第68話 一本杉をめざして
すんすん、すんすんすん……
裏山にひろがる森のにおいを、緋羽莉は全身で堪能していた。
背すじをすっと伸ばして立つその姿は、一本の若木のようにまっすぐで美しい。
長い脚が大地をしっかりと踏みしめ、森の一部になったかのような安定感を感じさせた。
両目をつむり、少し前かがみのおすましポーズで、ちいさな鼻をひくひくと動かしている。
そのしぐさは、小動物のように愛らしく、森の空気に溶け込んでいるようだった。
若葉の青い香り。湿った土のやさしいにおい。遠くで咲く花の、かすかな甘い気配。
それらをひとつひとつ確かめるように、緋羽莉は静かに呼吸をくり返している。
大きな胸いっぱいに森の空気を取り込み、ゆっくりと吐き出す。
その落ち着いた所作には、ふしぎと周囲の空気まで穏やかにする力があった。
「でた、すんすん緋羽莉ちゃん」
アリスが、ぽつりとつぶやいた。
「なんだよ、それ……」
あまりにもセンスのないネーミングに、閃芽が半目でツッコミを入れる。
「ブロッサムスクエアでもね、あんなふうに、モモを探すためににおいをかいでたの」
「ふーん。それで、成果はどうだったの?」
「あのやり方だけで見つけたわけじゃないけど、モモの存在にまっさきに気づいたのは、緋羽莉ちゃんだったんだよ」
「なるほど。ムダにガタイがいいのも、ムダじゃなかったってわけだね」
言い方は悪いが、閃芽の口調には感心の色も混じっていた。
緋羽莉の身体能力の高さは、すでに何度も目にしている。だからこそ、その感覚のするどさにも納得していた。
そんな会話も耳に入っていないかのように、緋羽莉は森の香りを嗅ぎ続けている。
「なんだか、森の妖精みたい……」
りんごが、うっとりとした声でもらした。
緋羽莉のすらりと伸びた手足と、自然に溶け込む立ち姿が、その印象をいっそう強めている。
そのひとみは、あこがれに満ちていた。
「りんごちゃんもそう思う? わたしもそう思ったの! とくにブロッサムスクエアの桜の花と、ピンクの空に、すごくマッチしてたんだよ! 春の大妖精って感じで!」
アリスも身ぶり手ぶりを交えて語り、目をきらきらと輝かせた。
「春の大妖精か……わたしも見てみたかったなぁ……」
りんごは、さらに夢見るような表情になる。
きっと頭の中では、花畑の中で舞う妖精姿の緋羽莉を思い描いているのだろう。
りんごにとっても、緋羽莉はそれほど特別な存在なのだ。
「そうそう! そんな感じだったから、緋羽莉ちゃん、本物の大妖精に気に入られて、パートナーになってもらえたんだよ!」
アリスは思い出したように、興奮ぎみに続けた。
「えっ? 本当に? すごい……さすが緋羽莉ちゃん!」
りんごは目を丸くして、緋羽莉を見つめる。
その声には、心からの尊敬がこもっていた。
その視線に気づき、緋羽莉はぱちぱちとまばたきをする。
振り返る動作はゆったりとしていて、大きな体の動きには無駄がない。
黄色いひとみが光を受けて、宝石のようにきらめいた。
「えへへ……ありがとう!」
そして、太陽みたいにあかるい笑顔を浮かべた。
はにかむように肩をすくめると、しなやかな首筋がわずかに傾く。
その笑顔を見た瞬間――アリスとりんごの胸は、きゅんと高鳴る。
むかしから彼女の笑顔には、どうしても抗えないのだ。
「ね、ねえ……そのパートナーにしたっていう大妖精……見せてもらっても、いいかな……?」
りんごは、遠慮がちにたずねた。
指先をもじもじと動かしながら、上目づかいで見上げている。
大好きな緋羽莉が相手だからこそ、なおさら緊張しているのだ。
「もちろんいいよ! ちょっと待ってね……」
緋羽莉は、いつものやさしい笑顔でうなずいた。
腕を上げると、引き締まった二の腕の線がはっきりと現れる。
日々の鍛錬で培われた力強さと健康的な美しさが感じられた。
そして、左手のスマートウォッチに手を伸ばそうとした――そのときだった。
『キュ!』
ブルーに寄り添っていたモモが、ぴんと耳を逆立てた。
ふわふわの体が、小さく震えている。
次の瞬間、ブルーの体にしがみついた。
『どうしたの、モモ?』
ブルーが小声でたずねる。
モモは、森の奥をじっと見つめていた。
その赤いひとみには、はっきりとした恐怖が浮かんでいる。
耳がわずかに揺れ、空気の振動を拾っているようだった。
