二、運命の再会
季節は巡り、藤霞村にも再び花の香が満ちる。
紫苑は十六になっていた。
幼い頃からの美しさに、匂い立つような艶やかさが加わり、すれ違うものは男女を問わずため息を零す。だが、その瞳には静かな強さが宿っていた。
純血の鬼として背負うべき覚悟と、揺るぎなき意思がそこにあった。
けれど、心は相変わらず揺れていた。
かつて出会った一人の少年の姿が、今も胸に残っている。
血の滲む足に布を巻いてくれた手の温もり、抱き止められた時の胸の鼓動を夢のように思い出すと、体の奥深くが熱を持ったように疼く。
しかし、その淡い憧れが現実に引き戻されるのは早かった。
ある宵のことだった。
藤霞村を覆う藤の花房がざわめき、風もないのに枝葉が震えた。山の奥から、低い呻き声のようなものが響き、里の空気が急に凍り付く。
やがて闇の中から姿を現したのは、赤黒い瞳をぎらつかせた影──裂鬼族であった。
かつては同じ純血の鬼でありながら、人を喰らい、その血を己に混ぜて変じた者たち。鋭い牙の間からはまだ温かい血が滴り、爛れた肌には人のものと思しき衣が絡みついている。
「見つけたぞ……まだ清らかぶる者どもが生き残っていたか」
「人を喰わぬ?くだらぬ掟に縛られ、ただ怯えて生きるだけの半端者め」
裂鬼たちの嗤い声が、夜の藤を震わせた。
村の鬼たちは震えながらも立ち上がるが、声を上げる間もなく切り刻まれる。
戦いとは無縁の平穏な暮らしは、彼等の牙を鈍らせたのだ。
純血の誇りとは「人を喰わぬこと」であり、それは同時に「力を得ない」という弱さでもあった。
裂鬼のひとりが、血濡れの爪で地を裂いた。土が跳ね、火の粉が舞う。
逃げ惑う女達にも容赦なく爪が襲い、倒れた母親の側で幼子が泣いていた。
「私と一緒に!」
亡骸に縋っている体を抱き上げた紫苑は、悲鳴と火の粉が降る中を走った。
息が切れて足がもつれると、崩れた古井戸の影に身を隠した。
「泣いては駄目よ。怖い鬼に見つかってしまう」
震える小さな肩を抱きしめた紫苑は、勾玉に祈ることしか出来なかった。
その時、裂鬼の前に杖をついた老女──村の長老が進み出た。
皺だらけの顔を炎に照らし、揺るぎない声で裂鬼を睨む。
「なぜ今になって姿を現した。……お前たちの王、影月は桐原の鬼祓いによって封じられたはず。長き時を経て、何ゆえにまた血を求める」
裂鬼たちは赤黒い瞳をぎらつかせ、嗤い声を上げた。
「封印など、もはや薄皮よ。鬼祓いの力は衰えた。桐原の血脈も今やただの人。影月は目を覚ましつつある」
「我らはその呼び声に応じただけ。貴様らのように藤の陰で震えて暮らす弱き者どもには分かるまい」
長老の眉がわずかに揺れる。だがその瞳は怯まず、声を張り上げた。
「愚かな……人を喰うて獣と成り果てた身で、影月に従うなど!」
「黙れ!」
裂鬼の咆哮と共に、鋭い爪が閃いた。
次の瞬間、長老の喉が裂け、炎の中に鮮血が飛び散った。紫苑が小さく悲鳴を漏らす。
「我らは……いずれ……、滅びゆく運命。それはお前達も同じ……」
長老の言葉を鼻で笑い、とどめとばかりに爪が腹を貫いた。
真っ赤な血が紫苑の顔に飛んだ。
村を導いてきた者の命が、あまりにあっけなく奪われた。炎の熱の中、藤の花びらが無惨に散り落ちる。
むせ返るような濃厚な血の匂いが、藤の花の甘い香りと混ざる。
痺れるような感覚と共に、抗いがたい渇きに紫苑は悶えた。
――違う、私は……あいつらとは違う。
「やめて!!」
立ちはだかる紫苑を見た裂鬼は嗤った。
「弱いものがいくら喚こうと、我らに傷ひとつ付けることは出来ぬ。人を喰らわぬお前たちは、鬼の名を汚すものだ!」
嘲る声は怒号となり、村は炎に包まれていった。
「もうこれ以上、誰も傷つけさせない。人を喰らわずとも、我らは誇り高き鬼だ」
