌びやかな白銀色の髪を腰あたりまで伸ばしている子。俺に向かって浮かべている笑顔の雛型には、まだ小学生くらいの幼さが居据わっているも、その他の全身から滾らせる覇気に関しては、世界征服を企まんと試みる悪党と比べても遜色のない強烈さを帯びている。
そしてそんな小柄な少女――スズちゃんの傍らに立つ、彼女とは似ても似つかぬ対極的な姿の人物。喪服のような黒い制服に身を包み、肩口でさらりと揺れてきめ細かく輝く髪は黒鉛のようで美しい。それで、彼女をそう――なによりも凛々しく仕上げている黒い瞳は無感情に俺の瞳をじっと捉えている。
一瞬、俺はその瞳の引力に飲まれ立ち眩みでもしてしまいそうになった。そう、真空に引き込まれる空気のようにして抵抗なんか出来っこない。虚無の引力――。そう表すとおかしな具合だが、彼女の発する力は紛れもなくそういうものだった。感情的に捉えにくいのは、彼女の感情があまりにも希薄だからだろう。
……だから、今の彼女には機械のような寡黙な美しさがある。だがそこに感情が加われば、もはやたとえようのない美が生まれるだろうに……。
俺はがらんどうの、さながら端整な透明の花瓶だけのような彼女に感情を添えてみたい、と思っている。あるいは、彼女の底なしの重力に〝ただ惹かれている〟だけなのだろうか。
――――深谷、空。とにかく俺は彼女から目が離せないでいる。
「……どしたの? 優星」
スズちゃんは俺の顔を下から覗き込み、片方の眉を持ち上げて心配そうな表情を浮かべる。
「あ、あぁごめんごめん。あと彼らはまだ来てないよ。そっちはなにかいい情報は手に入った?」
慌てて空から視線を逸らし、そのどこか懐かしい面影から意識を遠ざける。
「ええ、気になる点がいくつか」
「おぉ! それはよかったよかった」
ひとまず二人を部屋の中に招き入れると、すぐさま空がひとつの異変に気付く。
「……? そこはなに? 優星」
空は壁に不自然に開いている場所、オレンジ色の明かりがうっすらと覗く小さな入り口を指差す。
「あぁ、そこが俺の秘密の工房さ」
「ホント!? どこから入るの!?」
「あ、ごめん見えないんだったね。ほらおいで、招待しよう」
そういえば、と気付いて俺はスズちゃんの温かく可愛い小さな手を拝借して工房の入口へ案内をする。しっかし相変わらず彼女が盲目だという事を忘れてしまうのは困ったものだ。誰がどう見たって、視力は生きているようにしか見えない。むしろ見なくていいものまで全部見てやるってくらいのスタンスだし……。
「……エヘヘ」
不意に、スズちゃんが小さく笑う。なんというか、照れるような控えめな笑い方。
「……? どうした?」
「なんか優星の手ってパパの手みたい。すごく安心するっ」
「パパの……手?」
突拍子もない事を言われて首を傾げる俺に、スズちゃんはうんうんと何度も頷く。そんなに歳くってたかしら……俺。
「そう、パパの手だよ」
熱っぽくそう言って、スズちゃんは俺の手を握る力を強めた。か細い云々よりもまず小さい、そんな手が生み出す力は痛いほどに強い。
……彼女の両親は空の災で亡くなったと聞いていたが、それでもやはり覚えているというのだろうか? 正直、俺はそういう感覚なんてまったく覚えていない。いや、覚えようとして覚えられるものではないと思うが……。
俺の手のひらが覚えている感覚、馴染みのある感覚は、温かい情のこめられた人肌の感覚なんかじゃない。落ち着く、安心する、笑みがこぼれる、幸せになれる一般的な感覚とは程遠いものだ。むしろ真逆でもある。不安に、神経質に、顔が強張るような感覚。
――――そう、機械いじりばかりしている俺のこの手のひらが覚えているのは、紛れもない機械の感覚だ。人の手のひらの温もりになんて、この十年間一度たりとも触れた事がなかった。十年以上も前の感覚は、全部機械の感覚が上書きしてしまっている有様だから。
