第五話:一一一
───大学病院の屋上にて......
夜にしては明るく、夕方にしては暗い逢魔時を二人の男が無言で眺めていた。
手すりに両腕を乗せる無精髭が目立つこの男、一一一。その身長を少しでも高く見せようとしているのか、彼は厚底のブーツを履いていた。しかし、視線を奪うのはその足元ではない。彼の体から漂う、強い酒の匂いだった。
その匂いは穏やかに吹く風に乗って、隣にいるコートを羽織る患者衣の青年、雨宮凛の鼻をくすぐる。だが、その顔に反応の色はない。実際に嫌な顔をしているのは、内側の存在だった。
(お願いだから一歩後ろに下がってくれないかな......ウッ、吐きそうっ...)
......そう、凛だ。
病室から出る際、体の主導権をジンへ託していた。理由は単純明快...一一に対する警戒心。そして、あの夜持ち歩いていたタバコ。バレたら停学処分になってもおかしくはない。それだけは避けたかった。ここまで育ててくれた”あの人”に顔を見せられなくなってしまう。
凛、そしてジンの身体は同じであっても、運動神経は全くの別物......得意不得意が鏡写しのように異なる。
隙を見て、目の前の刑事から逃れようと考えていたのだが......
──なんで屋上なんだ?『署までご同行お願いします!』なんて言われると思ったんだが、実際何考えてるのかわかんねぇんだよな...このおっさん......
「んで?空を見せるためにわざわざ俺をここに連れてきたのか?随分ロマンチックなこった。告白にしては”今日は月が見えませんね”だ」
(うっ......気持ち悪くて倒れそう...)
凛の嗚咽が耳障りで鬱陶しい。仕方なく一歩引いたところで会話をすることに......
「人目のない場所に来たかっただけだ...」
「おっさん...俺がタイプなんていい趣味してんな!悪ぃけど、女枠も男枠も満員なんだよなぁ。告白は諦めてね?ハートッ!」
(ジン?しつこい男はモテないって前に君が言ってたよね?)
一一は言葉を返すこともなく、ぼんやりと空を眺めていた。会話を好まない性格なのか、何かを考え込んでいるのか。
病院内には病室を含め、至る所に監視カメラが設置されている。しかしこの屋上にはそれらしいものは確認できなかった。はじめからそれを知っていたのか、クシャクシャの紙袋から見覚えのあるタバコを取り出した。
金に輝く逆さ鳩の目立つそれは、父が吸っていたものと同じPeaceだった。
「...っ!おっさんもPeace吸うのか!俺にもくれよ!......あっ」
口が滑った。だが、一一は何も問わず、タバコを一本渡してきた。
「ふんっ、気にするな、今日は非番だ...」
箱の中を覗くとタバコの本数は残り一本。ジンに渡されるまでは二本あったことになる。つまりこのPeaceはこの男のものではない。次にzippoを取り出す頃にはそれが確証へと変わった。
まるで自分のものかのように当たり前に火を灯し、ふっと吐き出された呼出煙が、空に消える。脳内に眠っていたあの”消えない蝋燭”を呼び起こした。一一もまた、友であった凛の父......そして、自身の家族の面影を呼び起こしていた。
「甘いな、久しく吸っていなかったせいか......美味しくはない」
「だったら吸うなよなっ、返せっ!」
(敷地内禁煙です。あと禁酒してください......)
男から取り返したzippoで最後の一本に火を灯す。本題に入るのに数分かかることとなった......
