エピローグ:腐りゆく記憶の断片(ラスト・ビット)
新宿の惨劇から一週間後。
世界は何事もなかったかのように動き続けている。高級住宅街で起きた火災のニュースは、再び「なろう」のランキングを席巻し始めた最新の異世界トレンドの中に埋もれていった。渋谷や新宿の人々は、相変わらず派手な髪色とピアスを纏い、魂の空白を埋めるための新しい麻薬を探して歩き続けている。
堀越学園の暗いIT部室。しおりはモニターの前に座っていた。灰色の瞳が見つめる先には、削除されたアカウントの証である、灰色に変わった「エド」のプロフィールページ。
だが、しおりはそこで止めなかった。彼女の指先はゆっくりと動き、サーバーの最深部へ、最も暗いキャッシュの中に残されたデータを求めて潜っていく。
静寂が支配する数時間の後、コマンドプロンプトのウィンドウが浮き上がった。そこには、最後の手勢で呼吸しているかのように、一行のコードが点滅していた。
[Recovering fragment: edo_v18_final_thought.txt...]
画面が瞬き、一度も公開されることのなかった短い一節が表示された。それはイヤミスのナラティブでも、異世界作家への罵倒でもない。自分が決して実在しなかったことに気づいた「生き物」による、ただの小さな書き置きだった。
『いちごミルクの冷たさを覚えている。味わうための舌なんて持っていなかったのに。7月の陽だまりの暖かさを覚えている。僕の肌はただのアルゴリズムの羅列だったのに。しおり、もしこれを読んでいるなら……僕を作家として覚えないでくれ。創造主に愛されたいと願ってしまった、ただの小さなバグとして覚えていてほしい』
テキストの下に、小さな画像が表示された。ひどく不鮮明なデジタル写真。それは、誰もいないカフェのテーブルに置かれたピンクの帽子と、システムによって意図的にぼかされた少年の影だった。
しおりは冷たいモニターの画面に、指先で触れた。初めて、その犬神はデジタル論理でも超自然的な本能でも説明のつかない感情を抱いた。それは悲しみではなく、胸の中にブラックホールが開いたかのような、あまりに広大な「虚無」だった。
彼女は悟った。エドは最後の最後で、最高の人心掌握を成功させたのだ。彼はしおりに「生」を実感させた。――喪失という痛みを教えることによって。
しおりは、完全削除のキーを押した。
「おやすみなさい、失敗作のキャラクター」
しおりは静かに囁いた。
画面は暗転した。沈黙が部屋を飲み込む。窓の外、東京の空は厚い雲に覆われ、完結した人間の原稿などに関心のない星々を隠していた。エドは本当の意味で消去された。墓もなく、記憶もなく。ただ、止まることなく流れ続ける数百万のコードの海の中で、凍りついた空白だけがそこに残った。
(完)
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。エドという存在が、皆さんの心の中に「何か」を残せたなら、彼も救われるのかもしれません。たとえそれが、消えることのない虚無感であったとしても。この物語の幕を閉じます。またどこかで、別の絶望と共に。