機械をより知る者だからこそ理解出来る本当の無情さ。融通のきかない片意地の集合体。人であれば少なからず生まれる同情なんてものは微塵たりとも持ち合わせていない。人である事さえ捨て、指令さえあれば滞りなく任務を完了させる凄腕暗殺者さえその冷淡さには遠く及ばないだろう。そして丁重に扱わなければすぐに傷付いてしまうし、常に気を張っていなければ思わぬ反撃を食らう。機械とはまるで乙女だ、などと同僚が言っていたのをふと思い出す。生憎と俺は機械の扱い方を知っていても、乙女の扱い方は知りません。
「ハタケの手は焼いたらおいしそうだし、こーすけの手なんて握りつぶしちゃいそうで逆に怖いんだよねぇ」
へらっと言うあたり、どこまでが冗談なのか判断し辛い。まぁ幸助少年はがんばるべきだな……。
「そ、そりゃ……あ、頭気を付け――」
ガツン、と思わず鼻に皺が寄るような痛々しい音。続く悲痛な呻き。あぁ、しまった……。
「ぃ、いったーいっ!」
スズちゃんの発言に気を取られていた俺は、入り口で頭を下げる必要がある事を言い忘れてしまった。死角にちょっとした突起物やらがあるわけで。
「ごっめん! 言い忘れた……。ここちょっと入るコツがいるんだ。大丈夫か?」
慌ててスズちゃんの頭を撫でる。女の子の頭にたんこぶはよろしくない。たんこぶは男の特権である。
「……エヘヘ、今ので治った治った。それにぶつけるのは慣れてるし」
「本当か? よし、それじゃそのまま頭下げてて」
俺はアスレチックのようにしてまずスズちゃんを工房に導いた。
「ちょっと待ってて」
「はいはいー」
スズちゃんを工房に残し、一度戻って空を迎えに入り口を出ようとした途端、目の前に彼女の顔が現れた。
「うぉっ――!」
距離にして数センチ、鼻の先が触れる程に。冷や汗もの……。どうやら空は俺とスズちゃんの後ろから着いてこようとしたらしい。
「あ――ごめんなさい。勝手に」
「あ、いや、これるならいいんだ。でもここ初めてだと百パーセントぶつけると思うから」
慌てて戻ろうとする空の手を俺は慌てて引き止めた。柔らかく繊細で、力をこめれば折れてしまいそうな、まるで植物の茎のような彼女の指が俺の指先に絡まる。それを手繰り寄せるようにして引き寄せると、彼女はなんの抵抗もなくふらりと俺の方へ傾く。
「……っ」
結果、彼女を抱き寄せるような格好になってしまってなんとも恥ずかしい思いをした。向こうが何も反応を示さないからなおさら。それに手を放そうにも空の手が俺の手を握る力が思いのほか強くて放せない。
「……スズの、言う通りね」
どうすればいいんだと勝手に赤面している俺をよそに、ぽつりと、懐かしむようなトーンで――いや、そういう風に俺が受け取っただけで、実際の彼女はどのような感情も抱く事が出来ないでいるのだろう…………。
「お父さんの手を握っているような感じがするわ。私の手も、まだ忘れていないから」
忘れていないというのは彼女の父親の温もりの事だろう。しかし二人して同じ事を感じるというのもまたどういう……。
「二人して変だな。まぁずっと握っててもいいけど」
けろっとそんな事が口からもれてしまった。やべ、と思った時にはもう顔がまた火照り始めていた。発する言葉を選別するよりも先に動くという、大失態にして大問題な俺の口め……。
「……?」
「じ、冗談だよ冗談。さぁ入ろう」
どもる俺を観察してくる空の瞳は変わらない。いやまったく、今のがスズちゃんじゃなくて本当に良かった。
二回ほど体を折り曲げながら、秘密の通り道を通り抜けると、明るいオレンジ色の照明が眩しい作業場が視界に入ってくる。そこに空も導いてから俺は高らかに宣言する。
「ようこそ、俺の工房『新天地』へ!」
「しんてんち……?」
「この工房の名前さ。無駄に大袈裟な感じで考えたのは俺じゃないんだけどね」
そう言って俺は工房に二脚しかなかった椅子を二人に提供する。もともと二人しかこの工房を使わないという予定だった為、来客用の椅子は用意していなかったのだ。