「そういや雨宮の倅...お前記憶が無いらしいな...」
一一はゆっくりと語り始めた。雨宮凛について、過去の経歴を全て記憶していた。警戒心がさらに高まる一方、全てはある事件を追ってのことだと一一は言う。
過去数年間に渡り、頻繁に起きた火災事故。当時はあらゆるメディア媒体で大々的に取り上げられていたのだが、凛は記憶を失っていた為知る由もなかった。
渡されたスマートフォンに映るのは、当時反響が大きかったネットニュースの数々...... SNSでは皮肉にもトレンド入りを達成していた。ネット民に名付けられたその名は”彼岸の火主”。”クロヒガ”とも呼ばれている。
火災現場には必ず、紙でできた黒い彼岸花が犠牲者の人数と同じ本数添えられていた。名前の由来はその花から来ている。
警察は愉快犯の可能性が高いと判断し、事故から事件へと切り替え捜査を開始。だが、何一つ有力な情報を掴む事なく、事件は終息していった。
放火魔は永遠に闇の中へと消えた......はずだった。
「んで?その事件と俺に何の関係があるんだ?もう終わった話だろ?」
「一度はな...だが、再び現れた」
凛が病室で目覚める三日前、ある一家が火災により焼死。現場付近には燃え残った彼岸花らしき紙が添えられていたと言う。
「だから、俺と何の関係があるんだって......その家族に同情でもしろっていうのか?悪ぃけど”俺たち”に、そんな余裕はねぇよ」
ジンは胸の奥に鈍い痛みを覚えた。凛の感情が、胸の内側で暴れている。
──...くそっ、さっきから苦しいんだよ......このバカは人が良すぎる...ったく、体に毒だぜ...
右目が熱く、やがてこぼれ出す涙。それは凛の涙でもあった。
その様子を横目にタバコを吹かす一一。
「”お前達二人”には刺激が強かったようだ。ハンカチ使うか?」
胸の痛みがピタリと止まり、寄越されたハンカチを無視し、涙を拭う。
「別にっ!俺は何ともねぇよ...!凛は別だけっ...て、は?」
「”DID”か...情報では記憶障害と記載されていたはずだが、人格の交代が明確すぎる。口の利き方も、目つきも、別人だ......馬鹿でもわかる。」
多重人格......正式にはDissociative Identity Disorder『解離性同一性障害』だ。心的外傷やトラウマ体験、耐え難いストレスからなりうる障害。国内人口の約9%が何かしらの障害を抱えているが、DIDはさらに稀である。
(ジン、変わって。)
「おいおい、いいのかよ?」
ジンは体の支配を解き、権限を返却した。
──信じてもらえるかは分からないけど、何故だかこの人に話したい......話すべきだ。
凛は、自分の過去を語った。両親を亡くした夜のこと。蝋燭に火を灯した理由。嫉妬と寂しさ。後悔と逃避。そして、ジンの存在。
話を遮るどころか表情を全く変えず、その話を静かに聞いていた。気づけば空は星で覆われ、小さな満月が色濃く宙に留まっている。
「そうか、お前の中の嫉妬心が、お前の両親を殺したんだな......ジンという人格はその後現れた...か。信じる奴は少ないだろうな」
凛はただ頷いた。
クロヒガという放火魔の話を聞いて、僕は期待していた。もし、両親を殺した相手がその人物なら、自分が犯した罪の意識......そこから脱却できると思った。......いや、ただなすりつけたかったんだ。だけど、その期待は簡単に裏切られた。あの日......彼岸花はどこにも無かったんだ。
「雨宮の倅......お前にはまだ家族がいる。友人がいる。皆...大切な存在だ......」
その瞳は何を見ているのだろうか...月すら映らない、一切の光を拒絶した漆黒の瞳。その表情は何を思うのだろうか。どんな時に使うのだろうか......僕はそれを知らなかった。
「一さん...?」
風が吹いた。一一の言葉は淡々としていた。
「当たり前のように側にいた大切な存在。当たり前だから気づけずにいた。それが当たり前じゃないことにな。俺は選択を間違えた...取り返しのつかない選択をしてしまったんだ。雨宮の倅......人はいつ会えなくなるのか分からない。お前は、俺のようにはなるなよ。死ぬ時は...後悔のないように死ぬんだぞ?」
「何言ってるんです......?」
次の瞬間、乾いた銃声が夜空を裂いた......
「......え、」
(......はっ!?)
凛の目に飛び込んできたのは、数秒前まで会話を繰り広げていたはずの......倒れ伏した男の姿。頭部から溢れる赤黒い血と散らばった肉片。そして、その顔に浮かんだ、最初で最後の笑顔だった。
静かな夜が、重く凛を包んでいた......
変神、第五話をご覧いただきありがとうございます。シーンの一部を変更させていただきました。申し訳ありません。