『なにか……怖いものが、近くにいるみたい……』
モモの言葉を正確に理解できなくても、その不安はブルーにも伝わってきた。
胸の奥が、ざわりと波立つ。
「こわいもの……?」
りんごは思わず、緋羽莉の背中に隠れた。
長身の緋羽莉の広い背中はしっかりと前を向き、小さなりんごを完全に守れるほど頼もしい。
その場に立つだけで、安心感が生まれていた。
閃芽も、すっと目を細め、周囲を見回す。
「こわいもの? 凶暴なワンダー……じゃないよね。そんなのがいるなんて、聞いてないし」
アリスは、真剣な表情でつぶやいた。
冒険は楽しいが、遊びではない。
命がかかっているからこそ、事前の情報収集は欠かさない。
この裏山には、ハネウサギがここまでおびえるような危険なワンダーはいない――はずだった。
――少なくとも、まだこの周辺には。
そのとき――緋羽莉が、ふっと顔を上げた。
表情がすっと引き締まり、さっきまでの柔らかな雰囲気が静かに変わる。
「うん。強いワンダーの気配は感じない」
声は落ち着いていて、少しも揺らいでいない。
大きなひとみが、まっすぐ森の奥を見すえた。
「たぶん……人間じゃないかな」
風の音に混じって、かすかな足音が聞こえる。
緋羽莉の耳は、それを確かにとらえていた。
「キミってば、本当に人間離れしてるよね……」
閃芽が、半ばあきれたように言った。
その言葉には、驚きと感心、そして少しの畏れが混じっている。
緋羽莉本人はというと――
「えへへ……そうかな?」
ただ、照れくさそうに笑っているだけだった。
緊張した空気の中でも、その笑顔は少しも曇らない。
そのあかるさが、周囲の重苦しい雰囲気をやわらかくほぐした。
『ニンゲンっていっても……この山って、ふしぎ小の生徒以外は入れないんでしょ?』
ブルーが、もっともな疑問を口にする。
この裏山は、結界に守られた異空間。
そこに入れるのは、限られた存在だけのはずだ。
それに、いくらモモが人間を警戒していても、さすがに子ども相手におびえるとは思えない。
「石切とか、カジラとか……そういう粗暴な連中かもしれないね」
閃芽が、苦々しく言った。
その名前を聞いた瞬間――ブルーの表情が、わずかに曇る。
あの乱暴な少年たちの姿が、脳裏によみがえった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
故郷ドラゴピアでの記憶も重なり、ブルーは小さく体をこわばらせた。
「ど……どうするの?」
りんごは緋羽莉の体にしがみついたまま、おずおずとたずねた。指先に力がこもり、不安を隠しきれていない。
「モモ……とブルーは、いったんウォッチの中に戻って」
アリスは、ぴったり寄り添っているふたりのワンダーに目線を合わせ、やさしく言った。
大好きなブルーといっしょにウォッチに入っていたほうが、モモも安心できるはずだと考えたからだ。
『うん、わかった』『キュー!』
ブルーは神妙な顔でうなずき、モモはブルーといっしょにいられることがうれしいのか、少し安心したような声で返事をした。
「だいじょうぶだよ。なにかあっても、わたしとアリスが守ってあげるからね」
最後に、緋羽莉が身をかがめて、やさしく声をかけた。
その笑顔は、どんな言葉よりも心強い。
まっすぐに相手を見つめる黄金色のひとみにも、迷いはひとつもない。
ふたりのワンダーの不安も、すっとやわらいだようだった。
淡い光に包まれ、ブルーとモモはアリスのウォッチの中へ戻っていく。
「どっちがこのコたちの主人か、わからないね」
閃芽が、ずいっと顔を近づけ、いたずらっぽく言った。
「うるさいなあ」
アリスは口をとがらせて文句を言う。
だが、内心では少しだけ否定しきれない自分もいた。
緋羽莉のほうが、人間にもワンダーにも自然に好かれている――そんな気がしていたからだ。
「じゃあ、いちおう警戒しながら進もう」
アリスの言葉に、全員がうなずく。
一行は、表情を引き締めて山道を進み始めた。
相手が同じ学校の児童だったとしても、ハネウサギがおびえるほどの相手だ。油断はできない。
森の空気が、さっきまでよりも重く感じられた。
☆ ☆ ☆
やがて、アリスたちは森を抜け、開けた場所へ出た。
視界が一気にひろがる。