声は震えたが、その瞳は真っ直ぐに裂鬼を見据えていた。
「ほう……面白い。お前の勇気に免じて、皆を助けてやってもよいぞ」
裂鬼の視線がゆっくりと動き、紫苑の体を舐めるように見た。
「ただし、お前の全てを我に捧げよ」
血の滴る爪が、紫苑の首筋をするりと撫でる。襟元が大きく開かれ、白い胸元が顕になった。
「我らの血とお前の血、交わればどうなるか……試してみるのも一興だ」
爪が紫苑の柔肌に浅く食い込んだその時、胸の勾玉が光を放った。
「我ら純血の鬼の力を見せてやる!」
勾玉の光は紫苑の全身を包み込み、眩い刃となって裂鬼の爪を腕ごと弾き飛ばした。
「ば、馬鹿な……小娘が、この我を……!」
紫苑の胸は激しく上下し、力に呑まれそうになるのを必死に堪えていた。
「これが……我ら純血の力。私は……皆を守る……!」
だが光は長くは続かなかった。次第に弱まり、紫苑の膝が地に落ちる。
裂鬼の口角が不気味に吊り上がる。
「フハハ! 所詮は雛鳥よ。餌を啄ばむ力すら持たぬか!」
爪が再び振り下ろされる——その刹那。
「紫苑!」
母の叫びと共に、強烈な風が巻き起こった。紫苑の身体は母の腕に抱かれ、炎を突き抜けて運び出される。
「……紫苑、逃げるのです!振り返っては駄目」
「お母さま、一緒に逃げよう!」
「行きなさい!早くっ」
背後で、仲間の断末魔と母の叫びを聞いた気がしたが紫苑は走った。足がもつれて転んでも、立ち上がりまた走る。
夜風が血の匂いを運んできたが、後ろを振り返る余裕はなかった。
──なぜ同じ鬼でありながら、ここまで互いを憎むのか。
その問いの答えは見つからないまま、紫苑は意識を手放した。
気が付けば、山を抜け、夜明けの光の中で力尽きていた。紫苑は道端に倒れ込み、霞む視界に空を見た。
「お母さま……」
どれ程の時をそうしていたかわからない。逃げる途中で草履が脱げたのだろう。裸足の足には既に感覚がない。体だけではなく、心にも濃い霧がかかっているようだった。
「そこの娘、如何致した」
突然かけられた声にぴくり肩が揺れた。見上げると、馬上から彼女を見下ろす若き武士の姿があった。
「……そなた、顔色が優れぬな」
声は低く落ち着き、温もりの中に強い信念を帯びていた。
私は夢を見ているのかしら――
この時の紫苑には、これが夢か現か判断することが出来なかった。
武士は馬を降り、泥に膝をついて紫苑を抱き起こした。陽に焼けた頬、凛々しい眼差し、手に宿る優しさ。
彼は、桐原藩の嫡男──朔真であった。
「酷い怪我をしている。安心しろ、もう心配ない」
差し伸べられた手が傷付いた足に触れた時、紫苑の心が震えた。
あの時と同じ、真っ直ぐな眼。
あの時と変わらない手の温もり。
けれど、もう自分は幼い少女ではない。
──私は鬼だ。
純血なる鬼であることに誇りを持っている。喰わぬ鬼である事を弱いとも思わない。それどころか、喰わぬ事で古から続く鬼の祈りの力を護ってきたのだ。
紫苑は胸に下げた紫の勾玉にそっと手を触れた。
人間は恐れるだけのものではない。ましてや憎む対象でもない。
だが、人間はそうではない。彼らにとって鬼は鬼。命を脅かす忌まわしいものなのだ。
胸の奥で、喜びと恐怖がせめぎ合った。
掟を破ってはならぬ。
この人に知られてはならぬ。
だが、彼の声はすでに紫苑の心を揺さぶっていた。
その後、紫苑は桐原藩の屋敷に身を寄せることになった。身寄りのない娘として。
朔真は身分を問わず、彼女を丁重に扱った。
「名は何という?」
「……紫苑と申します」
自分が鬼であることも、あの出会いも、決して告げてはならない。
藤の花の鎖を越えてしまった紫苑は、運命の再会に震えながらも心の奥で密かに願っていた。
せめて、もう少しだけ。
この温もりの傍にいたいと。