ふと空の様子をうかがうと、彼女は椅子に座らずに部屋の一角に設置してある稼働中の機械の液晶に見入っていた。豪雨のごとく高速で流れるプログラムの羅列や、無数のボタンに興味を示したのだろうか、それとも何を造っているのかに興味を示したのか。あるいはそもそも好奇心という感情があるのかどうか……。
「うーなにも見えないや。すごい明るいのはわかるけどねぇ」
スズちゃんは椅子に座って床の上で両足をぱたつかせながら、ものすごく悲痛な事を他人事のように言ってのける。彼女が見る光景は一律闇。いくら美しく壮大な場所でも、震え上がるほど恐ろしい場所でも、彼女にとっての視界の認識は全て、同じ……。一様の景色に彼女はどう幸福を見つけているのだろうか。
「俺、まだスズちゃんが盲目って信じられないよ……」
「そうね。私も、いつもそう思ってしまう」
空は相変わらず機械の液晶から目を離さずに言う。本当に慣れている友達ですら錯覚するほど、スズちゃんの行動はとても盲目の人とは思えないのだ。
「あはは、よく言われるよ。これでも最初は大変だったんだよ? 怖くて一歩も前に進めなかったし、ご飯も一人じゃ食べられなかったし、トイレだって……。けど毎日みんなと一緒に遊んで、訓練してたらね、いつの間にか体が慣れて勝手に動くようになってくれたの」
だから今はなんてことない、とスズちゃんはさらりと語る。慣れるとは脳がそれを普通の事として受け入れて、そのうちそれが常識レベルになるという事。スズちゃんの場合は眼球を通しての常識が薄れて、代わりに暗闇の常識が根付いているのだろう。
「ハタケもこーすけも、なんだかんだでいつも助けてくれるからさ。ま、でもやっぱくーちゃんが一番あたしの支えかなぁ」
「……私が?」
「うんうん。ま、なんたってアレやコレやらのオトコノコに言いにくい問題だっていっぱいあったし。地味な訓練とかも飽きずにずっと手伝ってくれてたもん」
あやつらは飽き性だったしなー、なんて楽しそうに愚痴るスズちゃん。なるほど確かに、彼女は思春期真っ盛りを盲目で、しかもこの地下都市で過ごし、それは今もこの先も続いていくのだ。人並み以上の苦労を、人並み以上の努力をもってして克服しなければ、ここでは生きていく事が難しかったに違いない。そして支える柱が一本もなければ、彼女は持ち前の性格もむなしく、折れてしまっていたのかもしれない。
「それは、あなたが近くにいなくちゃ私はなにもできなかったから」
「あははっ、そっくりそのまま返せるよ、それ。――あ、で、これなんの音? 気になってしょうがないんだけど」
唐突に話を変えて、スズちゃんは工房にかすかに響く機械の音を指摘した。人一倍聴力が優れているから気になるのだろう。驚いたか否かであれば否であろうが、空はようやく液晶から目を離し、視線をスズちゃんに向けた。
「機械の音みたいだわ。よく気付いたわね、スズ。こんなに小さな音なのに」
「うん、くーちゃんの声と同じところからしてるよ。なんの機械?」
音の正体は空が見入っていた機械だ。最大効率で数時間稼動させっぱなしだが、機械なだけに音を上げるわけもなく忠実に作業に没頭してくれている。
「ちょっと暗地に出る為の装備を製造中でね、加工をその機械に任せてるんだ」
「それはどんなものなの?」
「んーとほら、これが設計図。空なら見えるね。まぁ見てもさっぱりだとは思うけど……」
空は機械から離れ、俺が机に広げた設計図に視線を移す。……まぁ、確かに常人には理解し難い代物ではあるな。
「……オブストラクトコート? これは?」
「そう。例のアシッドレインから身を守る為のものさ。もし暗地で情報を探すとなったら探索隊のあのゴツゴツ装備じゃきついだろう?」
「確かにそうね。でも、行くとしたら誰が暗地へ行くの?」
――――『暗地』。それは一般に言う〝今〟の地上の事。つまり元々人間が暮らしていた世界。人間が我が物顔で闊歩していた地面の上だ。
