三、藤紫の記
季節は巡り、再び藤の花の盛りが訪れた。だが、藤霞村に満ちていたはずのあの柔らかな香は、今は記憶の底で遠く揺れている。紫苑は桐原家の屋敷の一室にありながら、夜ごと藤の影を夢に見るのだった。
障子を透かして射す月明かりは白く、外の庭には手入れされた藤棚が風に揺れている。
──あれは村の藤と同じではない。けれど、紫苑はそこに亡き母や仲間たちの面影を見出し、胸の内でそっと祈りを捧げた。
「また……藤を見ていたのか」
低く静かな声に振り返ると、朔真が縁側に立っていた。
篝火の灯が彼の横顔を照らし、その眼差しには憂いが宿っている。
紫苑は少しだけ目を伏せ、言葉を選ぶように答えた。
「……はい。藤は、私たちの命を繋ぐ祈りでしたから」
朔真はしばし黙し、やがて彼女の隣に腰を下ろした。静かな夜風が、二人の間を通り抜けていく。
夜の帳が静かに降りる頃、桐原家の庭には静寂が満ちていた。藤の花房は月明かりを受けて淡く輝き、夜風に揺れるたびに微かな香を放つ。
「こうして並んで花を眺めていると、不思議と心が澄む。だが……そなたは、いつもどこか遠くを見ているように思える」
紫苑は小さく息を呑み、視線を伏せた。
自分が鬼であることも、村を失ったことも告げることは出来なかった。
この温もりを失ってしまうことを恐れたのだ。
「私は……」
かすかに震える声を、朔真が遮った。
「言わずともよい」
彼の眼差しは驚くほど真っ直ぐで、柔らかかった。
「そなたが誰であろうと、何を背負っていようと……私は恐れぬ。そなたの瞳には、ただ強さと優しさが映っている」
紫苑の心が大きく揺らいだ。
怖い。けれど、この人なら──。
次の瞬間、そっと手を取られた。温もりが指先から胸の奥に広がっていく。
「紫苑……共に歩んでほしい」
胸に熱いものがこみ上げ、返す言葉は涙に変わった。
「……はい」
頬を伝う涙を朔真の指が優しく掬い取る。
「……愛している」
囁く声に熱が孕む。
「愛しています。初めて会った時から……」
唇が重なった。痺れるような感覚に紫苑の吐息が漏れる。
静寂の中、互いの想いを確かめ合うように抱き合った二人の息が混ざり合い、溶け合って、やがて、ひとつになった。
藤の花が夜風に舞い落ちた。
屋敷の庭はしんと静まり返り、風に揺れる藤の花が淡い影を落としている。
藤棚の下に佇む紫苑は、胸元に下げた紫の勾玉にそっと触れた。
冷たい石の感触が、どこか心を締め付ける。
「……私は、逃げている」
唇から零れた言葉は、夜気に吸い込まれていった。人に己の正体を告げられぬまま、愛を受け入れてしまった。
本来なら、許されぬはずのこと。
けれど──。
瞼を閉じ、静かに唄を口ずさんだ。
母から受け継いだ子守唄。
藤の花々がその旋律に呼応するように揺れ、夜の闇に淡い光を散らした。
己は鬼。決して人にはなれぬ。
それでも人を喰らわぬと誓った一族の誇りを、この胸に刻んで生きてきた。
裂鬼の血を拒み続ける限り、人と共に歩むことができる──そう信じたい。
勾玉を握り締めた。
「この道がたとえ、朝に届かぬと知っていても……」
声は震えても、その瞳に宿る光は決して揺らがなかった。
紫苑は、あの日以来一度も訪れることのなかった藤霞村の入り口で、ひとり足を止めた。
美しかった藤棚は見る影もなく崩れ落ち、紫苑を迎えてくれた仲間達の姿も、もうどこにもない。
村は、砂と煤けた木屑ばかりの荒地となりーー何もかもが裂鬼に奪われてしまったのだ。
紫苑は村外れの古井戸があった場所に足を運んでいた。僅かに残る石の影に、小さな白い骨を見つけた。
それをそっと手のひらで包むと、細かな砂となって風にさらわれていった。
「ごめんなさい。助けてあげる事が出来なかった……」
涙をこぼしながら、紫苑はそっと手を合わせた。
ある春の夜、屋敷の奥、灯りの洩れる一室に、短い産声が響いた。
紫苑は汗に濡れた額を枕に預け、かすかに震える腕で赤子を抱いた。
小さな命は、あたたかな体温とともに胸の中にすっぽりと収まっている。泣き声はすぐに収まり、愛らしい小さな手を握りしめた。
「……葵」
名を呼んだ瞬間、紫苑の瞳から涙がこぼれ落ちた。細くか弱いけれど、確かに息づく存在。この子は、己と朔真を結ぶ絆そのものだった。
障子の向こうで足音がした。朔真が静かに部屋へ入り、赤子を覗き込んだ。その眼差しは、いつもの凛々しさではなく、ただ父の優しさに満ちていた。
「我らの……光だな」
低く呟いたその声に、紫苑は微笑んだ。
彼の心の奥に、影月の声が忍び込んでいることを紫苑は感じていた。
――私が二人を守る。この命に変えても。
紫苑は子守唄を口ずさんだ。
母から受け継ぎ、自らも幾度となく口にした旋律。藤の花が夜風に揺れ、赤子の寝息と重なり合う。
眠れ眠れ 月の子よ
影は揺れて 花は落つ
千の夜を 超えし時
真の朝は 汝を待つ
歌いながら、紫苑は小さな葵の頬にそっと口づけた。
──たとえ未来がどれほど闇に覆われようと「真の朝」はやって来る。
藤の花は、春の夜に音もなく舞い落ちていた。
完
読んで頂きありがとうございました。
この作品は、『月影ノ誓』から派生した物語です。本編で消化不良気味だった、紫苑の背景や朔真との運命の再会を、なろう用(R15バージョン)に書き直したものです。
やっぱりラブストーリーは苦手です笑




