【004】レイノルドとの対面
瞼の奥に、光が差し込んだ。
わずかに痛みを感じて、アリシアは薄く目を開く。気持ちよく眠っていたところを、無理矢理起こされたような最悪な気分だった。
しかし、自分の意に反して、半ば強引に意識が引き戻された。意思とはなかなか思いどおりにいかないものだ。
目を開けてしばらくすると、ぼんやりとした視界がはっきりとしてくる。
「お嬢さま、お目覚めですか?」
ふと、知らぬ声に呼び掛けられて、アリシアは視線を下に落とした。
ベッド脇に置かれた椅子に座っていたらしい使用人――おそらく侍女だろう――の格好をした女性が、ちょうど腰を持ち上げたところだった。
「こ、こは……」
第一の疑問を口に出すが、まるで何年も喋っていなかったかのように声が掠れてしまった。
水分だ。
まず、水分が足りていない。
「水を……」疑問を解消する前にそう要求すると、女性はベッドサイドテーブルの上に用意されていた水差しから透明のカップに水を注いだ。
アリシアは、上体を起こそうと体に力を入れる。ヘッドボードに背中を預けることには成功したが、視界が不安定に揺れていることに気がついた。
女性からカップを受け取ろうとするが、うまくいかない。無理に握りこもうとすれば落としてしまうだろうと確信があった。
そんなアリシアの様子を見て察したのか、女性はアリシアの両手にカップを握らせ、そのさらに上から自分の手を重ねた。
支えてくれるということらしい。
「……ありがとう」
礼を述べつつ、カップに口をつける。
冷たい水が喉を伝い、そこから体全体に染み渡っていくようだった。
「それで……ここはどこ?」
カップを女性に返し、アリシアは改めて訊ねる。
「バーナム公爵邸です、お嬢さま」
答えは至って簡潔なものだった。
どうして――とは思わない。
自分を見つけ、連れ帰ろうとする人間など一人しかいないからだ。まさかそんなことをするなんてという驚きはあるが。
「……彼は今どこに?」
再び訊ねると、女性の表情がやや強張った。
「『彼』とは……」
「わかっているでしょう。彼を連れて来てちょうだい」
少し厳しい言い方になった自覚はある。だが、視界の揺れが収まらない。気持ち悪い。徐々に感情のコントロールが難しくなっていくのがわかる。
「……説明は、旦那さま方からあると」
「ええ、もちろん。閣下と夫人にはあとでご挨拶します。でも、その前に彼と話したいわ」
アリシアの頑なさに負けたのか。
それとも単に客人だからか。
女性はしばらく考える素振りを見せたあと、軽く頭を下げて部屋を出ていった。
(……目が回るわ……。少し横になっていようかしら)
アリシアがそう考え始めたとき、閉ざされた扉の向こう側から革靴の音が聞こえてきた。
少し速い、けれども乱れることのない一定のリズム。足音からも、几帳面で真面目な性格をしているのだということがわかる。
扉の前で足音が止まった。
それから、ノックが二回。
迷いを表すように、随分と小さな音だった。
「はい」アリシアの声は決して大きなものではなかったが、伝わったのだろう。
扉が軋んだ音を立てて開く。酷く顔色の悪いレイノルド・エルグランドが現れた。
しかし、どうしていいかわからないというように、出入口のところから動かない。トラウザーズの横で握り締められた拳が、彼の緊張を表しているようである。
「……入らないの?」
「あ……だが」
「話をするのに、いつまでもそこにいられたら何も進まないわ」
「……すまない」
ほとんど唇を動かさずにそう言って、レイノルドは素早い動きでベッド脇の椅子に腰掛けた。
――呼んだはいいものの、特に何を話すか決めていたわけではない。
ただ、見てみたかった。
相手が望まないと知りながら、そうせずにはいられなかった男の顔を。
正義感、偽善。
あるいは保身。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
男を罵倒し、その場をあとにしたアリシアの復讐は終わった。そもそも、あれを復讐と呼んでいいかもわからない。レイノルドが真にアリシアを想っていなければなんの意味もないことだからだ。