あの日以来、何億年ものあいだ途切れる事なく地上に降り注いでいた雄大な太陽光は遮られ、それによって環境は激変して動植物はことごとく消滅した。そして太陽を一番の糧としていた人間は言うに及ばず、地上での生活権を失った。だから今はこうして地下でひっそりと暮らしているわけで。
仮に地上で何かが生きているとすれば、それはもはや微生物くらいなものだろう。いかに劣悪な環境の中であれ、生きるだけという強さだけを極限まで突き詰めれば、真空中でも、放射線まみれでも、絶対零度に触れるような極寒でも、蒸発寸前の熱波を浴びたとしても、彼らは文句のひとつも言わず黙って生き続けていくのだろう。実際にそういう生物は無数に発見されていたし。
しかし残念ながら人間は違う。酸素がまったく無ければ死ぬ。有害な放射線をたくさん浴びれば死ぬ。凍れば死ぬ。熱ければ死ぬ。探せば探すほど死因はいくらでも挙がってくる。まったく弱点だらけでどうしようもない。日本人の平均寿命の長さを引き合いに出したとしても、宇宙単位で見れば生と死のサイクルがとてつもなく短い生き物なのだ。
弱点は多かれど、それを克服する為の打開策を次々と生み出して、無理矢理にでも生きていく。突き詰めれば微生物には及ばぬも、そういう強さが人間という生物を地上の王にまで成り上がらせていたのだろう。そして今、打開策の尽きた俺達人間は、地下の王になるべく必死の努力を続けている最中なのだ。
「ま、俺は行くよ。いずれ行くつもりだったし、今回はいい機会だからね」
本当は夢の謎の手がかりを探しに行く為、がメインだが。
「行くつもり、だった?」
「いや、前から興味があってね。ほら、こういう性分だから。ただ探索隊の規定年齢に達してないからまだ無理なだけ。でも自分で勝手に行くなら年齢は関係ない。それも結局は許可がいるんだけどさ……」
「でもさ、なにが起こるかわからないなら、けっこー危ないんじゃない?」
スズちゃんの言う通り。ありとあらゆる未知の現象が入り乱れるという暗地。アシッドレインが代表的でもっとも危険というのであって、探索隊の話によると突発崩落や〝螺子嵐〟なる現象もあるらしい。
怪現象を理解せずして回避方法も知らぬまま暗地に出るというのは、自殺行為もいいところだとは思う。だが対策をきちんとしておけばそれ程までとはいかないだろうと愚考に走っていたり……。危険を冒さずして手に入れられるものはあまりにも少なすぎる。
「まだ探索隊も暗地の事を把握しきれてないけど、聞く話によると今のところアシッドレイン以外は大丈夫そうなんだ」
あくまでも楽観的にそう告げておく。実際、暗地に出る為にはそれなりの準備が必要だから毎日探索隊を出すっていうわけにはいかない。それにまだまだ地下都市上の周辺しか探索が終了していない。俺としてはもっと積極的に外へ外へと視野を広げて欲しいのだが、生き抜く為にはまず内側を固めなければならないという方針もあって、なかなか事が進んでいないのだ。
「じゃぁその雨をこのコートで?」
「そうだな、もし上手く完成したら探索隊に提供でもしてみるかってところ。特殊な金属繊維に耐酸性に富む樹脂を含浸させていくらか圧力をかけるとだ……うん、まぁ要するにあの鎧がコートになると思ってくれればいいかな」
とりあえずこれでもかと簡単に言ってから、俺は大人しく図面を丸めて机の引き出しの中にしまい込んだ。ここで地球外鉱物由来の合金繊維強化複合材料の話なんか始めるわけにはいくまい。
「よくわからないけれど、とりあえずすごいのね」
「まぁそんなとこさ。本当はもっと前から考案して探索隊に協力しようかと思ってたんだけどね。はは、もしこの場にこーすけがいたら何時間の解説をするハメになった事か」
そう苦笑いを浮べたところで。
――――ピンポーン。
いやしかし、嫌な予感というのは人間がもっとも判断しやすく、同時にもっとも当たりやすいとはよく言ったものだ。




