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一、藤影の少女

月影ノ誓のスピンオフ作品です。単体でもお楽しみいただけますが、先に『月影ノ誓』をお読みいただくことで、二人の想いの強さと儚さを、より深く感じていただけると思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

※こちらは連載として再投稿したものです。

 山深く、霞の奥にひっそりと抱かれた里があった。

 名を藤霞村(ふじがすみむら)という。


 春の盛り、里を囲む古木の藤が一斉に花を垂らすと、紫の花房が風に揺れ、村全体が淡い靄のように染まる。花の香は甘く、清らかな水脈に溶けて、山鳥すら静かに囀りを潜める。まるでこの世の理から切り離された幻のごとき景色であった。

 藤は村の守りであり、また鎖でもあった。

 人の目を遠ざけ、同時に鬼の血を閉じ込める。そこに暮らすのは、人ならざる者──純血なる鬼の一族である。

 彼らは人に姿を見られぬよう、決して里の外に出ぬ。人の血を啜ることもない。紫の衣を纏い、藤を護り神とし、ひっそりと暮らしてきた。


 その里に、一人の少女がいた。

 名を紫苑(しおん)

 齢は十を越えたばかり。無垢な笑顔には未だ幼さが残るが、その黒髪は夜の闇を映したかのように黒く艶やかで、透き通るような白い肌と深い紫の瞳は、既に子供のものとは思えぬ艶かしさがあった。

 ほのかに膨らみ始めた乳房の奥、その心には「掟」と「宿命」という重さがすでに影を落としていた。


 ──人の世に決して近付いてはならぬ。

 ──鬼である己を知られてはならぬ。


 村の大人たちは口を揃えてそう言い聞かせる。

 けれど紫苑は、ときに藤の花の下で空を仰ぎ、霞の向こうにある世界へ思いを馳せた。

 笑いさざめく声。畑を耕す音。灯のともる家並み。

 そのすべてを、一度でよいからこの目で見てみたいと。


 夕暮れ時、村の広場には藤の花房が風に揺れていた。

 紫苑は母の膝に寄りかかりながら、耳に馴染んだ唄を聴いていた。


 眠れ眠れ 月の子よ

 影は揺れて 花は落つ

 千の夜を 超えし時

 真の朝は 汝を待つ


 母の声は静かに澄み、藤の花々が囁くように揺れた。

 幼い紫苑にはこの唄の意味はわからない。けれど、これを聞くたび胸が温かくなる。

 同時に、不思議な哀しみが滲んでくる。


「おかあさま、この歌……どうして朝を待つの?」

 

「……いつか、必ず夜が明けるからよ」

 

「夜が明けたら、わたしたちは人の世に出られるの?」

 

 問いかける紫苑に、母は一瞬だけ言葉を詰まらせ、やがて微笑んだ。

 

「その日が来るかどうか……それは、神のみぞ知ること」


 母の横顔には、やわらかな笑みと同時に、影があった。

 紫苑は言葉の意味を測りかねながらも、その影を心に刻みつける。


 やがて日が落ちると、子どもたちが集まって鬼ごっこを始めた。紫苑も駆け出し、笑い声を響かせる。

 乱れる裾から膝頭が覗くのも気にせず走る姿に、男達の視線が絡む。


「紫苑!はしたないですよ」


「はぁい」


 母の声にペロリと舌を出す姿は、まだまだ子供である。

 けれど遊びの最中でも、ふとした瞬間「外の世界」に思いを馳せ、遠くを見つめる。

 人は、どんな声で笑うのだろう。

 人は、どんなふうに家族と過ごすのだろう。

 

 ある夜。藤の影に焚き火が焔を揺らしていた。

 紫苑は母に伴われ、村の広場に座っていた。他の子供達も同じように静かに座っている。ぱちりと火が爆ぜた。煙が夜風に流れ、藤の花の甘い香りに混じって鼻を刺す。紫苑は涙ぐみながら、白髪を長く垂らした老女を見た。

 里の長老である。

 深い皺に覆われた表情(かお)は石像のように動かない。やがて、低くざらついた声が夜空を震わせた。


「よく聞くのだ、子らよ。我らは鬼である。人に姿を知られてはならぬ。人は我らを恐れ、憎む。見つかれば、追われ、討たれるだろう」


 紫苑は息を呑んだ。炎の揺らめきに赤く照らされた長老の顔がひどく恐ろしく見える。

 子どもたちは一斉に身を縮めた。


「忘れるな。人は我らを分け隔てぬ。純血も、裂けしものも、同じ鬼として忌むのだ」

 

「……裂けしもの?」


 紫苑が小声で母に問う。母はそっと紫苑の手を握り、目を伏せた。

 

「人を喰らい、己を汚した鬼たちのことよ。かつて我らと共にあったが、もはや同胞にあらず」

 

「なぜ……人を喰らったの?」

 

 母は答えず、ただ焔を見つめた。

 老女は語りを続けた。

 

