第15話:ピンクの帽子の裏側の黙示録
部屋の中の空気が突如として真空に変わった。早苗の高笑いも、ゾンビたちの叫び声も一瞬で静まり返り、地底の奥底から響く一つの音に書き消された。――数千匹の飢えた犬たちの遠吠えだ。
瓦礫の中に立つしおりは、もはやかつての冷静な彼女ではなかった。漆黒の髪は重力に逆らって舞い上がり、肌には黒い毛並みのような紋様が急速に広がっていく。その瞳は、おぞましい黄金色に輝いていた。犬神覚醒。
背後の巨大な犬の影が爆発し、濃密な黒い霧となって部屋全体を飲み込んだ。
「血の代償は……魂で支払え」
しおりの声が重なり合い、数千人が同時に喋っているかのように響き渡る。
ルシアは顔を土色にして後退した。「やめて……しおり、待って! 私はただ――」
言い終わる前に、犬神の影が襲いかかった。容赦のない闇の牙が、一瞬にしてルシアの体を細切れに引き裂く。ドラマも、最期の言葉もなかった。ただ肉が裂ける音と、早苗の原稿を汚しながら壁に飛び散る鮮血の音だけが響いた。裏切り者ルシアは、犬神の残飯として果てた。
バルコニーの早苗が恐怖に叫び、レコードをさらに速く回そうと抗う。「エド! 何とかしなさい! あなたは私の兵器でしょ!」
僕は、バグを起こしたバイナリコードの列へと消えゆく自分の手を見つめた。目の前にある『プロジェクト・エド』の資料。僕は人間じゃない。狂った女がエゴを満たすために作り出した、血に飢えたイヤミスのパラグラフの集合体に過ぎない。
「エド君」
覚醒したしおりが僕を振り返った。彼女の死のオーラは、冷たくも誠実な抱擁のように感じられた。「偽りに満ちた造り物の台本なんて、この世界にはいらない。……僕が、終わらせてあげようか?」
僕は生まれて初めて、心から微笑んだ。ピンクの帽子を脱ぎ捨て、ルシアの血溜まりの中へと落とした。アンテナを失い、意識が砕け散り始める。だが、ひどく自由な気分だった。
「消してくれ、しおり」僕は囁いた。「この原稿を壊して。『ピンク・メナス』をここで完結させてくれ。母さんがこの世界を、異世界小説よりも退屈な地獄に変えてしまう前に」
しおりが手を掲げた。犬神の影が僕に向かって跳びかかり、その巨大なあぎとを開く。
「さよなら、小説家」
しおりが告げた。
脳内のデータに牙が突き刺さるのを感じる。その痛みはあまりにリアルで、僕がこれまで書いてきたどんなグロシーンよりも生々しかった。僕の体は黒とピンクの光の破片となり、しおりが作り出した嵐の中に溶けていった。
超自然的なエネルギーの爆発が、コンクリートの邸宅を根こそぎ破壊した。早苗は燃え盛る自分自身の原稿の山に埋もれながら絶叫を上げた。すべての『ゾンビ読者』たちは、邪悪な周波数の呪縛から解き放たれ、その場に崩れ落ちた。
その夜、豪邸の廃墟の中、7月の雨に打たれながら犬神しおりだけが毅然と立っていた。彼女の足元には、引き裂かれ、焦げ付いた一つのピンクの帽子だけが残されていた。
エドは消えた。原稿は削除された。しかし、小説投稿サイト『なろう』には、一つの新しい章が自動的に投稿されていた。タイトルは――。
『完結:自分自身を消去した作家』