だが、それでいい。
自分の復讐が周囲にどれだけ影響を及ぼしたかなど、アリシアにはもはや興味のないことだった。
「……アリシア」
膝の上に置いた自分の手をなんとなしに眺めていると、レイノルドのほうから声を掛けてきた。
顔を動かす。
しかし、視線は合わなかった。
俯きがちに伏せられた顔を正面から見ていると、改めて思う。やはり彼は誰もが憧れる貴公子なのねと。このように美しく、権力のある男に親しげに話しかける権利を与えられていたあの女は、さぞかし舞い上がっただろう。
彼女の過ちはただひとつ。
自分の立ち位置を見誤ったことだ。
妙な真似をしなければ、公爵家による恩恵をこの先も受けられたかもしれないのに。
あの娘は間違えた。
下級貴族の女が上級貴族の男のそばにいられる特別感に食われた。
実際は反対なのだ。
その立場だからこそ、本来は頭を働かせ、うまく立ち回らなければならなかったのである。
まあ、今さら言っても仕方のないことだが。
「とりあえず……生きていてくれて、よかった」
絞り出すような声で、レイノルドが言った。
「ええ」アリシアが淡々と頷くと、レイノルドは「あ、いや」と口早に続ける。
「君を捜そうと決めたのは私で、生きていてよかったと口に出すこと自体自分勝手なのだろうということは理解している。……すまない」
「やっぱり、あなたがわたくしを?」
「……ああ」
「なぜです?」
ガラス玉のように透き通った瞳が、レイノルドに向けられた。
人形のような無機質な視線から身を守るように、垂らされた前髪がレイノルドの表情を覆い隠す。
「わたくし、あんなことを言ったのに?」
はっと息を呑んでレイノルドが顔を上げる。違う、と反射的に否定しそうになった。『あんなこと』ではない。断じて『あんなこと』と言っていいようなことではないのだと。
だが、そうではなかった。
アリシアは自分を卑下したのではない。ただ理解できないと言っているのだ。
ほぼ内定状態にあった求婚を断るどころか、最初から嫌いだったと言って突き放した人間を捜した理由は何かと。
レイノルドは、手のひらに汗が滲むのを感じた。
愛していると告げるのは簡単だ。
嘘偽りない気持ちを口にするだけでいい。
しかし、それがアリシアの心に届くことはないだろう。かろうじて残されていたその欠片に、酷く傷をつけたのは自分なのだから。
そこでふと、アリシアの体がわずかに傾いていることに気がついた。――当然だ!
レイノルドは心の中で悲鳴を上げ、慌てて腰を浮かせる。ガラス玉の瞳が、若干不思議そうな色をまとってレイノルドの顔を追いかけてきた。
「体調が悪そうだ。……無理もない。目が覚めたばかりで無理をさせてしまった」
渋る侍女を説得し、呼び出したのはアリシアのほうなのだが、今のレイノルドにそんなことは関係がなかった。
アリシアに負担がかかっているというのが問題である。
「横になったほうが――いや、とりあえず侍女を戻そう。何か必要なものは? 欲しいものでもいい」
「……いえ、特には」
「そ、うか。わかった。なら、何か思いついたら言ってほしい。いつでも用意させる」
レイノルドは一息にそう言うと、侍女を呼ぶためにベルを鳴らし、部屋を出て行ってしまった。
アリシアとしては話を終わらせたつもりはなかったが、呼び止める間もなかった。
揺れる視界の中、閉まったばかりの扉を見つめる。この揺れはおそらく、気を失う前に摂取した薬物の影響によるものだろう。
それさえ抜ければ、正常に戻るはず。
確か、後遺症が残るようなものではなかった。あのときは、たとえそんな副作用があったとしても、躊躇なく口にしていたと思うが。
目眩がするので、ずりずりと滑り落ちるようにベッドの中に潜り込む。貴族の娘としてはあり得ないはしたなさであるが、今は『元』がつくのでかまわないだろう。
――それにしても。
(あんなに落ち着きのない人だったかしら……)
彼を狙っていた令嬢たちから失望されそうだわ、と思いつつ、アリシアは目を閉じた。




