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追憶

「辻村さん、なにか落としましたよ……いえ、失礼しました。なんでもなかったようです」

「先生! ちょっと待ってください。誤解なんです!」


 皐月はその場で何も見なかった振りをして去ろうとする人物を掴んで必死な思いで留まらせる。


「ぬおー!」

「それは女性が出していい言葉ではないでですよ」


 気合を入れて掛け声を上げていると、そんな風に突っ込みを入れられてしまった。

 その際にその人物は立ち止まっていたので、えへへと皐月は作ったような笑い声を出しながら手を離す。

 普通に注意されるのはよくあることなのだが、なんだかこのときは恥ずかしかった。


「ちょっと待っててください」


 そう告げてから皐月は落としたものを拾ってから、小走りにその人物のもとへと戻ってくる。

 戻ってくる時に視線を合わせてもらえずに、開放して欲しいなという思いが体全体から放出されているような錯覚を覚える。

 しかし、誤解を解くまでは逃げられるわけにはいけなかったのだ。


「先生、よく見てください」

「……ええ」

「何もおかしいものではありませんよね?」

「………………それは同意しかねますが」


 そういって皐月が持っているものに目を落とす。

 次に首をかしげた。

 やはり、皐月が持っているにふさわしいものとは思えないのだが。


「なんでそんな不満げなんですか! 別におかしくないでしょう!? 私がパンツを持っているからって!」


 パンツだった。

 トランクスタイプのである。

 つまり、男性用だった。


「……えっと、辻村さんは実は男性、ということなんですか?」

「なんでそうなるんですか!? 女に決まってますよ!」

「………………そうなんですか」

「疲れた表情を浮かべてらっしゃる!?」


 当たり前だった。

 そのまま去ろうとするも、皐月が引き止めるのでどうすることもできない。

 皐月が口早にアイドルの翔君が使っていたパンツなどという説明を嫌々ながら沈黙して聞いているしかなかった。




 これが皐月と先生――坂本修――との初めての長いコミュニケーションだった。

 きっかけは些細なことであるとはいうが、皐月にとってもそれは当てはまっていて、それから何かあるたびに修に話しかけた。




「坂本先生ちょっといいですか」

「大丈夫ですよ、どうかしましたか」

「昨日のテレビで翔君といけすかない女優が楽しそうに話していた件について、熱く議論を交わしたいのですが――」

「却下します」


 その日も皐月は修に突撃していた。

 それも職員室の中である。

 ほかの先生たちがぎょっとする中、皐月は修のことしか頭に入っておらず、そのまま会話を続けようとする。

 自分の好きな話題なので、身を乗り出すように興奮している。


「ですよね! 前から好かないと思ってたんですよ。先生にも分かってもらえてうれしいです!」

「そんなこと言ってないですよ」

「ええ!? 先生はあいつのほうが好きだっていうんですか? 心外です。これは戦争ですよ!」

「そうですね。では、とりあえず職員室から出ましょうか」

「望むところ!」


 ずんずんと闘気を身にまといながら歩いていく皐月。

 職員室中の視線が自分に寄せられているのを感じながら、精神を落ち着かせて修との討論への力を高めていく。

 そして、ふと気づいた。

 修は後ろについてきてくれているのだろうか。

 おそるおそる、後ろを振り返ってみると誰もいなかった。

 修の机があるほうをみてみると、かたかたとパソコンに文字を打ち込んでいるであろう修の背中。


「ちょっと先生ー!」




 そんな風に何気のない日常を過ごしていきながら、皐月と修は交流を重ねていった。

 そして、いつからだろうか。

 なにがトリガーになったのかは皐月もよく覚えていない。

 しかし、それでも、いつの間にか皐月は修のことが好きになっていたのだ。




 そして、運命の日。

 溢れるようにまで膨らんでしまったその想いを皐月は修に伝えることにした。