裂鬼族(れっきぞく)は人を喰うことでその血を混ぜ、力を得た。だがその代償に心を失い、獣と化した。あれらのせいで我らは人に忌まれ、狩られる身となったのだ」


 紫苑は焚き火の熱を感じながら、背筋を冷たいものが伝うのを覚えた。

 もし人間に見つかれば、自分も裂鬼族と同じに思われるのだろうか。

 ……人とは本当に恐ろしいものなのだろうか。

 火の粉がひとつ舞い上がり、夜空で消えた。

 紫苑は心臓をぎゅっと掴まれたように感じた。怖い。けれど、どこかで問いが芽生えていた。

 本当に人は、ただ恐ろしいだけの存在なのだろうか。

 その夜から、紫苑の心にはひとつの棘が刺さったままだった。



 幾日か過ぎた昼下がり。

 紫苑は母の目を盗み、村の外れへ足を運んでいた。

 胸がどきどきと鳴りやまない。掟を破ることは重大な罪。けれど、好奇心を止めることは出来なかった。

 ──知りたい。

 人は本当に、鬼を憎むばかりの存在なのか。


 藤の花は次第にまばらになり、木漏れ日が強く差し込む。草いきれが濃く、夏めく匂いが肌にまとわりついた。紫苑は喉が渇くのも忘れて歩き続けた。


 やがて丘の上にたどり着くと、遠くに人里の煙が見えた。

 紫苑は大きな木の陰に身を潜め、目を凝らした。


 畑に広がる人々の姿。

 日に焼けた背を曲げ、泥にまみれながら鍬を振るう男たち。

 笑い声を上げて駆け回る子ども。

 小さな手を抱き上げ、叱りながらも頬を撫でる母親。

 その光景は、長老が語った「恐ろしい人間」とはあまりにもかけ離れていた。

 紫苑は思わず手を伸ばしかけた。煙の匂いと土の匂い、風に運ばれる笑い声。すべてが眩しくて、なぜか胸が熱くなった。


 その時だった。


 ぱきり──。

 足元の枝が折れ、乾いた音が響いた。


 紫苑は息を呑み、慌てて身を引いた。だが木の根に足を取られ、草むらに転げ落ちた。

 

 慌てて体を起こすと、足首に鋭い痛みが走った。見れば、岩で擦りむいて血がにじんでいた。


 心臓が跳ねる。血を見られてはいけない。人に知られては──。


 草をかき分ける音が近付いてくる。紫苑は震えながら息を殺した。

 現れたのは、一人の少年だった。

 年の頃は紫苑とそう変わらぬか、少し上くらい。日に焼けた頬に泥をつけ、澄んだ眼をしていた。


「大丈夫か?」


 その声は驚くほど真っ直ぐで、温かかった。

 紫苑は言葉を失った。敵意も恐れもなく、ただ自分を気遣うその眼差しに胸が揺さぶられる。

 少年はしゃがみこむと、紫苑の足首を見て眉をひそめた。

 

「怪我してるじゃないか。……ちょっとそこで待ってろ」

 

 そう言うや否や、紫苑をそこに残したまま駆け出した。程なくして戻ると、水を満たした欠けた椀を手にしていた。


「畑仕事で汚れていたから川で洗ってきた」


 見れば確かに、頬も手も土が落とされている。


「桐原の水は綺麗なんだぞ」

 

 紫苑の傷の周りについた草や土を椀の水で流すと、懐から出した手拭いを、びりりと裂いた。布の裂ける音に紫苑は目を見開いたが、喉が詰まったように言葉が出てこなかった。

 少年はそれをぎこちない手つきで、足首に巻き付けた。

 

「よし、これで少しは楽になるだろ」

 

 顔を上げた少年は、白い歯を見せて笑った。

 

「もう大丈夫だ」


 その屈託のない笑みは、紫苑が想像していた恐ろしいものではなかった。

 ただ誰かを助けようとするその心は、自分達と何ら変わらないように思えた。


「あ、ありがとう」


 紫苑が小さな声で礼を言うと、少年は一瞬驚いたような表情の後、柔らかく微笑んだ。


「立てるか?」


 差し伸べられた手を握ると、力強く引かれた拍子に、少年の胸に飛び込む形になった。


「きゃっ!」


「すすす、すまぬ!」


 鼓動が胸を叩くのを感じながら、二人は顔を見合わせて笑った。

 名を尋ねることも、名を告げることもなかった。けれど、足首に巻かれた布が二人の心を繋いだ。


 村に戻ると、母が待っていた。今まで見たことのないような険しい表情に、紫苑は小さく震える。


「掟を破ったのですか」

 

 叱責の言葉は鋭かったが、瞳の奥に浮かんでいたのは恐れと哀しみだった。

 紫苑は唇を噛みしめ、何も言わなかった。

 ──言えない。

 人が優しく手を差し伸べてくれたことも。自分達と何も変わらない心を持っていることも。

 母は紫苑の足首に不器用に巻かれた布を見たが、それ以上何も言わなかった。

 

「どれだけ心配したことか……」


「ごめんなさい」

 

 それは紫苑が初めて胸に抱いた、誰にも言えない秘密となった。

 小さな鼓動はまだ形を持たぬ感情となり、胸の奥で鳴り続けていた。

 

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