そこは、ゴツゴツした岩があちこちに突き出た原っぱだった。
地面は乾いた土とまばらな草に覆われ、その先には、ふたたび深い森が壁のように立ちはだかっている。
「はあ……」
りんごが気が滅入るとばかりに、小さくため息をつく。足取りはすでに重い。
このまま進めば、緋羽莉の背中におぶさることになるのも時間の問題だろう。
彼女の広い肩と厚みのある背中は、どんな重さでも受け止められそうな安心感を持っている。
その頼もしさは、見ているだけでも伝わってきた。
だからこそ、その誘惑に負けてはいけないと、なんとか気力をふりしぼる。
――そのとき。
「なんだよ。だれかと思ったら、オマエらだったのかよ」
野太い声が、岩場に響いた。
一同が振り向く。
近くの大きな岩のかげから、大柄な少年が姿を現した。
ツンツンと逆立った髪。がっしりした体格。ふてぶてしい態度。
一瞬、緊張が走る。
だが――
「なーんだ、カジラじゃない」
アリスは肩の力を抜いた。
現れたのは、クラスメイトのカジラだった。
そのうしろには、二人の男子が控えている。
蝶ネクタイに短パン、サスペンダー姿のおぼっちゃま風の少年と、もうひとりの取り巻き。
どうやら、彼らもパーティーを組んで冒険しているらしい。
『キュ~……』
ウォッチの中で、モモがおびえた声をもらす。
さっき感じた「こわいもの」の正体は、カジラだったのだ。
ブルーも、その理由はよくわかっていた。
カジラは見た目ほど悪いヤツではない。
だが、乱暴で威圧感があるのは事実だ。警戒心がとても強いモモがふるえるのも、ムリはない。
その証拠に――りんごはふたたび緋羽莉の背中に隠れ、閃芽は心底うんざりした顔をしていた。
「オマエらも、てっぺんの一本杉をめざしてんだろ?」
カジラが、ぶっきらぼうに聞いてくる。
『いっぽんすぎ?』
ウォッチの中で、モモに抱きつかれているブルーが首をかしげた。
「裏山のてっぺんにある、大きな杉の木のことだよ」
緋羽莉が、小声でウォッチに説明する。
離れていても、よく通る声だった。
「むかしから、ふしぎ小の子たちのあいだではね。その一本杉にたどりついて、無事に戻ってくるまでの冒険が、腕試しとして行われてきたんだって」
『へえ……』
ブルーは納得した。
つまり今回の冒険には、ちゃんとした目的があったのだ。
――でも、それなら最初に言ってほしかったなあ。
ブルーは、心の中でアリスに小さく文句を言った。
四人がだれも目的について言わなかったので、ブルーもつい流れに乗ってしまっていたのだった。
アリスも、うっかり伝え忘れてしまっていたと、心の中で反省した。
「でもね……いままでに達成できた人は、両手の指で数えられるくらいしかいないらしいよ」
『え』
ブルーは固まった。
今回は、のんびりした冒険だと思っていたのに――まさか、そんな高難度の試練だったなんて。
急に、胸の奥が冷たくなる。
りんごがやけに不安そうだった理由も、これで納得できた。
この先、はたしてどんな危険が待っているのか。
想像するだけで、体がこわばる。
ブルーは、不安をまぎらわせるように、モモをぎゅっと抱きしめた。
『キュー!』
モモはうれしそうに顔を赤らめ、目をきらきらと輝かせた。
不安よりも、ブルーといっしょにいられるよろこびのほうが大きいようだった。
「一本杉を往復して、敗者復活戦にはずみをつけようってワケだな?」
カジラはニヤリと笑った。
「……まあ、そんなところかな」
アリスは、落ち着いたようすで答える。
するとカジラは、ビシッとアリスを指さした。
「そうはいかねえ! 一本杉チャレンジまで、オマエにゆずる気はねえ! 予選のリベンジ、ここでさせてもらうぜ!」
校内大会の敗者復活戦の参加資格は、予選上位者だけなので、一回戦でアリスに負けたカジラには出場資格がない。
内心はそのうっぷんばらしがしたい、というところだろう。
カジラは胸を張り、堂々と叫んだ。
「オレさまとここでバトルしてもらうぜ! アリス!」
その目には、確かな闘志が燃えていた。
「いいよ!」
アリスは、一歩前に出た。
英国淑女として、相手の挑戦から逃げるわけにはいかない。
同じく胸を張り、まっすぐカジラを見つめる。
「受けてあげる!」
その声は、力強く――ワクワクの冒険の空気を、一気にガチガチの戦いの緊張へと変えた。