 生徒と先生の立場であるため、世間的にも許されない関係だということはわかっていた。

 でも、抑えきれない気持ちがそこにあった。


 しかし、修の返答は。


「すみません。辻村さんの気持ちに応えることは出来ません」

「…………なんでですか」


 じわりと浮かんでくる涙を隠そうともせずに皐月は下をうつむいていた。

 覚悟はしていたことだ。

 こうなることも十分に分かっていて、一歩を踏み出したのだ。

 それでも、涙は止まることはなく、流れ出てきた。


「僕は先生で、辻村さんは生徒なのです。そんなことをしては非難されますし、辻村さんもこの世をわたっていくことに息苦しさを感じることになりますよ」


 それは皐月も知っている。

 今更そんな言葉で語りかけて欲しくなかった。

 そんな一般論は、聞きたくない。


「でも好きなんです! この気持ちは溢れて止まらないんですよ! どうして、そんな……!」

「辻村さん……」


 どうしていいか分からないと言いたげな困った顔を修は浮かべていた。

 皐月は修の胸をどんと拳で叩く。

 本気の想いが少しでも伝わるように。

 ほんの少しだけでも。


「私が卒業してから、また告白をすればいいんですか」

「……辻村さんにはもっとお似合いの人がいると思いますよ」


 その言葉に皐月は、とてつもないほど怒りを感じた。

 先生は真面目に考えてくれていないのだと、感情が高ぶる。


「私は本気なんです!」

「落ち着いてください」


 なだめるように修は皐月の頭に手を載せた。

 直に伝わってくる手のひらのぬくもりを感じて、皐月はまた涙が流れてくる。

 涙は皐月の激情をも一緒に洗い流して、心を少し落ち着かせた。


 落ち着いた心は皐月の思考をクリアにさせた。

 先生はきっと皐月の想いを受け取ってくれることはないだろう。しかし、それでは納得が出来ない。けっして、一般論では皐月の心はくじけることはないだろう。

 だから――。


「先生、最後にお願いがあります」

「なんでしょう」


 一つ深呼吸をして、絶対的に心臓の鼓動を平常運転にさせてから、皐月はお願いを告げる。


「仮に、私たちが同じ立場だったとして、私と付き合うことは会ったでしょうか」


 その皐月の言葉に修ははっとしたような顔を浮かべる。

 皐月の意図に気づいたのかもしれない。

 これは、きっと終わりへと向かうための鐘なのだ。

 この鐘を一回鳴らしてしまえば魔法は全て解けて、きっといつもどおりの日常に戻ることが出来るだろう。

 そのための儀式である、そう皐月の真剣な眼差しが告げていた。

 修は考えをまとめるような間をとったあと、静かに口を開けた。


「きっと受け取らなかったと思います」

「…………一応、理由を聞いてもいいですか」


 二人の間を一筋の風がまたいだ。

 それはきっと二人の絆を切裂いていたに違いない。

 修は苦虫をかむような顔を浮かべて、逡巡をした後、


「少しきつい言い方をします。……ごめんなさい。あなたのその傷が……女性として意識をするには大きな壁になっているのです」


 これからすこしあとのことになる。

 この世の終わりのように沈んでいた皐月を見かねてか、保健室の斉藤先生は修があそこまで突き放した理由を皐月に教えた。

 どうせなら嫌われてしまおうと思ったらしい。

 とんでもないほどにきつい言い方をして、きっぱりと自分のことを忘れてほしかった。

 そう修は言っていたらしい。


「なんて余計なお世話ですよ。妙にリアルですごい悲しかったのに」

「私もそう思うわ……。まったく口下手よねえ」


 そうやって斉藤先生がはげましてくれたからこそ、少しずつ皐月は立ち直ることが出来たのだ。


 しかしそれでも皐月を形成している深いところに傷をつけていることは確かであり、安易に思い返すことはしてはいけないのだ。

 しかし、プラスの容赦ない思いやりの欠片も篭っていない言葉の暴力は、皐月の精神をむしばんでいく。

 深く深く、傷つけていく。

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